※この記事は2014年08月21日にBLOGOSで公開されたものです

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大学院に在学中に、自己免疫疾患系の難病を発症し、その闘病体験をまとめたエッセイ『困ってるひと』が20万部を超えるヒットとなった作家・大野更紗氏。2013年2月に「卵巣境界悪性腫瘍」が見つかり、卵巣と子宮を全摘出、抗がん剤治療を経て、現在は芸能活動を再開している麻美ゆま氏。若くして大病を経験した両氏が、それぞれの経験をもとに「女性と闘病」をテーマに語り合った。対談の模様を前後編でお伝えする。(構成:永田正行【BLOGOS編集部】)

最初は受け止められず、「先生、嘘ですよね」と思った

永田:今回のテーマは「女性と闘病」です。健康に日々を過ごしていると、自分が体調を崩した際にどういう状況に陥るか、ということについて考える機会はあまりないと思います。特に、若い方は自分が病気になることを想像しにくいのではないでしょうか。今日は、大野さん、麻美さんのご経験を踏まえて、考えていきたいと思います。

最初から「自分が重い病気だ」と考える人は少ないと思うのですが、病気に気づいたきっかけや、重い病気だと知った時のお気持ちについて麻美さんからお話しいただけますか?

麻美ゆま氏(以下、麻美):私は、2012年の年末ぐらいから、「軟便が続くな」「お腹の調子が悪いな」という感じがあったのですが、重い病気だとはまったく思わず、しばらく様子を見てみようと思っていました。

年が明けても、いっこうによくならなかったんですが、「もう少し様子を見て、それでも治らなかったら病院にでも行ってみよう」と軽い気持ちで過ごしていました。仕事が始まってからも「まだ良くならないな」と感じ、市販の薬なども飲み始めて、その段階でさすがに「これはちょっとおかしいな」と思い始めたんです。

その時は卵巣とか、子宮系、婦人科系の病気とは考えず、「軽い腸炎かな」「消化器系かな」と思っていました。どんどんお腹が張るようになってきていたのですが、それでも「ガスとか便が溜まっているのかな」と自分で勝手に思い込んでいたんです。仕事も忙しくなっていたので、「病院に行かなくちゃ」と思っても、なかなか時間が取れず、「体がおかしいな、軟便が続くな」と思ってから3週間くらい経った頃、やっと病院に行ける日を見つけたんです。

その時は総合診療科の診断を受けて、「最近、腸の調子がおかしくて、腸炎かと思うんですが」と言ったところ、「どうやら消化器系ではないですね」と言われて、レントゲンなどを撮りました。すると、お腹に腹水が溜まっていると言われて、「最近、やせたと言われませんか?」と先生から聞かれました。

「何故、そんなことを言うのだろう」と不思議に思いながら、婦人科に行き、そこで初めて子宮内膜症の疑いがあると言われたんです。まさか婦人科系の病気だとは思っていなかったので、「子宮内膜症って何だろう」と思いました。どちらにしても手術が必要になるので、詳しいMRIやCTを撮って、「1週間後に病院にまた来るように」と言われてその日は終わりました。

家に帰ってネットなどで調べているうちに、「自分は子宮内膜症じゃないのでは?」と疑問を持ち始めました。というのは、先生に「腹水が溜まっている」「やせたのでは?」と言われたことが、心の中ですごく引っかかっていたんです。また、お腹も張っていたので、それを検索ワードにして調べていきました。「腹部膨満感」「腹水」といったキーワードで調べると、「卵巣ガン」という言葉がネットでどんどん出てくるようになって…。もしかしたら、卵巣ガンかもという気持ちで、1週間後に病院に行きました。そして、その時初めて「卵巣ガンの疑いあり」と診断されたんです。

永田:卵巣ガン自体は、非常に見つかりにくい病気と言われているそうですが、お医者さんからもそういう説明でしたか?

麻美:定期的に婦人科検診に行っていたのですが、その時に「卵巣が少し腫れている」と言われたことがありました。でも、卵巣が腫れること自体は珍しいことでもないし、ほとんどが良性のものなので、「時間のある時に病院に行って下さいね」という程度のことだと、私が勝手に解釈していました。それで珍しいことではないと思っていたのですが、先生からは症状が出てから病院に行く人が多いらしく、どうしても進行してしまったり、見つかりにくいとは言われました。

永田:最初、診断を受けた時は、どのようなお気持ちでしたか。

麻美:自分は子宮内膜症の疑いがあると言われていたので、手術すればよくなるという程度の気持ちでした。まさか「卵巣ガン」とか「悪性の疑い」という言葉を自分が受けるとは想像もしていなかったので、「先生、嘘ですよね」と。最初は、受け止められなかったです。

また、「子宮と卵巣を全摘出しなければいけない」と最初の診断で言われました。自分はもしかして卵巣ガンと言われるかもしれないと思って診断を聞きに行ったのですが、全摘と言われるとは思っていなかったので、そちらの方がショックでした。自分の体に起こっていることですが、自分の目で見たわけでもないので、「これは嘘なんじゃないのかな」とか、「誤診であってほしい」という気持ちで、何軒か何食わぬ顔をして違う病院に行ったりしました。やっぱり受け止められなかったですね。

永田:どれくらいの期間をかけて受け入れて、改めて治療に向かって行こうという気持ちになってきたのでしょうか?

麻美:期間は……「ずっと」ですよね。診断された時に、仕事のスケジュールも白紙になって手術や治療に向けての準備が始まっていたので。今まで考える時間というか、仕事で忙しく過ごしていたので、何もしていない時間があると、悪いことを常に考えてしまうんですよね。この先、自分はどうなってしまうんだろうと、「ずっと考えていた」という感じですね。

永田:ドラマや小説では「これをきっかけに…」みたいになりますが、現実には葛藤しながら治療に向かって行くことになるんですね。

麻美:わからないことだらけだったので、この先、自分はどういう治療をするのかとか、 ネガティブなことばかり考えてしまうんですよね。そうしたネガティブな思考との闘いみたいなものは、すごくありました。

1年以上、診断がつかない医療難民生活を過ごした

永田:大野さんはいかがですか。元々、ミャンマーの難民支援に興味をもって、現地でフィールドワークなど精力的に活動されていた分、ご自身の病気に気付かれた時のギャップもあったと思いますが。

大野更紗氏(以下、大野):私の場合、ちょうど大学の学部4年が終わって、大学院に進学したばかりでした。タイとミャンマーの国境に10か所くらいキャンプがあって、常時14~15万人ぐらいミャンマー難民の人たちがいたんですが、そこをメインのフィールドにして、その人たちの調査をする準備をしていたんです。タイで調査を行うためのアカデミック用のビザを取得する手続きが結構煩雑で、それに四苦八苦していました。

一番最初に覚えている自覚症状というのは、2008年の夏の終わりぐらいのことですね。当時、お友達とシェアハウスしていたんですよ。東南アジアで頭がいっぱいで、それ以外のことには頓着しない貧乏学生だったので、今どきベッドもなくて煎餅布団に寝ていたんですが(笑)、布団から起き上がれないことに気が付いた。

それまでは、まともに病院に行ったことがない、絵に描いたような健康優良児でした。かかった病気で一番大変なものといえば、インフルエンザというぐらいでした。日本の大学病院なんて、行ったこともないし見たこともなかったですね。医療の世界というのは、私にとっては、東南アジアでフィールドワーク中に、バラックみたいな簡易病院にNGOのドクターたちが各国から集まっていて、急性症状や感染症の治療をしているイメージですよね。慢性疾患とか、重い病気とか、高度な医療に対するイメージが、そもそもまったくなかったんです。

「なんか、起き上がれないな」というその段階で症状が相当進行していたのだ、ということはずっと後になってから知りました。……実は人間の頭って結構重いんですけども、筋膜への炎症がひろがっていて、自分の頭を持ち上げる筋力が既になかったんだということを、ずっと後になってから主治医のドクターと話ながら気が付きました。炎症で筋肉が破壊されて、その時には、自分の頭が上げられなかったと。これに限らず、いろんなことはすべて、後になってから理解するんですが、その時はとにかくわけもわからずに「何かおかしい」っていう感じですよね。

今まで、どのぐらい「健康」だったかというと、布団から起き上がれなくなった時に家に体温計を持ってなかったんですよ。大学の研究仲間たちが、さすがに「おかしいよ、絶対におかしい」と言ってくれるわけです。それでルームメートに頼んで、体温計を買って来てもらって、計ったら39度ある。タクシーに乗って、近くの総合病院に行ったのが、一番最初でした。

その時は、奇妙だなと。自分の体ながら、本当に奇妙だなと思いました。今でも覚えているのですが、徐々に両腕に点々と紫の斑点みたいなのが出てきたんです。「これはどこかにぶつけたのかな」と思いました。病院にはたくさんの診療科がありますけど、まずどこの診療科に行けばいいか分からなかったので、ひとまず整形外科に行ったんですよ。そうしたら、その病院のドクターが嫌な感じの表情を浮かべて、「こういうのはちょっと、内科の先生にちゃんと診てもらったほうがいいと思うから、また予約を取り直しますから明日もう一度と」言われて、次の日、同じ病院にまたタクシーで行ったんです。

その時から1年以上、診断がつかない、長い医療難民生活が始まったんです。38~40度レベルの高熱が、24時間ずっと下がらない。熱があるだけで消耗しました。思考も朦朧とした。だんだん体中の粘膜が真っ赤になって、血が出てくる。だんだん髪の毛も抜けてきて…。自分では何が起きているのかさっぱりわからない。だけど、加速度的に病状が進行していく。それでもなお、どこの病院に行っても、ドクターから「よくわからない」って言われる。何の判断のしようもなかったですね。

永田:「よくわからない」という診断を受けた後は、「じゃあ別の科に行ってみよう」とか、「もっと大きな病院に行ってみよう」というアクションをとられるわけですか?

大野:当時、すごい高熱で、細部の記憶がところどころ抜けているんですが、友人の話によると、ほとんど飲み食いもできない状態で、一人では布団から立てる状態でもなくて、部屋の中を這って移動していたということなんです。その時は、中央線沿線に住んでいたので、中央線駅前の評判のいい皮膚科のクリニックにたまたま行ったんです。とりあえずタクシーに乗って、駅前に出て、その病院に入って、ドクターに腕を見せたら真っ青な顔になって、走ってどこかに行ってしまったんですよ。「先生、どっか行っちゃった」と思っていたら、5分くらいして戻って来て、分厚い医学書を持ってきて、パラパラパラとページを開きはじめたんです。

「大変な病気かもしれないので、今すぐ大学病院行ってください。紹介状を書きますからね」と言われました。本当に健康っていうのは怖いもので、当時の私は、病気の恐ろしさがなんにも分かっていなかったんですね。自分が難病にも関わらず「先生、私、今週中にタイの大使館に行かないといけないので、来週まで待ってもらえませんか」と。「来週までの熱冷ましの薬もらえませんか」と言って、ロキソニンをもらって、うちに帰って、それから大学病院に行ったわけです。そして、初めて大学病院に行って、そこでもずっと「わからない」と言われたんですよね。

永田:大野さんの場合、何だかわからないまま「なんだなんだ」と思っている時間のほうが長かったんですね。

大野:「なんだなんだ」と思っている期間が1年以上ありました。その期間の間にも病状は進行してしまいます。さらに問題なことに、診断名が付かないんです。診断名がつかないと、大学を休学するとか、お仕事や研究をお休みするといった時に、診断書も書いてもらえないわけですよね。

さらに、社会制度があっても、診断名がつかないと使えないんです。どんどん体も疲弊していきますが、さらに心も追い詰められていましたね。「このままだったら、私一体どうしたらいいんだろう」って、精神的にも追い詰められていましたね。

友達と家族の絆だけでは、支えきれない段階に到達してしまう

永田:診断名が付かないと、手続きが進まないという現状の制度の問題点。さらに医療費が掛かる中で、仕事ができなくなると、経済的にも困窮してどんどん追い詰められていくというお話でした。

麻美さんと大野さん、お2人の著書を読んでいると、病気と闘っていく中で周囲が支えてくれるんだけれども、一方で周囲と気まずくなってしまうというような場面も描かれています。その部分がすごくリアルだと思ったのですが、お2人が病気になった際に、周囲の反応はどのようなものでしたか。また、病気の方に対して、周囲はどのように接すればよいでしょうか。

大野:私は、今振り返ると、本当に周囲に恵まれていたなあと思うんです。自己免疫疾患という種類の病気なんですけれども、そういうことを話すと、周りの人たちはみんな察してくれるわけなんですよね。「一生、治らないんだ」「現在の医学では、根治療法はなくて対症療法しかないんだ」と。

しかも、ステロイド剤や免疫抑制剤といった、非常に副作用の強い、合併症の多い薬を使わざるを得ない。そうした薬で病気を押さえつける対症療法治療を一生続けます。だから、私の場合は友達はみんな、とっても親切でこれ以上ないほど優しかったんです。

でも、とにかく最初は辛かった。自分が流浪の民みたいに病院をさまよう中で、「ほんとにここで最後にしよう」「ここで受け入れてもらえなかったら、このまま新幹線のホームから飛び降りて死のう」と思って、郡山駅の新幹線のホームから電話を掛けたら、「はい、はい」とドクターが電話をとってくれたんです。M先生というのですが、「M研究室です、どうしましたか?」と言われて、間違えたと思って「すみません、間違えました」と返すと、「いいえ、間違ってないと思いますよ。どうしたの?」と言ってくれて。それで、新幹線のホームで自分の病状を説明すると、「今から、東京に来られるの?今日ちょうど僕の外来が午後空いてますから、あなたはラッキーだよ。すぐにいらっしゃい」と言われました。そのまま、とんとん拍子に話が進んで、その病院で今も治療を続けているのですが。ギリギリの局面で出会ったドクターたちにも恵まれていた。

入院してからも、なおやっぱり辛かった。入院してから怒涛の検査の日々で、診断名がようやくついて、どういう病気か分かってから、まず考えたことは「働けない」ということ。私は、この先どうしたらいいんだろうということです。それが辛くて、とにかく辛くって、入院生活の最初の半年くらいはお見舞いに来てくれる友達に、いかに自分が悲劇的で辛いかということを滔々(とうとう)と話していましたね。

「周囲がどう接するのがいいか」という質問でしたが、その回答なんか、私は全然持ち合わせていないんです。悟ってもいないし、病気を受け入れているのかと言われたら、たぶんまだ葛藤と闘いの渦の中にいる。ただ、今、発症したばかりの頃を振り返って言えることは、おそらくあれ以上のことは、誰にもできなかったと思うし、友人や家族はそれほどのことをしてくれたんです。それでもやっぱり友達と家族の絆だけじゃ、この病を抱えた自分という存在を支えきることは無理なんだという結論に、ある一定の時期に到達する。

今は逆に、重い病気や難病の人に接すると、滔々と辛いことを聞きながら、「うんうん、そっか」みたいな感じで、相づちを打つことが多いんですが。滔々と聞いた後に、「そっか」と相づちを打つことが、結構、大事な時期が最初はあるのかなと思いますが。

「理解しようとしてくれる」「聞いてくれる」気持ちが嬉しかった

永田: 麻美さんの場合はいかがですか。「こういうところが、なかなか理解してもらえない」とか、逆に「こういうちょっとした気づかいが結構嬉しかった」など。

麻美:私の病気は、「卵巣境界悪性腫瘍」ということで、私自身は初めて聞く病名でしたし、良性と悪性の間に「境界」というものが存在することも、実際になってみて初めて知ったことだったんです。この病気は、「卵巣ガン」とひとくくりになったりしますが、あくまでも良性と悪性の間のものなので、周囲にそれを伝える時も、どうしても困惑してしまうというか、「良性と悪性の“間”って何だろう」みたいな。

元々私は、手術前後で受け止め方が違ったんです。卵巣自体、お腹をあけてみるまで、診断がつかないんですね。手術前は「卵巣に腫瘍があります」と言われていて、手術をした結果、「卵巣境界悪性腫瘍」と言われたんです。先生も予想していなかったことのようですが、もしその可能性があるなら、手術前に「こういう可能性もあるかもしれないです」と言ってほしかった、という思いがすごくあったので、そこからまた自分でいろいろ聞いたりしていました。

周囲にも、どういう病気なのかゼロから教えるという感じだったので、理解しようとしてくれる、聞いてくれる気持ちがとても嬉しかったです。正直にわからないことがあると、「そこはどういうこと?」と遠慮せずに聞いてくれることが、私にとってはとても助かるというか、「理解しようとしてくれてるんだな」と嬉しく思いました。

私の場合は、手術後月1回の抗がん剤治療を行っていたのですが、副作用が軽い時期には動ける時間もあったんですね。なので、友達に「この時期だったら動けるから会ったりしよう」という話をしたり、友達の間で「その期間は、ゆまちゃん、動けるなら会おうか」とか「ゆまちゃん、これはできないね」とか、できること・できないことを共有してくれることが私はすごく嬉しかったです。「理解してもらえたんだな」と。可能な範囲の中で楽しい時間を過ごせて、友人のお陰で治療に前向きになれたのかなと思います。

永田:抗がん剤治療と聞くと、「副作用が大きくて…」というイメージがありますが、治療の段階や状況によっては、お友達と会うこともできるんですね。

麻美:もちろん、抗がん剤の種類もたくさんあるし、病気によって副作用も全然違うと思いますが。

実際に会うまでは、友達も「本当に会って大丈夫なの?」と聞いてきたのですが、私が「この期間だったら大丈夫だから話そうか」と言って、会ってみると安心してくれるんですよね。「病院ですごく苦しんでいるんだろうな」とか、「動けないんじゃないか」と思ってる子もいたんですけど、面と向かって、病院や近所で会ったりすると、「大丈夫な時は大丈夫なんだ」と、ダイレクトに伝わるので、会って話すのはやっぱり大事だなと思いました。

あと、私の場合、弱音を友達とかに言えなかったんですよね。ちょっと羨ましく思えてしまう部分があったんです。

病気になると、仕事ができないので生活レベルを変える必要が出てきますよね。ちょうど、マンションの更新月もあって、無収入になる治療中に引っ越しをしなければいけない状態がとても辛かったんです。その時に、友達が引っ越しの荷ほどきとかを手伝ってくれたのですが、「いらないものはどんどん捨てたほうがいいよ」とか、自分のことを思って言ってくれるのですが、それが素直に聞けないんです。そんなことを言っても、みんなは普通に仕事できるし、何も変わらない生活を送っている。私は一生懸命治療と向き合おうとしているのに、この気持ちは誰にもわかってもらえないんだろうな、というような思いがあって。

そこで、「少しでも分かってほしい」と言うことができれば、よかったのですが、「この気持ちは自分にしか分からないし、自分との闘いなんだろうな」と考えてしまった時もありました。それで逃げ出してしまったというか、誰とも話したくないというような状況に陥ってしまったりもしたのですが、その中でも、理解しようとしてくれる周囲の支えがあって、また前向きな気持ちに切り替えることができました。

永田:ご自身の中でもテンションの浮き沈みがあったんですね。

麻美:そんな時、言われて助かった言葉があるんです。どうしても不安だったり、治療のことや、先のことが考えられなかったり、恐怖をあおられた時、知り合いに「そんなことを考えたって、答えは出ないし、なった時にまた考えればいいんだよ」と言われたんですよ。どんなに考えたところで、結局どうなるかわからないし、そうなった時に対処すればいいし、その時に考えればいいんだなと切り替えられたので、すごくその時の私にとっては大事な言葉でした。

<後編に続く>

プロフィール

大野更紗
1984年生まれ福島県出身。上智大学大学院に在学中に、自己免疫疾患系の難病(皮膚筋炎、筋膜炎脂肪織炎症候群)を発症し休学。その体験を綴った『困ってるひと 』(ポプラ社)がベストセラーになる。都内で闘病・在宅生活をしながら、執筆も続けている。
・Twitter:@wsary

麻美ゆま
1987年生まれ群馬県出身。2005年にAV女優としてデビュー。その後、テレビドラマや映画出演など様々な分野で活躍を見せる。タレントとしての絶頂期に「卵巣境界悪性腫瘍」が見つかり、卵巣・子宮を全摘出。半年間に及ぶ抗がん剤治療を経て、現在は講演、タレント活動を続けている。今年5月、初の自叙伝『Re Start ~どんな時も自分を信じて~ 』(講談社)を発売した。
・Twitter:@asami_yuma

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