【全国戦没者追悼式】100歳で参加の難波いそさんの会見 - BLOGOS編集部
※この記事は2014年08月15日にBLOGOSで公開されたものです
15日、武道館で行われた全国戦没者追悼式には、全国からおよそ5000人の遺族が参加した。平成8年には24名の参加があった戦没者の父母も、平成23年からは0人が続いている。また、戦没者の妻も、平成8年には1,311人を数えたが、今年は19人の参加となった。
その戦没者の妻のうち、最高齢での参加者となった難波いそさん(100歳)が、報道陣の取材に答えた。難波さんの夫・壽一さんは、昭和17年に海軍に採用されたあと、昭和20年陸軍兵長としてフィリピンで戦死。難波さん自身も、勤めていた工場が空襲に見舞われた経験を持つ。
難波さんは武道館に到着すると、階段を自らの足で登り、周囲を驚かせていた。
ー実際にこの追悼式の場に来られて、どんなお気持ちでしたか?
大変だと思いました。みなさんこんなに…涙が出ました有難くて。途中でもう帰りたかったんですけれどもね、来られて良かったと。
ー100歳、ちょうど節目の年ですけれど、改めてどういうお気持ちですか。
そうですね。本当に有り難いとしか思いませんね。終戦になって、平和になって本当に有り難いと思いますよ。
ー毎年、この8月15日を迎えるときはどんな思いでしたか。
いつもは、「終戦」ですよね。平和だなと思っていました。
ーこの国がここまで平和で来られたのには、どういったことがあるからだと思いますか。
そうですね。学徒のみなさんがね一生懸命に軍需工場で働いてそのまま亡くなりましたね。 それだけが今でも忘れられないので、その人達の魂が残っているのかなと思います。
ー戦争でご主人を亡くされましたが、今日はこの追悼式の場にご主人になにか言葉をかけてあげたいとか…
そうね、ここまでね元気で100歳になるまで生きて来れたから。いつ死んでもいいと思ってます。だから息子たちがあと元気でしてくれればいいと思っております。
ー今、多くの若い人たちは戦争のことを知らない世代が増えてます。
そうですね。私がいってもわからないんじゃないかと思います。現実見てきてますのでね。 今の若い方もすぐに人殺したりいろいろなことやらないで、もう少し色々なこと考えてほしいと思いますね。
平和になってほしいです。
ー平和を築きあげてきたのは難波さんのような戦争を体験した世代だと思いますけれども、若い人たちに改めて何かありますか。
一生懸命やっていただきたいと思いますね。
日本の国の人の頭の良いことに関心しました。
いろいろのことで、私らの時はそんな良いときはなかったですけども、いまはすごくね、いろいろなことで良くなっております。
私らはえらい時をくぐってきましたけどね、辛いとか悲しいとか思ったことは一度もない。 平和でやっていけたらいいなと思います。
自衛隊の方たちが一生懸命やっていただいてますけどねホントに感謝しますよね。
戦争中も代わりのない若い方たちが命かけて戦ってきてますので。
ありがたいと思います。平和になって。
ーこれからの日本にどうあってほしいですか。
これからみなさん、若い方が立派になりましてね、科学とか、我々にはよくわかりませんけども、医療とかそういうものも、ずいぶん進んでおりますから、立派になってほしいと思います。
ーご主人との思い出で、 印象的なもの、改めて思い出すことは。
ないわね、わからないうちに出征してしまった。台湾から。ですから思い出とかないですね、なんにも。"人がいいなあ"、ということしか、今は考えられない。
ー例えばなんですけど、戦争がなければこの年も一緒に過ごせたと思います。
戦争が無ければ、私らは内地に帰ってない。主人の親戚の方もね、高雄でやってましたからね、主人は「シンガポールは気候が良いから、あそこ行って暮らそう」と、それは言ってましたので。内地に帰ってなかったかもしれないです。
ー今日、ここまで来られるの大変だったと思うんですけれど、どうしてそこまでしていらっしゃったんですか。
大変でしたけどね、本当によく来れたと思いますけど。 苦しい中、私ばっかりじゃないね、みんな命かけで戦ってきたからと思います。
学徒の方はね、一人も助からなかったので、それだけが悔やまれます。 私はお陰様で助かりましたけど、一緒に机並べてる方も全部1トン爆弾でやられたので、それだけが今でも。
私はお陰様で、母が疎開先で具合が悪いとなったので、会社を早退して疎開先に行ってましたので、それで逃れられたんですけど、それがなかったら生きていない。全滅でしたから。 空襲が来まして、みんな一度退避しまして、それが解除になって、帰ってきたらその時にバーッてやられたんですから、逃げる暇もないですね。
ーその時の光景というのは今でもはっきりと?
覚えています。もうね、私が帰ってきましたでしょ。6畳一間、血の海。あれは地獄だったね。水道がちょろちょろとちょろちょろと…電気のところに肉や髪の毛が電線にくっついたりして、おっかない…もう…学徒の方、みんな死んだお魚のようにトラックに積んで運ばれたんですよ。今でも覚えてます。私がこうやって生きているのが不思議なくらいです。
ー終戦から69年になりますけど、当時のことは忘れられないですか?
今の、その爆弾にあったこと、忘れられない。時々思い出します。一番ひどかったのが名古屋の軍需工場でしたから、熱田の。
ー今、69年経ちましたけれども戦争について、どんなことを伝えたいですか。
仕方ないでしょうね。向こうがやってくればこっちも黙っているわけにもいかないけれども、終戦になって、陛下も辛かったと思います。それ聞いた時は涙が出ました。 こんなに平和になってよかった。
ー二度と繰り返してはいけないと思いますか?
わからないですよね。その頃の…ただ、生きていたら、みなさん立派になってるだろうなと思いますね。若い方を見るとね。
ーその時から考えると、今の平和な日本というのは想像がつきますか。
兵隊で行った方も一生懸命やってくださって、心がひとつになって、あの頃はみなそうでしたね。おっかないのはB-29で。お金もなかったですけど、心が一緒だったんです。助けあって来ましたよね。
ー今の子どもたちに何か伝えたいメッセージは。
大げさなことは…一生懸命に、立派な日本を作って下さい。日本だけは無くならないでほしいですよね。それだけです。
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