2021年で開通90周年を迎える東武鉄道の一駅間だけの支線「大師線」。本来は「第二山手線」ともいうべき路線の一部で、東武も建設に意欲を注いでいました。延伸はなぜ実現しなかったのか、ミニ支線に秘められた歴史を紐解きます。

もともと大師線でなく「西板線」 西と板はどこを指す?

 東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の西新井駅から延びる支線「大師線」が、2021年で開通90周年を迎えます。西新井〜大師前のひと駅間を2両編成の電車が結ぶ路線で、終点の大師前駅は「関東三大師」に数えられる西新井大師に隣接しています。

 特に正月などは参拝客でにぎわう路線ですが、もともとは西新井大師のアクセス路線として計画されたわけではありません。東武の資料で「『第二山手線』とも呼べる」とする、壮大な計画路線の一部のみが実現したものです。

 その名は「西板線」。西は西新井、板は「板橋」です。現在の東上線 上板橋駅までをつなぐ全長11.6kmの路線になるはずでした。


大師前駅。大師線は2両編成の8000型電車が往復している(中島洋平撮影)。

 もともと東上線は東上鉄道という別会社でしたが、1920(大正9)年に東武鉄道と合併。東武の本線系統と離れた東上線との連絡線を設けることで、業務上の合理化と、当時は田園が広がっていた沿線の開発との両得を期待していました。東武の社史には、建設費に対する利益率も高く「抜群の効率経営計画」とあり、建設に意欲的だったようです。

 途中駅は西新井側から大師前、鹿浜(いずれも足立区)のほか、荒川放水路と隅田川を渡って神谷(北区)、さらに東北本線と赤羽線(埼京線)を越えて板橋上宿(板橋区)の4駅が計画されていました。そのルートは現在の環七通りとほぼ一致し、東上線には、現在のときわ台駅付近で合流する予定でした。

 これが実現しなかった最大の要因は、1923(大正12)年の関東大震災にあるといえます。国へ西板線の免許を申請したあとに震災が起こり、東武線も大きな被害を受け、この対応のために西板線の計画は後回しになったのです。翌年に免許が交付されたものの、工事に着手できる状態ではなかったといいます。

 それでも東武は、この時点ではあきらめていませんでした。

「ちょっと無理なんじゃないか……」になっていったワケ

 震災復旧の対応に追われるなか、東武はとりあえず西新井〜鹿浜間の施工認可を申請し、それ以西は延期する許可を国から取り付けます。そうしているあいだに、東京は大きく変貌していきます。

 震災復興の都市計画と西板線の計画がバッティングするため、ルートは各所で修正を余儀なくされたうえ、下町から山の手へ、都市化の波が急激に広がっていき、西板線の計画沿線にも徐々に家屋が増えていったといいます。また、荒川放水路や隅田川の渡河部、既存の鉄道各線との交差部について関係各所との調整も難航、さらに昭和恐慌が追い打ちをかけます。

 結果的に、地元の要望も強かった西新井〜大師前間のみが1931(昭和6)年に開通しましたが、それ以西は地価の高騰と建設費の増大により手が付けられず、建設は断念されました。東武の社史などの資料は、時代に翻弄され実現に至らなかったことを惜しむような記述で貫かれています。

 こうして「大師線」となった西新井〜大師前間ですが、戦後はさらに道路計画との調整を余儀なくされます。環七通りの大師前駅前後の区間を建設するにあたり、鉄道を高架化するか、道路を高架化もしくは地下化するか、あるいは鉄道を廃止するかが議論され、一時は廃止も検討されました。


環七通り(手前)の南側に立つマンションが旧大師前駅の跡(中島洋平撮影)。

 これに地元の猛反対もあり、最終的に環七通りの北側まで路線を「短縮」することで妥結、1968(昭和43)年、大師前駅が現在の位置に移転したのです。環七のすぐ南側にあった旧駅跡は現在、東武ストアを併設するマンションになっています。

 なお、1991(平成3)年には大師前駅を含む路線の高架化も行われ、現在に至っています。

 ちなみに、西板線の“副産物”とも言えるものもあります。それが東上線のときわ台駅と、「板橋の田園調布」とも称される常盤台の住宅地です。同駅は1935(昭和10)年に開業し、翌年に東武鉄道の手で宅地分譲が始まりましたが、もともと西板線の貨物操車場として取得していた土地を住宅地に転用したといわれます。