台風19号で大きな被害を受けた日原地区は今どうなっているのでしょうか。以下、写真はすべて3月中旬撮影(筆者撮影)

人口約1400万人、世界でも有数のメガシティ東京の西北部に「孤立」との闘いを強いられている小さな集落がある。東京都西多摩郡奥多摩町日原(にっぱら)地区だ。東京の水源地である奥多摩は豊かな森林と山々に囲まれ、清冽な水が流れる川や沢が点在する東京の秘境と称される魅力あふれる地域だ。東京都心からは電車を利用して1時間半余りで着く。

奥多摩町の中心にある奥多摩駅から約10km、山を分け入ったところにあるのが日原地区の中心地である。日原鍾乳洞や奥多摩登山、渓流釣りの拠点で、シーズンには観光客や、ハイカー、釣り人らで賑わう。

そんな山あいの小さな集落には40世帯66人が暮らしている。人口の3分の2が65歳以上という超高齢社会の縮図といっていい地域である。スーパーや雑貨店は1軒もない。買い物は約10km離れた奥多摩町の中心部に向かうしかない、そんな集落だ。

台風19号で大きな被害を受けた

全国に猛威を振るった昨年10月12日の台風19号で、日原地区も大きな被害を受けた。被災直後の奥多摩町役場の職員による状況確認では、断水、停電、携帯電話不通が確認された。

これらの被害は復旧作業により1週間以内に解消されたが、町と日原地区を結ぶ唯一の生活道路である一般都道204号(日原街道)が、大沢バス停がある平石橋付近で大量の土砂によって崩落した。町から約3km、集落までは7.4kmの地点である。

日原街道は全面通行止めとなり、車が通行できない状況に陥った。一般車だけでなく、救急車や消防車といった緊急車両も通行不可能。こうして集落の孤立が始まった。

生活道路の通行止めでまず困るのは生活物資などの運搬である。台風直後の10月17日、19日には自衛隊のヘリコプターが燃料、食料を計5回にわたって輸送した。9日後の21日になって、崩落現場に人ひとりが通れる仮設の歩道ができた。これで生活物資の運搬が徐々に可能となり、町は日原自治会の協力を得て送迎サービスを開始した。

奥多摩駅から崩落現場までを町が、仮設歩道を各自で渡り、崩落現場から日原地区までを自治会が車で送迎するというもので、平日は1日5便、休日は1日2便で実施された。

急峻な崖と川に挟まれた崩落現場には大型の重機が入れず、復旧作業はなかなかはかどらない。そうこうしているうちに日原に冬が訪れた。標高600mを超える日原の冬は寒さが厳しい。12〜2月の最低気温は氷点下になる。そんな冬を人々はどう乗り切ったのか。関係者に話を聞いた。

消防職員が1カ月間は日原に寝泊まりして待機

「今年は例年に比べ雪は少なかったですね。一度20cm程積もったぐらいでした。冬場に欠かせない灯油は町の業者の方が隔週で運んでくれました。日常の食料品や生活用品は、中継点(崩落現場)まで10人乗りのワゴン車などで行き、仮設の歩道を渡って役場が手配してくれた送迎の車などで町に行って買ってくるという生活です。ありがたいことに2人の方が車を貸してくださり、その車も利用させていただきました」(日原保勝会の担当者)

なんとも不自由な生活を余儀なくされたわけだが、台風から5カ月たった3月中旬現在でも孤立状況は解消されていない。この間、体調を崩したりした人はいなかったのだろうか。

「台風から1カ月間は消防の職員の方が日原に寝泊まりしてくれました。その後も崩落現場に救急車が待機してくれています。今までに救急搬送は3回ありましたが、幸い大事には至っていません」(同)

子どもたちの通学はどうなっていたのか。

「小学生の子が2人いる世帯がありましたが、今は町にある小学校の近くに家を借りています。別の世帯の保育園に通っている園児は、お母さんが町の保育園に送迎しています。この子は4月から小学生です」(同)

孤立状態に置かれた日原の住人たちは、地域の人々、町役場、有志など、いろんな人々の助け合い、協力で寒い冬を乗り切ってきたのだ。

3月中旬のある日、修復工事を進めている東京都建設局西多摩建設事務所の許可を得て、日原街道の崩落現場を取材した。3月14日に都道204号(日原街道)の奥多摩町側の一部区間(2.6km)が通行止め解除となり、路線バスも崩落現場近くの大沢バス停まで運行を再開していた。1日9便だ。

取材日は快晴で穏やかな春日和。朝10時10分に奥多摩駅を出発する路線バスに乗り込む。乗客は筆者のみだった。大沢バス停までの約10分間、乗り降りは1度もなかった。運行再開後、地元の人以外では、大沢の渓流釣り場を訪れる人が数人乗車したのみだという。

切り立った崖に沿うように仮設歩道

大沢バス停に着くと、20分後に折り返すこのバスを数人の人たちが待っていた。町への買い物だろうか。バス停近くの駐車場には、いざというときに備えて救急車両が待機している。


(左)「手荷物重量40kg程度」と書かれた看板がある仮設歩道(右)鉄板の道が100m程続く(筆者撮影)

ゲートが設けられた平石橋には通行止めの看板が立てかけられ、ガードマンが通行をチェック。取材の旨を伝えて、橋を渡り、道を進む。

100mほど行くと、工事関係者の車が数台止まっている。その奥で小型の油圧ショベルが作業している光景が目に入ってきた。復旧工事が行われている道路の右端に安全柵が設けられ、切り立った崖に沿うように仮設の歩道が延びている。


巨岩が上部に土砂を付けた状態で転がっている(筆者撮影)

「1名ずつ通行してください」「手荷物重量40kg(ポリ缶2個)程度」「自転車・バイク通行禁止!!」の表示がある。通行人が誰もいないことを確認して仮設歩道を進む。アスファルトの道を10mほど進むと今度は鉄板の道になる。安全柵の左側は崩落現場だ。

道路が削り取られた斜面の土砂の部分はコンクリートで固められている。清流は何事もなかったかのような美しい流れを見せている。

鉄板の仮歩道の長さは100mほどだろうか。終点近くの河原には山から転がり落ちてきたのだろう、巨岩が上部に土砂を付けた状態で転がっている。仮歩道を渡り切った先の道路上にはミニパトカーが待機。改めて崩落現場をチェックする。落下してきた岩や石が河原にゴロゴロと散乱し、道路が大きくえぐり取られた跡が何とも痛ましい。


崩落現場の様子(筆者撮影)

急峻な崖と川に挟まれた崩落現場での工事は、素人目で見ても大変であることがわかる。工事関係者らの全力の復旧作業で、ゴールデンウィークごろには仮復旧し、日原街道の通行止めが解除される見通しだ。

もっとも、路線バスのような大型車は運行不可で、完全復旧にはまだ1年半以上かかる見込みだという。それでもマイカーの通行が可能になれば、日原の人たちの不便解消につながることは間違いない。

多くの観光客が訪れる日原鍾乳洞の再開は?

冒頭でも触れたが、日原地区には関東随一といわれる日原鍾乳洞がある。日原を代表する観光スポットで、年間10万人の観光客が訪れる。ここも台風以来、閉鎖されたままだ。日原保勝会の方が内部をチェックしたところ、鍾乳洞内には被害はなかった。

だが、道路に立っていた電柱が傾いてしまい、鍾乳洞内部は停電が続いているという。その補修工事も、日原街道の通行止めが解除されないとできない。昨年10月までに7万7000人の観光客が訪れた鍾乳洞。12月までで2万人以上の観光客を失ったことになる。

崩落現場の対岸の道路の脇に1体のお地蔵さんが鎮座していた。地酒が供えられたお地蔵さんは新しい真っ赤な帽子とマフラーを身にまとい、崩落現場の復旧作業を見守っているようだった。

現場の取材を終え、奥多摩への道をゆっくりと歩きながら下っていくと、春の穏やかな日差しを浴びて紅白の梅の花が咲き誇っていた。真っ青な空を見上げると、オオタカだろうか大きな猛禽類の鳥が羽を広げて優雅に舞っている。


梅の花が咲き誇っていた(筆者撮影)

「こうした生活が長引いて、不安やストレスが溜まっている人もいます。でも、日原の住民は我慢強いから何1つ文句も言いません。今は、1日も早く復旧してほしい。それだけですね」(日原保勝会の担当者)

一極集中が加速し、東京オリンピック・パラリンピックに向けた再開発ラッシュが続いてきた東京。その片隅に、いまだに台風被害による孤立状況が続く集落があった。