トランプ氏はあの「ヒトラー」の再来なのか
まさに好き放題のトランプ大統領。野放しにしていると手遅れになる?(写真:ロイター)
トランプ米大統領のような現代のデマゴーグ(扇動家)をヒトラーに例えるのは褒められたことではないかもしれない。ナチスドイツの本当の恐ろしさを矮小化することにもなりかねないからだ。だが、次のような問題を考えるうえでは役に立つだろう。それは、民主主義が真に危機的な状況に陥るタイミングをどう見極めるのか、という問題である。
トランプ氏は同盟国を侮辱する一方で独裁者を褒めたたえ、独立したメディアを「人民の敵」と呼んでいる。米国の大統領がこのような言動に出ると、数年前に誰が予想できただろう。しかし、今ではこれが現実になっている。手遅れになる前に警鐘を鳴らすとしたら、そのタイミングはいつなのか。
現実から目を背けることの恐ろしさ
イタリアの作家、ジョルジョ・バッサーニの『フィンツィ・コンティーニ家の庭』は、この問題を扱った名著だ。ファシズム時代のイタリアに生きる上流階級のユダヤ人を描いた作品である。作品中のユダヤ人は快適な生活を当たり前のように享受しているが、ゆっくりと、少しずつ、社会の締め付けは強まっていく。
だが、彼らは現実から目を背け続けるのだ。語り手の父はファシスト党員にすらなる。ユダヤ人が強制収容所に送られるようになってようやく身の危険を悟るが、時すでに遅し──。
ドイツ生まれのジャーナリスト、セバスチャン・ハフナーも、ナチスの独裁は少しずつ凶暴化していったと回想録につづっている。当時、ハフナーはドイツで法律を学んでいたが、ナチスでもなかった仲間内の学生が人種法や憲法停止といった法改正を次々に受け入れていくのを目撃する。一線を越えたとは誰も思わなかったようだ。
現在の状況には、1930年代の欧州を思い起こさせるものがある。当時のドイツでは、資本家の多くがヒトラーに不快感を抱きつつも、経済的な恩恵をもたらしてくれる以上はうまく共存していけると考えていた。保守本流の財界人から見れば、ヒトラーは粗野な新興政治家にすぎない。財界の力をもってすれば、簡単に操れる。そう高をくくっていたのだ。
歴史を見れば、暴政への道にはパターンがあることがわかる。司法の独立に対する攻撃は、その一例だ。だが、歴史は現状を見誤らせる原因にもなりうる。思い込みが紛れ込むからだ。たとえば、民主主義国では「自由な国に独裁者は出現しない」と決め付けている人が多いが、本当にそうだろうか。
ヒトラーの再来ではないかもしれないが…
左派も、右派と同じくらい危機の兆候を見落としてきた。1920年代のドイツはワイマール共和国として民主主義の確立を目指していたが、右派が台頭し、揺さぶりをかけられていた。それなのに、スターリン指揮下の共産党はおろか、共産党以外の左派陣営までもが右派と対決するのを拒み、ナチスの躍進を許してしまったのだ。
トランプ氏はヒトラーの再来ではないかもしれない。だが、民主主義を切り崩そうとするトランプ氏の行動を、与党共和党が完全に黙認しているのは不気味だ。極左の口ぶりも気になる。極左は、トランプ氏もオバマ前大統領も、資本主義の手先という意味で同じ穴の狢(むじな)だと考えている。
トランプ氏の場合はただ、邪悪な新自由主義が一段と露骨に表れているだけで、両者の間には程度の違いしか存在しないというのだ。共和党も極左も、右派ポピュリズムが持つ本当の怖さを甘く見すぎている。
問題なのは、民主主義が本当に危機的な状況にならないかぎり、自由を守ろうとの機運が高まらないことだ。トランプ氏のような扇動家がヒトラーのように振る舞おうとしても、民主主義国なら阻止できると安心しきっている人は多い。だが、そうでないことがわかったときには、もう手遅れなのだ。