森保新監督の指導哲学は「ドーハの悲劇」が原点!若き"ポイチ"は自己犠牲の塊だった
森保一が日本代表監督に就任した。
サンフレッチェ広島監督時代の功績は、4年で3度のリーグ優勝に導くなど、広く知られているが、現役時代に「ドーハの戦士」だったことは、意外と知られていない。三浦知良やラモス瑠偉、柱谷哲二、福田正博ら独特で個性的なメンバーが多く、彼らにスポットライトが当たっていたので、森保の名前は知られていたが、印象が薄かったのだ。
だが、森保はカタールのドーハで戦った日本代表において、それこそ欠かせないキーマンだった。当時の日本代表は4-4-2が軸になり、中盤はダイヤモンド型だった。初戦のサウジアラビア戦(0-0)、続くイラン戦(1-2の敗戦)、森保は中盤の底にポジションを取り、左サイドハーフにはラモス、右サイドハーフは吉田光範、トップ下には福田正博という構成だった。吉田は攻守に鼻がきくマルチプレイヤーだったので、右サイドの守備についてはそれほど意識することはなかった。
だが、左のラモスは攻撃的な選手でほとんど守備が機能しなかったので、バイタルエリアから左前にかけてラモスのエリアをカバーしなければならず、さらにラモスのサポートを求められた。ラモスの攻撃での貢献度を知れば多少は守備に目をつぶるのは致し方ないのだが、それでも負担は大きく、森保は半端ない運動量を求められた。
それをイヤとも言わず、献身的にこなしていた。当時の森保は24歳の中堅層だったが、代表入りしてまだ1年半程度だったので、ラモスに何かをいうよりもその良さを発揮してもらうために、自らは黒子に徹していたのだ。
最終予選が中盤に差し掛かった北朝鮮戦からオフトは4-3-3にシステムを変更した。対戦相手の力が落ちていたこともあり、優位に試合を展開して3-0で勝った。だが、中盤は3枚になり、森保は吉田とラモスとのバランスを考えてプレーし、中盤の広範囲を攻守にフォローしなければならず、その負担はさらに増えた。
プロである以上、ラモスのように目に見える形で結果を残し、チームを勝たせたいと思うのは理解できる。だが、勝負は森保のようにそういう気持ちを押し殺し、チームに貢献する選手がいるかどうかで決するケースが多い。
一時期、オフトはわがままなラモスを外すことも考えたが、森保については信頼を隠さず、終始スタメンで起用し続けた。チームのために自己犠牲を果たせる選手であることをオフトは見抜いており、森保をワンランク上の意識で戦える選手だと認めていたからである。
実際、ラモスが攻撃の能力をいかんなく発揮できたのは、森保の攻守における心身的なサポートがあったからであり、そのことを改めて強く印象付けた試合になった。
森保が選手として、最も大きな影響を受けたのはイラク戦である。
いわゆる「ドーハの悲劇」だ。
アディショナルタイムまで2-1でリードし、ラストプレーで同点にされて日本サッカー史上初のワールドカップ出場の夢が断たれてしまった。ピッチに座り込むラモスの姿が印象に残っている人が多いだろうが、森保はこの時、勝負の厳しさ、勝たないと何も残らないことを痛感したという。それから「勝つために何をすべきか」という意識を常に持ち続けた。森保の「監督哲学」ともいえるもののベースがこの経験によって築かれたと言ってもいい。
広島時代は、前任者のペトロヴィッチ監督の攻撃的なスタイルを前面に出したサッカーから守備を組織化しつつ、臨機応変に戦えるようにチームを改革した。特定の選手に頼ったり、スタメンを固定するのではなく、タスクをこなし、動ける選手を積極的に起用するなどチームに競争原理を持ち込み、活性化した。そうして、「負けない工夫」をして、どんな状況でも「勝てるチーム」へと変えていったのだ。
それがドーハを経て、監督としての経験を積んできた森保の理想のチーム像だ。
日本代表でも、それはブレることはないだろう。サッカーのスタイルは93年当時から大きく変化したが、勝つためにすべきことは変わらない。
日本代表はこれから世代交代が進行する。
U-21代表の監督も兼任する森保監督は、幅広い年齢層から多くの選手を見ていくことになるだろうが、25年前の自分のように無名でもピッチで輝く第2のポイチを見つけてほしいなと思う。そういう選手とともに日本代表監督として因縁の地・カタールでワールドカップを迎えるのは、森保監督にとって大きなチャレンジになる。途中登板ではなく、4年間を見据えて選ばれた最初の日本人監督としてワールドカップの舞台に立ち、「ドーハの悲劇」ではなく、「ドーハの奇跡」を実現してほしい。
文●佐藤俊(スポーツライター)
サンフレッチェ広島監督時代の功績は、4年で3度のリーグ優勝に導くなど、広く知られているが、現役時代に「ドーハの戦士」だったことは、意外と知られていない。三浦知良やラモス瑠偉、柱谷哲二、福田正博ら独特で個性的なメンバーが多く、彼らにスポットライトが当たっていたので、森保の名前は知られていたが、印象が薄かったのだ。
だが、森保はカタールのドーハで戦った日本代表において、それこそ欠かせないキーマンだった。当時の日本代表は4-4-2が軸になり、中盤はダイヤモンド型だった。初戦のサウジアラビア戦(0-0)、続くイラン戦(1-2の敗戦)、森保は中盤の底にポジションを取り、左サイドハーフにはラモス、右サイドハーフは吉田光範、トップ下には福田正博という構成だった。吉田は攻守に鼻がきくマルチプレイヤーだったので、右サイドの守備についてはそれほど意識することはなかった。
だが、左のラモスは攻撃的な選手でほとんど守備が機能しなかったので、バイタルエリアから左前にかけてラモスのエリアをカバーしなければならず、さらにラモスのサポートを求められた。ラモスの攻撃での貢献度を知れば多少は守備に目をつぶるのは致し方ないのだが、それでも負担は大きく、森保は半端ない運動量を求められた。
それをイヤとも言わず、献身的にこなしていた。当時の森保は24歳の中堅層だったが、代表入りしてまだ1年半程度だったので、ラモスに何かをいうよりもその良さを発揮してもらうために、自らは黒子に徹していたのだ。
最終予選が中盤に差し掛かった北朝鮮戦からオフトは4-3-3にシステムを変更した。対戦相手の力が落ちていたこともあり、優位に試合を展開して3-0で勝った。だが、中盤は3枚になり、森保は吉田とラモスとのバランスを考えてプレーし、中盤の広範囲を攻守にフォローしなければならず、その負担はさらに増えた。
プロである以上、ラモスのように目に見える形で結果を残し、チームを勝たせたいと思うのは理解できる。だが、勝負は森保のようにそういう気持ちを押し殺し、チームに貢献する選手がいるかどうかで決するケースが多い。
一時期、オフトはわがままなラモスを外すことも考えたが、森保については信頼を隠さず、終始スタメンで起用し続けた。チームのために自己犠牲を果たせる選手であることをオフトは見抜いており、森保をワンランク上の意識で戦える選手だと認めていたからである。
実際、ラモスが攻撃の能力をいかんなく発揮できたのは、森保の攻守における心身的なサポートがあったからであり、そのことを改めて強く印象付けた試合になった。
森保が選手として、最も大きな影響を受けたのはイラク戦である。
いわゆる「ドーハの悲劇」だ。
アディショナルタイムまで2-1でリードし、ラストプレーで同点にされて日本サッカー史上初のワールドカップ出場の夢が断たれてしまった。ピッチに座り込むラモスの姿が印象に残っている人が多いだろうが、森保はこの時、勝負の厳しさ、勝たないと何も残らないことを痛感したという。それから「勝つために何をすべきか」という意識を常に持ち続けた。森保の「監督哲学」ともいえるもののベースがこの経験によって築かれたと言ってもいい。
広島時代は、前任者のペトロヴィッチ監督の攻撃的なスタイルを前面に出したサッカーから守備を組織化しつつ、臨機応変に戦えるようにチームを改革した。特定の選手に頼ったり、スタメンを固定するのではなく、タスクをこなし、動ける選手を積極的に起用するなどチームに競争原理を持ち込み、活性化した。そうして、「負けない工夫」をして、どんな状況でも「勝てるチーム」へと変えていったのだ。
それがドーハを経て、監督としての経験を積んできた森保の理想のチーム像だ。
日本代表でも、それはブレることはないだろう。サッカーのスタイルは93年当時から大きく変化したが、勝つためにすべきことは変わらない。
日本代表はこれから世代交代が進行する。
U-21代表の監督も兼任する森保監督は、幅広い年齢層から多くの選手を見ていくことになるだろうが、25年前の自分のように無名でもピッチで輝く第2のポイチを見つけてほしいなと思う。そういう選手とともに日本代表監督として因縁の地・カタールでワールドカップを迎えるのは、森保監督にとって大きなチャレンジになる。途中登板ではなく、4年間を見据えて選ばれた最初の日本人監督としてワールドカップの舞台に立ち、「ドーハの悲劇」ではなく、「ドーハの奇跡」を実現してほしい。
文●佐藤俊(スポーツライター)