かつて全国どこでも見ることができた、赤とクリームで塗られた国鉄の特急列車。国鉄がJRに変わってから徐々に数を減らしていましたが、このほどついに消滅しました。60年前、この色がなぜ特急車両の塗装として採用されたのでしょうか。

中央本線で幕を閉じた懐かしの色

 JR東日本は2018年4月27日(金)、189系特急形電車の引退ツアーを実施しました。出発地となった中央本線の豊田駅(東京都日野市)には、ツアー参加者だけでなく大勢の鉄道ファンが詰めかけ、その引退を惜しんだといいます。


赤とクリームの2色で塗られた国鉄特急(1982年ころ、草町義和撮影)。

 189系は国鉄時代の1975(昭和50)年から製造が始まった特急形電車。老朽化や新型車両への置き換えによる廃車で数が減り、近年は定期列車の運用から外れ、臨時列車や団体列車で使われていました。

 2017年の11月時点では、JR東日本の八王子支社に6両×3編成、長野支社に6両×1編成が残っていましたが、八王子支社の編成は2018年1月から順次引退。このほど最後まで残った編成が引退したのです。

 ただ、189系自体はいまでも長野支社に1編成だけ残っていて、完全に消滅したわけではありません。にも関わらず豊田駅に大勢の人が詰めかけたのは、八王子支社の編成の引退で、60年続いた「あるもの」がJRの営業路線から完全に姿を消したためです。

 その「あるもの」とは、赤とクリームの2色で構成された「国鉄特急色」と呼ばれる鉄道車両の塗装。とくに鉄道が好きというわけではない人でも、この塗装を見たことがある人は全国各地に多いのではないでしょうか。

 日本の鉄道車両は戦前、そのほとんどが黒か茶色の一色で塗られていました。戦後は緑とみかん色の2色で塗られた80系電車(1950年デビュー)を皮切りに、明るい色を複数組み合わせた塗装が採用されるようになります。

 東海道本線が1956(昭和31)年に全線電化されると、東京〜大阪間の特急列車で使われている機関車と客車も、それまでの茶色一色から淡い緑色に塗り替えられました。蒸気機関車の煙で車体が汚れることがなくなったため、そのPRも兼ねて明るい色が採用されたのです。

塗り替えと新型導入で数を減らす

 その後、東京〜大阪間に新型の特急電車を導入して所要時間の短縮を図ることになりました。1958(昭和33)年、国鉄初の特急形電車となる20系電車(のちに151系電車への改称を経て181系電車に)がデビュー。このとき採用された塗装が、赤とクリームの2色でした。列車の愛称は「こだま」と名付けられ、181系は「こだま形」と呼ばれるようになります。


初めて国鉄特急色を採用した「こだま形」こと181系(1980年ころ、草町義和撮影)。

 国鉄の副技師長を務めた星晃によると、この塗装は当時営業局長だった磯崎叡(のちの国鉄総裁)を中心とした会合で決められたといいます。赤とクリームは「昼間の座席特急であり初めての高速電車特急として明るく目立たせ、見る人たちに乗ってみたいという気持ちを起こさせる塗色」(『鉄道ジャーナル』1985年3月号)として採用されました。

 これ以降、189系を含む国鉄の特急形電車は1981(昭和56)年に白と緑の185系電車がデビューするまで、すべて赤とクリームの2色塗装に。特急形ディーゼルカーも同じ色が採用され、全国各地でこの色の特急列車が運転されるようになりました。こうして「赤とクリーム」は国鉄特急のイメージとして定着したのです。

 しかし、1987(昭和62)年に国鉄が分割民営化されてJRグループが誕生すると、JR各社は「地域密着経営」をアピールするため、特急形の電車やディーゼルカーを各社独自の色に塗り替えるようになりました。これに加え、JR各社は最初から独自の色を塗った新型車両を導入。国鉄特急色で塗られた車両は、徐々に数を減らしていきました。

 今回、八王子支社の編成が引退したことで、JRの営業路線から国鉄特急色の車両がすべて姿を消したことになります。長野支社に残る最後の189系の編成はJR発足後に塗り替えられた独自色のため、国鉄特急色ではありません。


JR発足後、特急形電車は各社独自の色に塗り替えられた(1995年10月、草町義和撮影)。

国鉄特急色の車両は鉄道博物館や碓氷峠鉄道文化むらなどで保存されている。


 ただ、鉄道博物館(さいたま市大宮区)や碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)などで国鉄特急色の車両が保存されており、全国各地を走り回っていた時代の姿を見ることができます。

【写真】全国で見られた国鉄特急色の485系


上野〜秋田、青森間の特急「いなほ」で使われていた485系電車。国鉄特急色で塗られた特急形電車のなかでも485系は北は北海道から南は九州まで運用されていた(1982年ころ、草町義和撮影)。