今夜金曜ロードSHOW「もののけ姫」は要するに「ナウシカ2」なのか

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『崖の上のポニョ』、『風立ちぬ』、ここ数年の宮崎駿アニメはさっぱり分からない……その転換点となったと言われる『もののけ姫』。鉄を作るために自然破壊をするエボシ御前は、かつての宮崎アニメなら単純な「悪」として割り切れたはず。でも、社会的弱者の女性や病人を守ってる……自然を代表してるモロの君やサンを応援できないじゃない!


しかし、本当に「分かりにくい」んだろうか。宮崎監督の前作『紅の豚』は興行収入54億円だったのに対して、『もののけ姫』は193億円に跳ね上がった。それ以前よりもケタ違いのカネと人手をかけたから?  予算が30億円と推定される『風立ちぬ』は興行収入が約120億円で、21億円をかけた『もののけ姫』に遥かに及んでいない。

観客を置いてけぼりで不親切な映画が、これほど多くの人から支持を得られるわけがない。それまでの宮崎アニメより分かりにくい要素は増えているが、基本的な作りはお客さんの快楽中枢にサービスしているわけだ。本当は分かりやすい『もののけ姫』ということで、本作を作り上げている骨組みや、当時置かれていた文脈を解きほぐしてみよう。

1.すごい厨二病設定を満載!


主人公のアシタカは、かつて大和朝廷の支配に逆らって敗れたエミシ族の出身で、王族の血筋。そこに政治的な意味を読み込むからややこしくなるのであり、神話によくある「滅ぼされた王の末裔」である。

そんな選ばれし者がタタリ神の死の呪いを受けて、村を追われ旅に出る。呪いのアザは憎悪に反応して超人的な力をくれる代わりに、代償として命を蝕まれていく……ラノベ主人公でお馴染みの「厨二病の力」じゃないですか。「くっ……静まれ俺の右腕」とばかりに、エボシ御前への殺意を左手で抑え込んでいたし。

しかも間接的とは言え「神殺し」に関わっている。やんごとない血筋の勇者が人外の力を与えられて世界を救う、ディティールは「照葉樹林文化」やら「戦国時代の階級闘争」やら(ググってお調べください)小難しい概念が飛び交っているが、全体の輪郭はドラクエIIIばりに単純明快だ。

そもそも宮崎監督が『もののけ姫』制作にあたって最も意識した物語は、5000年前にメソポタミアで書かれた人類最古の叙事詩「ギルガメシュ」だったという。「金属の武器による神退治」というテーマもまんまだが、元ネタが『ドルアーガの塔』や『Fate/Grand Order』などゲームと同じくしてるのだから、厨二マインドをくすぐって当然なんですよね。

2.要するに『ナウシカ2』です


鉄を作るタタラ場は、原料の砂鉄と木炭を確保するために山を切り崩して森を焼き払う。自然にとっては許されない悪だが、人が生きるための営みで否定はできない。そんな人と自然との対立や共生は、高畑監督作品を含むジブリのアニメや、ジブリ以前の『風の谷のナウシカ』にまで遡って何度も繰り返されたテーマだ。

もちろん、そう簡単に結論を出せるわけがない。人間が完全に勝利した!だったら草も木もないディストピアになるし、自然が勝利しました!では人類絶滅エンドでお客さんはポカーンだ。

だから、どちらも程々で折れ合う「共生」しかない。でも、「物分りよく握手しました」では映画としてサマにならないから、クライマックスには派手なバトルを用意する。そこでなんとなく解決した気になってしまうが、少年マンガの「殴り合ったらマブダチ」と根っこは同じ。

そこを高畑監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』は「土地開発に敗れたたぬきは人間社会に紛れ込みました」というオチにした。全共闘の学生たちがしれっと闘争のマエを隠してサラリーマンになった現実とシンクロした後味悪さが個人的には最高でしたが、一般的には気持ちよくないよ!

宮崎監督は、『もののけ姫』の前にすでに結論を出していた。王蟲にひき逃げされたナウシカを金色に光らせて決着をウヤムヤにしたアニメ版を反省し、漫画では「地球を回復する力、現人類にとっての敵」であるシュワの墓所を滅ぼした。「共生」が否定された!

一度はプロトンビームで「共生」を薙ぎ払った宮崎監督が、血で汚れた手にハッとして、また「共生」のぬるま湯に戻ったのが『もののけ姫』ということ。シシ神様が巨神兵のように膨れ上がり、王蟲の群れのようなゼリーを爆走させる映像スペクタクルのおかげで、観客も「なんかナウシカ続編を見た気がした!」という満足感を持ち帰れたんじゃないでしょうか。

3.ジブリ最強の萌え美少女・サン!


口を血だらけにしたサンのキービジュアルは、今ままでの「守られる」宮崎アニメのヒロインとは違う強烈なインパクトを与えたもの。実際にサンは凄まじい身体能力で、『未来少年コナン』ばりに屋根の上を駆けたり、エボシ御前とチャンバラも演じた。

が、残酷なイメージを植え付けた「口の周りの血」は母代わりの犬神・モロの君の傷口を手当するために吸ったものだったし、劇中では一人も殺してない(ハズ)。少なくとも矢でクビを落とすわ両腕をもぎ取るわのアシタカほど残虐行為はやってない。
はじめアシタカを拒絶してたのは、自分を捨てた「人間」という種族の一人だったから。命がけで助けられて「生きろ」「そなたは美しい」と言われたら、猩々の神からかばってシシ神様のもとに連れて行った。で、アシタカが回復したら添い寝して、毛皮をかけたりかけられたり。近くにはモロの君がいて、親公認の仲だ。フラグがも猛スピードで立ちすぎ!

もののけに育てられたのは、人間社会でスレてない無垢のあかし。あげく最終決戦の前に「お前にはあの若者(アシタカ)と生きる道もあるのだから」と恋心を見抜かれ、「人間は嫌い」とツンデレした直後に、届けられた首飾りにときめき。それがアシタカの許嫁からもらった横流しとも知らずに……。

ナウシカは包容力がありすぎて萌えるというよりお母さんだったが、サンはガードが固いようでスキだらけ。宮崎監督、『ルパン三世 カリオストロの城』のときよりも少女幻想をこじらせてたのでは。『もののけ姫』は萌えアニメ!

4.『シン・ゴジラ』にも影響? 宮崎駿VS庵野秀明


1997年の夏、それは『もののけ姫』と『THE END OF EVANGELION』が同時公開され、宮崎駿監VS庵野秀明の師弟対決が実現したことも忘れちゃいけない。

一度は(今でも?)宮崎監督の後継者といわれた庵野監督は、『新世紀エヴァンゲリオン』が大ヒットしたあと、師匠を挑発しまくりだった。「一般向けのつまらない日本映画の仲間入りをしてしまいましたね」と言い、『魔女の宅急便』あたりから嫌になったと。

「『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか」(以上、『スキゾ・エヴァンゲリオン』より引用)。

そんな庵野監督に対して、宮崎監督は『デラべっぴん』の特集でも「エヴァは見てない」と無関心を装っていた。ところが、『もののけ姫』に関するインタビューでは、庵野監督の名前が折に触れて出ている(以下、『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』より引用)。

「『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは典型的にそうだと思うんだけど、自分の知っている人間以外は嫌いだ、いなくてよいという、だから画面に出さないっていう。そういう要素は自分たちの中にも、ものすごくあるんですよ」

観てるじゃん!

そこの追求もしっかりされていて、宮崎監督は「3分と観られないですね。見るに耐えないですね」と少しは見たことを回答。ただ、テレビ放送を待って見たんじゃなく「最初の絵コンテ見ただけで『エライこと始めやがったな、この野郎」って思ったんですけど(笑)」とのこと。この師弟、離れているようでツーカーの仲だった。

庵野監督に対する「自分の知ってる人間以外は嫌い」という言葉は宮崎監督の自戒でもあり、『もののけ姫』での人間描写にも繋がっている。

「確かに群集シーンを描くのって嫌ですからね。手間ばかりかかって、見栄え悪いし。だけど、それをやっていくうちに……人間のよい部分をなるべく描こうというふうになっていきました。だから今回、僕は嫌な部分も描いたけれど、人間のよい部分も描いたつもりです。タタラ場にいる人間たちはいい人ばかりでなくて、愚かな部分もあるし、凶暴な部分もあるっていうふうにしないと、それは人間を描いたことにならないですから」

いい部分も悪い部分も描いた群衆シーン……怒涛の群像劇に圧倒される『シン・ゴジラ』!?と映画を見た人は想いを同じくするはず。『もののけ姫』のメッセージが時を超えてゴジラに届いていたと考えると胸が熱くなる。

この時期、『もののけ姫』の放送と『シンゴジラ』の上映が重なったのも何かのめぐり合わせ。どちらも観て、二大怪獣・宮崎駿×庵野秀明の師弟対決も楽しむのが正解!
(多根清史)