ハドソン元社長 工藤 浩 1954年、北海道ニセコ町生まれ。北海学園大学法学部在学中、兄の裕司氏とハドソン(ゲーム会社)設立、専務。87年副社長。94年社長。2004年会長。09年退任。

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充満するタバコの煙、緊迫する空気……。孫正義の手札は、フォーカード。全財産『ソフトバンク』を賭けたポーカー、恩人との最後の大勝負。果たして勝者は──。

「よし、これから僕がアメリカ仕込みのポーカーをお教えしましょう」

1982年初夏のある晩。ゲーム会社ハドソンの専務(当時)工藤浩は孫正義と毎日のように行動を共にしていた、前年創業の日本ソフトバンク(現ソフトバンク)社長である孫の誘いに乗った。千代田区麹町にある工藤のマンション。工藤はポーカー初体験だったが、孫にレクチャーを受け、ゲームに没頭した。カップ酒に、チェーンスモーキング。酒もタバコもやらない孫だったが、充満する紫煙も気にならないようだ。

時計の針は、深夜1時をさそうとしていたが、誰もやめようとしない。もう何回目かもわからない白熱の勝負。5枚のカードが配られ、数枚を取り替えた。孫は持ち金をすべて賭けた後に意を決したようにこう言い放った。

「僕はこの勝負、『ソフトバンク』を賭けるよ」

手札がよくても悪くても、ポーカーフェースの孫。そのときの手札はフォーカードだった。この夜、ビギナーズラックでツキにツキまくる工藤にしてやられていた孫だが、この手札なら勝てる。唾を飲み込み、今夜最高の手札と悟られぬよう、工藤のほうをちらりと見やる。

対する工藤は、孫が紙製コースターに手書きしたポーカーの役の強弱の格付け表を覗き込んでから、また手札を確かめ、ぼそっとつぶやいた。

「(ソフトバンクを)賭けるって……。おまえの会社なんか赤字でちっぽけじゃないか。どうしよう勝負すべきか」

そして、こう続けたのだ。

「ここに書かれている役の強さは本当に本当だよね、孫ちゃん」

「はい、もちろん」

「わかった、こっちもハドソンを賭けよう」

手札を見て、明らかに態度が強気になったように見えた工藤だが、孫も下りない。表情も変えない。相手は、弱い手を強い手に見せるハッタリに違いない。共に負けず嫌いの性分を、文字通りポーカーフェイスで覆い隠し、腹を探り合う心理戦。このころ、時代を揺り動かす若手創業者として世間の目を集め始めていた2人の青年の大一番。この後、誰も予想できぬ奇跡が起きたのだった――。

■はじめて会った男に「僕は天才です」

巨大グループのトップに立つ人、孫正義。孫の立身出世に関してよく知られるエピソードとして、高校時代に『竜馬がゆく』に衝撃を受け、渡米を決意し、「1度しかない人生、志高く生き、何か世のため、人のためになることを」と考えたことがあげられる。また、19歳のときには「20代で自分の事業を興し、30代で最低でも1000億円の軍資金を貯め、40代でひと勝負し、50代でビジネスモデルを完成させる」という人生50年計画を打ち立て、53歳(※雑誌掲載当時)の今、ほぼその通りに実行中だということも驚きに値するだろう。多くの企業がもがき苦しんだ、失われた10年やデフレの最中、なぜ孫は「プラン通り」できたのか。湧き出す事業欲の源は一体何なのか。その答えは、吹けば飛ぶような創業前後の、20代前半の孫の波乱万丈と邂逅にあったのだ。

冒頭に登場した工藤もいわば“孫マニア”の1人。81年の秋、今の六本木ヒルズ近くのマンションの一室「ハドソン東京事務所」で孫(当時24歳)と初対面した。現在はすでに現役を退いた工藤(当時27歳)は、そのときの面会を一生忘れることができないだろうという。

「第一印象は『何を偉そうに言っているんだ、このお兄ちゃんは』でした。言うことすべてがおかしいんですよ。だって、会うなり『僕は天才です』とか『ソフトウェア流通網で日本、いや世界を制覇したい。だから、御社のソフトをエクスクルーシブ(独占契約)で取り扱わせてほしい』とか。ものを卸してもらう立場なのに、ひどい大風呂敷で、一般常識から外れた話ばかり。こちらは幸いにも商売繁盛で大忙しでしたから、適当に聞き流して、追い返そうと思いました」

にもかかわらず工藤は、孫の話を昼過ぎから夜の8時まで延々聞き続けた。「口のうまい人には気をつけなければ」という警戒心はもちろんあった工藤だが、夜に別れるとき、「この人を信じてみよう」と思ったそうだ。

なぜそう感じたか。工藤は今も自身に問うが、よくわからない。それはまるで電撃的に恋に落ちた男女が、その理由を聞かれても説明できないのに似ていた。

「たぶん……フェロモンにやられた。孫ちゃんに、吸い込まれたとしか言いようがないんです。周囲からは、口汚く『ヤツは詐欺師だ』『誑(たぶら)かされている』と罵る声もありましたが、私には思いもつかない世界規模の大ボラ(苦笑)を語る彼の強い信念に賭けてみたくなったのだと思う。あの目を見たら、これに賭けなきゃ、ビジネスをやっている意味がないって」

工藤は73年、兄の裕司と出身地・北海道でハドソンを立ち上げた。当初はアマチュア無線機器の販売をしていたが、70年代後半からマイコン本体の販売とソフトの制作・販売を開始。孫が来訪した81年はすでに、全国に流通・販売ネットワークを築き順風満帆だった。そもそも孫は招かれざる客だったのだ。

急転直下、工藤はそれまで良好な関係にあった取引先との関係を断ち切り、3歳下の駆け出しにすべての商品を卸す独占契約をした。工藤は全く未知数の孫に賭け、孫もまた持っていたすべてを工藤に賭けた。そして共に勝った。このとき、2人は、目に見えぬ深い絆で結ばれたのである。

工藤は互いに若かった当時のことを思い出すと、駆け引きしたあの深夜のポーカーとともにある食べ物が頭に浮かぶという。豆腐である。札幌のハドソン本社に孫を招き、ソフト制作の現場を見せたときのことだ。

自宅に孫を泊め、工藤の妻と子供と一緒に食卓を囲んだ。そこで孫はこう言ったそうだ。

「僕はこの豆腐のようになりたいんです。豆腐は1個2個ではなく、1丁2丁。僕も1兆2兆を扱える人間になりたい」

随所で孫が見せる“大器の片鱗”。当時はいつも、キョトンとさせられたが、その後、孫正義の名がどんどん大きくなるのを工藤は自分のことのように喜んだ。「同じ社長として、普通は嫉妬したり認めたくない気持ちになったりするところですが、孫ちゃんのことはね、別なの。女房も僕も、熱狂的なファンなんですよ」。

■孫はお人好しだとお人好しが言う……

孫が工藤と出会った創業時から、さらに数年遡ってみたい。高校時代に渡米後、猛勉強してカリフォルニア大バークレー校へと入学した孫青年。この大学時代にもやはり、今の孫正義とソフトバンクを形成するのに絶対欠くことができない、キーパーソンと遭遇していた。LSIなどの半導体の分野で日本を代表する活躍をしてきたシャープ専務(当時)の佐々木正である。

77年の夏、孫が20歳、佐々木が62歳のころ。起業を志す孫青年は、大学の仲間や教授を誘い、開発・製作した「音声付き電子翻訳機」を(本物の)風呂敷に包み、佐々木が所長をしていた奈良県天理市のシャープ中央研究所に持参したのである。狙いは、売れたら報酬を支払うという契約をした仲間のために、メーカーとの契約を勝ち取ることだった。

「これは大したものだ。研究費を出しましょう」

電子翻訳機のサンプルを見せながらの孫の説明を聞き、佐々木は即決した。研究費は最初の英語版が2000万円。その後の数カ国版を含め、孫は合計約1億円の資金を得た。その結果、報酬支払いに加え、のちのソフトバンク設立の原資を手にしたのである。佐々木にとって孫は孫の世代。どう映ったのだろうか。

「当時はまだパソコンができたばかり。カリフォルニアはシリコンバレーも近く、彼はあたりの半導体工場の担当者に話を聞きにいったり、同好会の仲間と議論したりしていたようでした。商品のクオリティの高さにも驚きましたが、ただ者ではないと感じたのは、じっと1点を見つめるその目の力。技術者としての第六感のようなもので、彼を本物だと確信した」

テクノロジー界の巨人をして、本物と言わしめた孫青年。大学卒業後に帰国し、いよいよ国内初のパソコンソフト流通業の日本ソフトバンクを設立した。だが、ほどなく運転資金が底をつき、会社存続の危機に陥るのである。

佐々木本人には認識はないようだが、巻き添えで一緒に地獄へ落ちる寸前のところまでいったのだ。ハドソンとの独占契約を果たしたものの、運転資金が枯渇した孫は第一勧銀(現みずほ銀行)に、1億円の「担保なし・保証人なし融資」を依頼する。しかし保守的な銀行が、まだ会社の実績がなく、認知度の低いソフトウエアという業種への融資に慎重になるのも無理もなかった。ここで再登場するのが佐々木。銀行にこう伝えたという。

「僕が個人保証しますから、ソフトバンクに融資してやってください」

無謀なことに、自分の給料、退職金、自宅の不動産価格を確認し、万が一のときはそれらの資産をなげうつ覚悟を決めた。もし、本当にそうなれば人生は完全に狂う。死んだも同然と言えるが、幸いソフトバンクの業績が上向き、財産没収は免れた。佐々木は、人生を賭けた「賭け」に勝ち、九死に一生を得たのである。だが、なぜ「赤の他人」にそこまでしたのだろうか。

「僕はね、彼のことが、かわいいんですよ。僕が死んでも彼を生かすほうが人類のためだと思ったの。人類が長い間生き残っていくためには、誰かにバトンタッチしていかないといけない。僕は彼にバトンタッチしたいんです」

30年に及ぶソフトバンクの歴史の中で、孫はパートナーの裏切りや、自分がスカウトした人材に会社を牛耳られそうになった経験もある。佐々木と工藤の言葉を借りれば、孫には「純情で頑固だが、人がよすぎる面もある」ということだ……が、筆者の目には人がよすぎるのは佐々木と工藤のほうに思えてしょうがない。

■愛と笑いの「恩人感謝の日」

生きるか死ぬか。創業から数年間の激動期のソフトバンクと深く関わった前出の工藤や佐々木などを、同社では「恩人」として毎年感謝の意を捧げる意味で、ゴールデンウイーク期間に「恩人感謝の日」という休日を設けている。恩人たちへ必ず胡蝶蘭などの花を贈る。

数年前、恩人たちは汐留にあるソフトバンク本社が入る高層ビル26階の社長室に招待された。そこで、自らパワーポイントを操り、恩人のためだけに孫正義自ら業績報告を行った。

「創業当初、まだ売り上げが100万〜200万円だったころ、私は『将来、1丁2丁の豆腐屋精神で1兆2兆を扱える会社にしたい』とお話ししました。必ずそうなるから、応援してください、と。皆さま、今年売り上げが2兆円を超えました。本当にありがとうございました」

そうやって孫が小躍りしながらプレゼンし、深く頭を下げていたことを、この報告会を見守った社長室長補佐・人事部長の青野史寛は今も思い出す。

「脳がちぎれるぐらい考えろ。これは孫の口癖で、実際どんなミーティングや会見用の資料作成でも、本当に発表時間ぎりぎりまで考え抜き、1点の妥協もない。そうした孫の姿勢を間近で見ると、あの驚異的な事業欲のエネルギーになっているのは、その志の高さだけでなく、無力だった若い自分を引き立ててくださった恩人の皆さまに恥じない働きをするのだ、という強い信念なのだと感じるのです」

以前、この報告会とは別に、恩人たちがヤフードームに招かれたことがあった。交流戦のホークス対阪神タイガース。オーナー席で孫は熟成された高級赤ワインを恩人たちに注いで回った。前出の工藤はひと口飲むとこう言った。

「孫ちゃん、俺みたいな酒飲みにこんないいワインはもったいない。もっと普通のでいいよ。それに昔はこっちも商売で一緒に組んだのだから『恩人』って……。気を使ってもらうのは申し訳ないよ」

ちょっと照れ臭さそうに語る工藤に、孫はいやに真面目な顔で答えた。

「何を言うんです。今の僕には多くの人が声をかけてくれます。でも工藤さんたちは、人脈も資金も何もない苦しいときの僕を支えてくれた」

こういう気持ちを「報われた」というのかな、とそのとき、工藤は感じたのだった。

ところで、30年前のポーカーの大一番。勝ったのは、工藤だった。手札は、なんと、「A、10、J、Q、K」の最高の役ロイヤルストレートフラッシュ。工藤は今もたまに孫に会って、少し酔うと冗談めかして言うことがある。

「孫ちゃんにはポーカーの貸しがあるんだ。1兆2兆のソフトバンクの経営権、本当は俺にあるんだから(笑)」

そして昔、昼夜なく動き回っていた「仕事の相棒」としての挑発も、少し。

「最近ちょっと(活動が)静かだね? あまり現実的にならないでよ。あんたの持ち味は派手に有言実行、なんだからさ」

賭けて前進するのが孫スタイル。そんな工藤の意見を、孫は背筋をピンと伸ばし、恩人たちが異口同音に語る、あの「地球の裏側を見通すような瞳」でじっと聞いていた。(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(大塚常好=文 小倉和徳、本田 匡=撮影 PANA=写真)