ブルートレイン「あさかぜ」のデラックス食堂車(筆者撮影)

昭和50年代、私はある週刊誌のグラビアで、北海道から鹿児島まで特急列車の食堂車従業員を取材したことがある。国鉄と日本食堂の協力を得て、北海道の特急「おおぞら」から「はつかり」「白鳥」「雷鳥」「はやぶさ」などを乗り継いで鹿児島まで取材を続けた。


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当時の特急にはほとんど食堂車があり、「ひばり」「あいづ」「はつかり」「雷鳥」「有明」といった都市間の本線を走る列車はもちろん、ディーゼル特急の「おおぞら」「おおとり」「やくも」「まつかぜ」「くろしお」などもほぼ全列車に食堂車が連結されていた。

今思えば、この時代が列車本数からしてみても食堂車全盛の時代だったのであろう。それから数十年、食堂車はどのような過程を経て定期列車から消えてしまったのであろうか。

戦前から洋食フルコースが

日本の食堂車の歴史は、1899(明治32)年に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)と官設鉄道(のちの国鉄)乗り入れの急行列車に連結されたのが始まりで、これは一等車利用客のためのサービスだったらしい。1930年代、当時の日本を代表する特急「燕」の料理は洋食のフルコースのほかに一品料理としてカレーライス、チキンライス、オムレット、ビーフステーキ、紅白の葡萄酒があり、車内改札時に列車ボーイが予約を取りにきたという。

戦時中に中止されていた食堂車は、1949(昭和24)年に東京―大阪間の特急「へいわ」と東京―鹿児島間の急行列車で復活。昭和30年代に入ると東京―大阪間の特急「こだま」や東京―博多間の寝台特急「あさかぜ」、上野―青森間の「はつかり」などが続々誕生し、これらの列車にも食堂車は当然連結された。当時の時刻表によるとこの頃のビーフステーキは440円、コーヒー50円。山手線の初乗りが10円の時代であった。


急行電車内の握りずしカウンター(提供:岸山仁氏)

昭和30年代後半になると、長距離の急行電車に「ビュッフェ」が登場した。東海道・山陽本線の「なにわ」「いこま」「宮島」をはじめ、電車によって運転される北陸・上越・東北・中央本線などの急行に連結され、カレーライスやサンドイッチ、そばなどの軽食を提供した。


「つばめ鮨」では急行のすしカウンターで提供した「お好み寿司」を再現していた(筆者撮影)

この中で特筆されるのは、1965(昭和40)年に東京―大阪間の急行「いこま」「せっつ」のビュッフェにおいて、本邦初の握りずしのカウンターを設けた「すし電車」が登場したことだ。当時、車内ですしを握った岸山仁さんによると、揺れる車内で刃物を扱うので細心の注意を払って握っていたという。ちなみに上にぎり寿司は250円だった。

ちなみに岸山さんは退職後、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で鉄道ムードのすし店「つばめ鮨」を開店、当時車内で提供していた「お好み寿司」を再現し、鉄道ファンらが訪れて人気を集めていた。残念ながら岸山さんは2016(平成28)年に他界され「すし電車」も伝説になった。

ブルートレインの食堂車

食堂車の中でも特に華やかだったのは特急列車、特に長距離を走る寝台特急・ブルートレインの食堂車だろう。


ブルートレイン「あさかぜ」(24系25形)の食堂車内(筆者撮影)

東京―博多間に寝台特急「あさかぜ」が登場したのは1956(昭和31)年のこと。当初から食堂車はあったが、1958(昭和33)年には車両が新たに開発された20系客車に代わり、いわゆる「ブルートレイン」の草分けとなった。筆者が初めて乗ったブルートレインはこの20系「あさかぜ」で、食堂車ではビーフシチュー定食を食べた記憶がある。


ブル-トレイン「富士」の食堂車内。このようにして乗務員用の簡易ベッドを設置していた(筆者撮影)

1977(昭和52)年には20系に代わって新型客車の24系25形が「あさかぜ」に投入され、同列車をはじめ「富士」「はやぶさ」「出雲」などが個室A寝台を連結した編成になった。

この頃、鉄道少年の間で「ブルトレブーム」が起こり、鉄道ファンの間でブルトレはあこがれの列車となった。当時、筆者は『ケイブンシャの大百科』や『鉄道ジャーナル』誌のブルートレイン添乗取材が多く、多い時には月に2度も九州を往復したほどだ。主に取材したのは「あさかぜ」「さくら」「富士」「はやぶさ」「みずほ」など食堂車を連結したブルトレだった。


「あさかぜ」デラックス食堂車での朝食(筆者撮影)

その後「あさかぜ」は4人用個室B寝台「カルテット」や、ミニロビーとシャワー室を設けた車両が連結されるなどグレードアップが進み、食堂車もデラックス食堂車に改造された。この食堂車はヨーロッパのオリエント急行を参考にしたもので、室内はそれまでの食堂車のイメージを払拭した豪華仕様だった。だが、筆者の印象では、料理の種類も多くはなったものの、味はなんとなくファミリーレストラン化しているようにも思えた。

やがて国鉄が分割民営化されてJRになると列車の合理化が進み、ついに1993(平成5)年には「あさかぜ」も食堂車の営業を休止。列車自体も2005(平成17)年3月をもって廃止されてしまった。ほかのブルートレインも「あさかぜ」の流れとほぼ同じ経過を経て次々と廃止されていった。

豪華寝台列車に「豪華食堂車」

一般的な食堂車が衰退する一方、代わって登場したのが豪華寝台列車とその食堂車だ。JR発足後の1988(昭和63)年には青函トンネルが開業し、同時に誕生した上野―札幌間を結ぶ寝台特急「北斗星」はその豪華な設備が話題を呼んだ。この年にはヨーロッパから「オリエント急行」も来日し、折からのバブル景気も相まって豪華列車のブームが到来した。


「北斗星」の食堂車「グランシャリオ」。JR北海道所有の食堂車は赤いテーブルランプが優雅さを演出した(筆者撮影)

「北斗星」はJR東日本とJR北海道がそれぞれ客車を保有しており、食堂車とロビーカーには両社でインテリアの違いがみられたが、JR北海道の食堂車はオリエント急行を思わせる真っ赤なテーブルスタンドが特徴で、車体にはオリエント急行のようなエンブレムも光っていた。食堂車は「グランシャリオ(Grand Chariot)」と命名され、メインメニューには完全予約制のフランス料理のフルコースが供された。


「トワイライトエクスプレス」の食堂車内(筆者撮影)

一方、JR西日本も1989(平成元)年に臨時列車として大阪―札幌間に「トワイライトエクスプレス」の運転を開始した。筆者は初期の頃に乗車したが、食堂車では大阪の一流ホテル監修のフランス料理が提供され、洗練された男性食堂車乗務員が実にスマートな接客をしてくれたことが印象に残る。

これらの豪華寝台列車を語るうえで外せないのは、やはり前述の「オリエント急行」だろう。オリエント急行は1988年にフジテレビの開局30周年記念イベントとして日本に招かれ、パリを起点にシベリアを経由して来日し、終点の東京に到着後は国内各地をクルージングした。


来日した「オリエント急行」車内での食事の様子。調理は石炭レンジを使用した(筆者撮影)

この際、筆者はテレビ局の番組監修とオフィシャルカメラマンを務めたので、パリ―東京間の最終区間であった広島―東京間で乗車取材したが、特に食堂車の料理のすばらしさ、ベテランのスタッフによる接客の良さにはさすがオリエント急行と感心した次第だ。

ちなみにこれらの料理の数々は厨房で原材料から調理され、それには石炭レンジが用いられた。本来、調理に石炭を使用して火を使う車両は国内では運転できないが、オリエント急行は特別な認可を受け、青函トンネルを通過したのである。

懐かしの新幹線食堂車

食堂車を語るうえでは、新幹線も外せない。


0系新幹線のビュッフェ。壁にアナログ式の速度計(写真中央)がある(筆者撮影)

1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線が開業し、同時に新幹線電車にはビュッフェが営業を開始した。筆者はこの翌年、上京の際にビュッフェを体験したが、指定席があるにもかかわらず、東京までの大半の時間をビュッフェで過ごし、壁にある速度計を眺めていたものである。当時のビュッフェのメニューはカレーライスやサンドイッチなどの軽食類が主体だった。のちに東北・上越新幹線が開業した際も、ほぼ同形式のビュッフェが設けられた。


新幹線0系の食堂車。当初は写真左側の壁に窓がなかったが、富士山を見られないとの苦情が相次いだため窓が設けられた。この列車は帝国ホテルによる営業(筆者撮影)

新幹線に食堂車が登場したのは1974(昭和49)年9月で、「ひかり」の8号車に初の食堂車が連結されたが、在来線の食堂車とは違い、食堂車利用者以外が通る通路は山側に独立して設けられた。この通路と食堂の間には壁があり、「富士山が見えない」と食堂利用者から苦情が寄せられたため、1979(昭和54)年以降は通路側の壁面に窓が設置され、食事をしながら富士山を見ることができるようになった。

この時代、新幹線の食堂車では日本食堂、帝国ホテル、都ホテル、ビュッフェ東京の4つの業者がそれぞれ自慢の料理を競っていた。時刻表には列車ごとに食堂車の担当業者が明記されていて、乗客は自分の好みの業者を選ぶことができた。筆者は帝国ホテルのステーキ定食、日本食堂のビーフシチュー定食を選んで乗車したものだ。


新幹線100系の2階建て食堂車内。2階建て食堂車は眺めの良さで人気を博した(筆者撮影)

国鉄末期の1985(昭和60)年10月には新形の100系が登場した。この電車は中央の2両が2階建ての食堂車とグリーン車になり、食堂車は階下に厨房を設け、2階が4人掛けのテーブル10席、2人掛け2席を設けた食堂となった。展望の良い2階席で富士山や浜名湖を眺めながら食事をする楽しみは、文字どおり珠玉のひとときだった。


2階建て食堂車の厨房。1階にあり、料理は客席にリフトで運ばれた(筆者撮影)

この2階建て新幹線の食堂車は大好評で、1989(平成元)年には2階建て車両を4両にした「グランドひかり」が登場し、食堂車もさらにグレードアップした。しかし、新幹線の食堂車も高速化による乗車時間の短縮などでしだいに姿を消し、ついに2000(平成12)年にはすべての食堂車が休止となり、100系が2002(平成14)年に引退するとビュッフェやカフェテリアも姿を消してしまった。

まだ食堂車は走っていた!

日本の定期列車から食堂車は姿を消したと思っていたところ、なんと私鉄の定期列車に食堂車は現存していた。2013(平成25)年、伊勢神宮の第62回式年遷宮に合わせて登場した近鉄の伊勢志摩行き観光特急「しまかぜ」だ。


近鉄特急「しまかぜ」のカフェテリア(筆者撮影)

この電車は近鉄が1編成6両に18億5000万円もの巨費をかけて製造しただけあって豪華な設備を誇るが、中でも注目の車両はダブルデッカー構造の「カフェテリア」だ。この車両は往年の100系新幹線の食堂車を思わせる構造とインテリアで、調理が可能な供食設備を持っており「食堂車」といえる。

メニューは松阪牛カレー、松阪牛重、海の幸ピラフにお弁当各種、アルコール類にスイーツまで。ほとんどがご当地メニューであることが特徴で、ワインも河内ワインだ。

いま話題の超豪華クルーズ列車や第三セクターのグルメ列車、ビール列車など、食事のできる列車は現在も決して少なくないが、気軽に「乗ったとき食べられる」といった食堂車もあってほしい。

筆者の希望は東海道・山陽新幹線「のぞみ」にビュッフェスタイルのバー車ができることである。専用車両が必要となるものの、個人的にはもうそのような時代に来ていると思うのだが……。