福田正博「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」
悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――福田正博編
1993年10月、ハンス・オフト率いる日本代表は初のワールドカップ出場をかけて、アジア地区最終予選の開催地、カタール・ドーハに足を踏み入れた。同年5月に開幕したJリーグ人気も追い風となり、勢いに乗って最終予選に臨んだ日本代表の面々。しかしそんな中、ひとりの若きミッドフィルダーは自信を失いかけていた。福田正博、当時26歳――。オフトから絶大なる信頼を受けていた福田は、プレッシャーに苛(さいな)まれながらドーハ入りしていた。
福田正博の右足には、今もあのときの感覚が残っている。
アメリカW杯アジア地区最終予選、初戦のサウジアラビア戦(0―0)。前半20分に右足を振り抜き、インパクトしたときの心地いい感触が――。
「ラモスさん(瑠偉)がヘディングでフリックしたのを、ハーフボレーで捉(とら)えたんだ。押さえの利いたパーフェクトなシュートだったと、自分でも思う。余計な力が抜けていて、ジャストミートだったからすごく軽くて、打った瞬間、決まるんじゃないかという手応えがあったんだけど......」
福田が放った会心の一撃は、しかし、のちに国際サッカー歴史統計連盟によって「20世紀のアジアナンバーワンGK」に選出される、若き日のモハメド・アル・デアイエに左手一本でキャッチされ、先制の絶好機を逃してしまう。
もし、あのシュートが決まっていたら――。
「『たら』『れば』になってしまうけれど、最終予選の結果は違ったものになっていたかもしれない。少なくとも自分にとって、大きな分岐点になったのは間違いない。あれが入っていたら勢いに乗れて、失っていた自信も取り戻せたんじゃないかと思うから......」
■オフトに対して最初は
不信感でいっぱいだった
1993年10月、オフトジャパンはカタールのドーハで集中開催されたW杯最終予選に臨んでいた。
このとき、日本列島は空前のサッカー熱に覆われていた。同年5月、日本初のプロサッカーリーグが誕生したことに加え、日本代表が初めてW杯への扉を開くかもしれないという期待が熱狂に拍車を掛けていた。
1992年春に初の外国人指揮官、オランダ人のハンス・オフトを迎えた日本代表は、短期間で成長を遂げていく。同年8月のダイナスティカップ(現・東アジアカップ)で、中国、北朝鮮、韓国をおさえて東アジアのトップに初めて立つと、11月にはそれまでグループステージさえ突破したことのなかったアジアカップでも優勝し、アジアの頂点へと登り詰めた。
三浦知良、ラモス、柱谷哲二、福田、中山雅史ら個性派集団の躍動は、新時代の到来を感じさせた。
もっとも、チームは発足当初から順風満帆だったわけではない。
当時、チームの中核をなしていたのは、ヴェルディの選手たち(三浦、ラモス、北澤豪、武田修宏など)だった。彼らの標ぼうする狭いエリアをショートパスで打開していくブラジルスタイルのサッカーと、「サッカーはもっとシンプルなものだ」と強調するオランダ人指揮官のスタイルは、相反するところが多かったのだ。
とりわけ、10番を背負うラモスとオフトのサッカー観は正反対に近く、実際にふたりは何度か衝突している。しかも、トレーニングでは、「スリーライン」「スモールフィールド」「アイコンタクト」「トライアングル」といったキーワードのもと、基本が徹底的に繰り返され、「俺たちは高校生じゃないんだ」と、不満を募らせる選手も少なくなかった。
「物足りないと感じる選手もいたけれど、そうした基礎がなっていない選手が代表の中にいたのもたしかで、俺なんかもそうだったと思う。だから、今まで感覚的にやっていたことが論理的に整理されたし、サポートの角度やパスの回し方など、サッカーがどういうものか教えてもらった」
そう語る福田にしても、オフトを初めから信頼していたわけではない。むしろ、最初は不信感でいっぱいだったという。
オフトジャパンの初陣となったのは1992年5月、アルゼンチンとウェールズを招いて行なわれたキリンカップだった。この大会に招集された18人の選手のうち、2試合ともベンチにすら入れなかったのは、福田だけだったのだ。
「大会後、オフトが、『ひとりずつ自分に点数を付けろ』と言ったんだ。それで自分の番が来たから、『2試合ともベンチにすら入れてもらってないから、点数なんて付けられない。逆に、なぜ自分を選んだのか教えてくれ』と詰め寄った。そもそも、"オフトは俺のプレイの特徴を知っているのか?"という疑問もあったから。みんなは驚いたみたいだったけど、"代表には二度と呼ばれないだろうな"という覚悟で聞いた。でも、直後に行なわれたオランダ遠征にも選ばれて、チャンスをもらったんだ」
この遠征の3試合、すべてにスタメンで起用された福田は、指揮官の信頼を勝ち取り、以降、不動のレギュラーとなる。そして、チームは短期間で結果を残し、オフトは求心力を高めていった。
■最終予選が中東ということで
すごく神経質になってしまった
オフトのマネジメント、アプローチの仕方は、選手にとって、とても新鮮だったという。
ダイナスティカップの中国戦では、「立ち上がり20分は相手が猛攻を仕掛けてくるが、それさえしのげば彼らの足は止まり、我々が主導権を握れるはずだ」という、試合前のミーティングどおりの展開になった。また、ライバル・韓国との試合前のロッカールームでは、相手のメンバー表をびりびりと破ってみせて、選手たちの気持ちに火をつけた。
福田にとって印象深いのは、アジアカップ開幕前日の出来事である。
電話で呼び出され、監督室を訪ねた福田は、「おまえ、何か悩み事があるんじゃないか? 今は契約の時期だからナーバスになるのも無理ないが、相談があるなら聞くぞ」と言われ、「プロの監督はそんなところまで見抜くのか」と驚いた。
「オフトが来るまで、俺たちは、『韓国はもっと走るんだから、それ以上に走れ』と言われ続けてきた。でも、オフトは、『サッカーはフィジカルだけのスポーツじゃない。技術は日本のほうが上だから、パスをつないでコレクティブに戦えれば勝てる』と言って、俺たちを送り出した。それで後半、先に足がつったのは韓国だったんだ。目からウロコだったよ」
オフトの指導方法や選手への接し方、ユーモラスな性格は、当時のチームにすごく合っていたのだという。
「ラモスさんにも粘り強くアプローチして、自分のほうに振り向かせたよね。アジアカップが終わったころには、ラモスさんも、『オフトを男にしたい』と公言していたから。オフトのマネジメントに日々刺激を受けていたんだけど、今、監督をしている森保(一/現サンフレッチェ監督)や高木(琢也/現V・ファーレン長崎監督)、哲さん(柱谷/現水戸ホーリーホック監督)なんかも、すごく影響を受けているんじゃないかな」
翌93年に入っても、日本代表の進撃は止まらなかった。4月に開幕したW杯アジア地区1次予選の日本ラウンドで、4試合すべてに勝利すると、UAEラウンドも3勝1分けで乗り切り、最終予選進出を決めた。そして、5月15日にはJリーグが開幕し、日本のサッカー人気が爆発する。
その勢いに乗って、オフトジャパンは10月のアジア最終予選に向かっていくはずだった。
しかし、リーグ戦週2試合の過密日程が、選手の体を蝕(むしば)んでいた。
6月に都並敏史の疲労骨折が判明。春に疲労骨折していた北澤も、完治したわけではなかった。ふたりだけではない。代表選手の誰もが、どこかしら負傷を抱えた状態だった。
「2、3年前にオフトに会ったとき、最終予選の直前にスペインに遠征したのはチームを休ませるためだったと言っていた。『あまりに疲弊していて、こんな状態では戦えないと思った』と。当時は水曜、土曜と週2で試合があったし、延長Vゴール方式が採用されていた。しかもあれだけ盛り上がっていたので、選手たちも(Jリーグを)成功させたいという一心で、相当高いテンションでプレイしていた。みんなボロボロだったんだ。だからオフトは、マスコミやファンが集まりにくい場所でリラックスさせたかったらしい」
その福田自身も、負傷と疲労でコンディションを崩していたばかりか、所属する浦和レッズの低迷により、精気を根こそぎ奪われ、自信を失いかけていた。
加えて、最終予選が灼熱の中東・カタールで集中開催されることが、福田を一層、ネガティブな思考に陥らせた。
「1次予選のUAEが人生初の中東だったのだけれど、そこで下痢と発熱に見舞われ、こんなに辛いのは初めてというぐらいに苦しんだ。それがトラウマになって、最終予選が中東ということで、すごく神経質になってしまった」
コンディションとパフォーマンスに不安を抱え、ナーバスな精神状態に陥ったうえ、予選突破へのプレッシャーに苛まれながら、福田はドーハ入りするのだった。
■自信を持って戦えるメンタリティ、
コンディションではなかった
サウジアラビアとの初戦で、前述した福田の決定機のほかは、さしたるチャンスもなく0―0で引き分けた日本は、3日後のイラン戦を1―2で落とし、早くも窮地に追いやられてしまう。福田はこの2戦目でも、右サイドを突破する得意のプレイを見せられなかった。
オフトジャパンの基本システムは、中盤をダイヤモンドにした4―4―2。トップ下には福田が入り、左MFにラモス、右MFには吉田光範、1枚の守備的MFは森保が務めていた。
攻撃の中心は紛れもなくラモスである。そのラモスに、2トップの一角であるカズ、サイドバックの都並が絡む左サイドからの崩しが、チームのストロングポイントだった。森保はラモスをカバーするため左にずれ、その穴を埋めるべく、吉田が中央へとポジションを移す。こうして空いた右サイドに飛び出していくことが、福田に与えられた役割だった。当時の福田に右のアタッカーという印象が強いのは、こうした理由からである。
「サッカーにおけるバランスが何かと言ったら、左右対称がいいというわけじゃない。左が攻撃的なら、右が守備的になってバランスを取る。左から崩すなら、右でゴールを奪う。こうしたバランスの取り方もある。『アンバランスの中のバランス』とでもいうのかな。オフトは一人ひとりの個性を見極めた上で配置して、一見アンバランスでも、実際はバランスが取れたチームを築きあげていたんだ」
ところが、絶妙に保たれていた均衡が、肝心の最終予選で崩れてしまう。骨折による都並の欠場に加え、福田のスランプが、その要因だった。
2戦を終え、オフトが動く。
福田とセンターフォワードの高木、都並の代役として左サイドバックに入っていた三浦泰年を先発から外し、長谷川健太、中山、勝矢寿延を送り出し、システムも4―3―3に変えて北朝鮮との第3戦に臨んだ。
「スタメン落ちも当然だと思ったよ。申し訳ないけれど、自信を持って戦えるメンタリティ、コンディションではなかった。自分の代わりに出ることになった(長谷川)健太さんとは同部屋だったけれど、精神的に参っていたのか、会話した覚えがない。短期決戦というのは(波に)乗ったもの勝ちというところがあるけれど、唯一、乗れそうな場面で決められず、自信を取り戻せなかった。逆に、ゴールを決めて勢いに乗ったのが、ゴンだったよね」
イラン戦の終了間際にゴールを奪った中山は、北朝鮮からもゴールをもぎ取った。カズも2ゴールを決め、北朝鮮に3―0で勝利した日本は、4戦目、カズのゴールで韓国を1―0で下し、ついにグループ首位に踊り出る。
そして10月28日、強い日差しの中でキックオフされたイラクとの最終戦――。カズのゴールで前半5分に先制したが、その後、イラクの反撃に遭い、後半9分に同点に追いつかれてしまう。その5分後の後半14分、長谷川に代わって途中出場した福田は、難しいゲームだということを強く感じ取っていた。
「ずっとピンチの連続で、みんな混乱していたからね。スタジアムの雰囲気も異様だったし。どうにかしてこの流れを変えなきゃいけないと思ってピッチに入ったけれど、相手はうまくてボールが全然取れなくて、スムーズに試合に入れなかった」
だが、福田の投入によってゲームはにわかに動き始め、10分後の後半24分、ラモスのスルーパスを中山が蹴り込み、勝ち越しに成功する。その後、イラクの猛攻を浴び続け、相手のシュートをGK松永成立が辛うじてコーナーキックに逃れたとき、時計の針は後半45分を指していた。キックオフ時に明るかった空は、いつの間にか漆黒の闇に包まれていた。
「しっかり準備する前にショートコーナーをされたものだから、え、まさか、という感じになって、みんながボールウォッチャーになってしまった。自分のちょうど前の選手にヘディングされて、ボールがゴールに吸い込まれていって......」
■オフトにとって俺の不調は誤算
申し訳なく思っている
福田には、その後の記憶がない。
タイムアップの笛が鳴るまでの残り数十秒間、どんなことを考えてボールを追ったのか、まるで覚えていない。そればかりか、試合後のロッカールームでオフトがどんな話をし、どうやってホテルに戻り、どんな思いで一夜を過ごしたのか、記憶がすっぽりと抜け落ちている。
「唯一、覚えているのは、試合後のオフトの表情。オフトがスタンドの誰かと話していて、他会場の結果を確認していたんだろう。まだ得失点差で(本大会出場の)可能性が残されていたから。でも、すごく残念そうな顔をしたんだ。それを見て、ああ、ダメだったんだと悟ったよ」
記憶に残る次のシーンは、帰りの機内でのオフトとのやりとりにまで飛ぶ。
「『お前、どうしてしまったんだ』と言われたことを、すごく覚えている。オフトが俺に期待してくれていたのは、間違いないと思う。あのオランダ遠征以来、ずっと使い続けてくれたし、最終予選でもオフトは4戦目、5戦目に俺を途中出場させている。同じように不調で先発から外された高木はその後、起用されていないのにね。それだけ信頼してくれていたってことだと思うんだ。オフトにとって俺の不調は誤算だっただろうし、本当に申し訳なく思っている」
心身ともに大きなダメージを抱え、ドーハから帰国した福田を待っていたのは、所属クラブの相変わらずの低迷だった。レッズはこの年、Jリーグの初代最下位という不名誉な結果を残すと、翌年も最下位となり、「Jリーグのお荷物」と揶揄(やゆ)された。
「帰ってきて2年ぐらいは、思うようにプレイできなかったな。チームも低迷していたし、俺自身もケガを繰り返していて、ストレスを溜め込んでいた。勝負弱いっていうレッテルを剥がして、自分の力を証明したかっただけに、もどかしくてね......。自信を取り戻すには、結果を残すしかない。だから、ショックから立ち直れたのは1995年、単独で得点王になったときだね。あれでようやく、自信を取り戻すことができたと思う」
あれから20年――。福田にとって、ドーハの悲劇とは何だったのか。
「よく、『あれがあったから日本のサッカーは......』と言うけれど、どうなんだろうね。(W杯に)行けたら、また違うものがあっただろうし。でも、自分にとって大きな財産であることは間違いない。サッカーの恐ろしさ、アウェーの難しさ、経験の重要性、国を背負うことの重み、そして、自分の未熟さを教えてもらったんだから。クラブで今、辛い時期を過ごしている香川真司や吉田麻也が代表で、どんな気持ちでプレイしているのか察することができるのも、ドーハで同じ経験をしているからなんだ。清雲(栄純/当時の日本代表コーチ)さんが、あれは、『ドーハの悲劇』じゃない。『ドーハのメッセージ』なんだと言っていたけれど、本当にそのとおりだと思う」
日本サッカー界はその後、1996年に28年ぶりにオリンピック出場を果たすと、翌97年にはマレーシアのジョホールバルで、初めてワールドカップの出場権を手に入れた。以降、日本のオリンピックとワールドカップへの出場は途絶えていない。
それは日本サッカー界が「ドーハの悲劇」を教訓にしてきたからだ、と結論づけてしまうのは、短絡的だろう。なにせ20年も経っているのだから。
だが、日本サッカー躍進の原点が、あの灼熱のドーハにあり、あの激闘にはサッカーの本質が詰まっているのは間違いない。W杯優勝を本気で目指そうとしている今、「ドーハのメッセージ」には改めて耳を傾けてみる価値がある。
飯尾篤史●構成 text by Iio Atsushi