準備の徹底、扉開く・指宿商

九州大会出場を決め校歌を歌う指宿商ナイン

 15人チームの指宿商が緊迫した接戦をものにして、初の九州大会への扉を開いた。鹿児島県外の人にはあまり馴染みのない学校かもしれないが、かつて西武などで活躍した永射保投手や、元ソフトバンクの田之上慶三郎投手の母校である。1969年春の第44回大会で決勝進出は1度あるが、その頃はまだ出場枠が優勝校にしかなかった。決勝はおろか、近年はベスト8進出もなかった温泉などで有名な観光地・指宿の市立高が、初めての九州大会を勝ち取った。

エース村山 孝輔(2年)の好投で、強力打線を擁する大島に対して得意の接戦に持ち込むことができた。一つのミスが大きな流れを左右しかねない緊迫した展開でも、チームで取り組んでいるプレーに入る前の心身の準備を徹底できた。

最大の原動力だった村山は、試合に入るまでのコンディショニングを徹底した。準々決勝の鶴丸戦は疲れで制球を乱したが、準決勝までの2日間、練習にもほとんど入らず、ストレッチなどで疲労を抜いた。この日は右打者の外角低め、左打者の内角低めを基本線に厳しいコースを突く投球が最後までぶれなかった。

 2番・武田 翔吾(2年)、3番・重原 龍成(2年)、4番・小野 浩之介(2年)、大島の好打者が何球もファールで粘るシーンがあったが、根負けしなかった。圧巻は8回、武田の打席だ。カウント3ボール2ストライクから5球連続ファール。捕手・若松朋也主将(2年)も「投げるボールがない」とお手上げ状態だったが「村山の顔を見たら、表情が明るかったので行けると思った」最後は内角低め、武田にバットを振らせない切れ味の直球で見逃し三振だった。「ここまで来たら気持ちの勝負。最後まで集中力が切れなかった」と村山。大島の重原主将は「打てない球じゃなかった」と感じながらも「球に気持ち、気迫が乗っていた。一枚上手だった」と悔しがった。

以前の村山は2アウトで凡打だと、打球を見ずにベンチに引き上げようとしていた。今ではきっちり最後まで確認して、何があっても動じないことを心掛けている。7回、打ち取った打球を野手が落球した場面があったが「ミスは誰にでもあると気持ちを切り替えられた」と平常心で次の打者に向かうことができた。

守備では、村山が投球動作に入る前に、野手は打球に対する準備を忘れなかった。毎回のように打球が飛んできた遊撃手・内村 和平(2年)は股関節周りを柔らかく、重心を低くして「ボールの下から入る」感覚を心掛けた。9回二死一三塁、一打同点、サヨナラのミスが許されない場面でも「深く深呼吸して、気持ちを落ち着かせた」と内村。最後の打球はセンター前に抜けそうな当たりだったが、楽に打球の正面に入り、確実にフォースアウトをとって締めくくった。

「村山の集中が全員に伝染したような試合だった」と内村文彦監督。初回と3回、ワンチャンスにタイムリーでものにした得点を15人の準備と集中で守り抜き、初の九州への切符を手繰り寄せた。

(文=政 純一郎)