ニートでも生活保護でも生きていけない現実『生活保護――知られざる恐怖の現場』
親が死んで、仕事もなくて、お金もなくて、生きていけなくなったらどうしよう。半ニートの僕は、時々、そんなことを考える。でも、サイアク生活保護があるじゃないか! そこから再出発すればいい、と思って安心している。
しかし、『生活保護――知られざる恐怖の現場』を読んで、そんな安心感は吹き飛んでしまった。生活保護が受けられなくて、餓死、自殺。本書には、現代日本でナゼ?と思わずにはいられない過酷な貧困の実態が描かれていた。
著者は今野晴貴。若者の労働問題を考えるNPO法人「POSEE」代表を務め、毎年数百人もの労働・生活相談に携わってきた人だ。
例えば、こんな事件。北九州小倉区のJさん(52歳、男性)のお話。
アルコール性肝書障害や糖尿病を患ったJさん。タクシー運転手の仕事を続けられなくなり、生活保護を申請した。受給後、市の記録によるとJさんの主治医は「軽作業可」と判断したという。そこで市のケースワーカーはJさんの就労指導を始めた。その後、生活保護を辞退したJさん。当時の心境が日記に綴られている。
《4月5日》「体がきつい、苦しい、だるい。どうにかして。」
《日時不明》「せっかく頑張ろうって思っていた矢先に切りやがった。生活困窮者は、はよ死ねってことか。」
《5月25日》「小倉北のエセ福祉の職員ども、これで満足か。貴様たちは人を信じる事を知っているのか。3月、家で聞いた言葉、忘れんど。市民のために仕事せんか。法律はかざりか。書かされ、印まで押させ、自立指(ママ)どうしたんか。」
《同日》「腹減った。オニギリ腹一杯食いたい。体重も68キロから54キロまで減った。全部自分の責任です。」
《5月26日》「人間食ってなくてももう10日生きてます。米食いたい。オニギリ食いたい。」
《6月5日》「ハラ減った。オニギリ食べた―い。25日米食ってない。」
日記はここで終わっている。およそ1ヶ月後、Jさんは餓死状態で発見された。
100円のオニギリすら、食べられないというのか。でも、なぜJさんは、一度は受けていた保護を辞退したのだろう。
事件の後、主治医は「働ける」と判断した文章は書いていないと抗議した。著者は、行政が受給者を保護から追い出すために、病状調査を改竄し、辞退届も不本意に書かせた可能性が高いと考えている。
「違法行政」としか言えないような状態が、生活保護の現場にあるのだ。その原因の一つは、保護費の抑制をしたいという財政上の要請だ。年々膨れ上がり、2011年には3兆6000億円にも達した生活保護費。
今までにも何度か「適正化政策」と呼ばれる、行政による受給者の削減は行われてきた。しかし、著者によると、近年はこの適正化政策が暴走しているという。
背景にあるのは、次長課長・河本の「不正受給」報道に端を発する、生活保護バッシングだ。確かにあの報道以来、「生活保護は甘え」という声をよく聞くようになった気がする。そして行政までもが、バッシングの風潮に乗っかろうとしているというのだ。
京都府舞鶴市に住むシングルマザーのBさん(30代、女性)は、病気で働けなくなり、市の窓口で生活保護の申請をしようとした。ところが市は「母や妹に頼れ」「若いんだから働け」と言って申請書すら渡さない。果てには「生活保護バッシングの中で市民の声があるから遠慮してくれ」。
いつもは機転の利かない行政に、こんな時だけ世間の空気を読まれても困る。追い詰められたBさんは「POSSE」に連絡。その時点で所持金はなんと600円ぽっちだった。改めてスタッフに帯同してもらい、後にどうにか受給できたそうだ。
そもそも、行政は申請自体を拒否できない。申請を受けたうえで、収入や、財産、扶養してくれる親族がいないかを審査して、受給の可否を決める。だから、はなから申請を受け付けない対応は、違法なのだそうだ。(ちなみにこれはよくある手口で、「水際作戦」と呼ばれている)
審査をクリアしても、受給者の受難は続く。
受給を開始したら、今度はケースワーカーと通称される自治体の職員と付き合っていかなければならない。ケースワーカーは、資産や収入など受給者の実態を把握して、一時扶助の判断や就労支援を行っており、保護を打ち切る権限を持っている。
著者によると、受給者にとって重要な存在であるケースワーカーの質が低下しているという。保護費削減の圧力はもちろん、受給者に対する権力が強すぎること、専門性の低下、人件費の少なさによる担当世帯の超過が原因だ。
「働かん者は死んだらいいんだ」「風俗ででも働け」「裏の公園に行けばいい木があるよ。ヒモなら貸してやるぞ」
ケースワーカーにより繰り返される暴言と威圧が、むしろ受給者の自立と社会復帰を遠ざけ、不本意な辞退を生み、餓死、自殺、を招いてしまう。
僕もこんなことを言われたら絶対病む。お金が無い、という事だけでも言いだしづらいのに、その上死ねと言われては、やりきれない。
著者はこうした過酷な実態を踏まえ、生活保護を含めた福祉政策全体の見直しを提言する。現行の制度のように、「特別な貧困者」を審査、厳選して救うのは難しい。むしろある年収以下の世帯に、一律で医療費や教育費の減免を行うべきだという。
でも、それはそれで、お金は足りるのかな。貧困層のために、増税してもよいという人はどれくらいいるのだろう。
著者の主張は偏りすぎていると思う人がいるかもしれない。僕もそう思う。ケースワーカーの中にも親身になってくれる人は絶対にいる。意図的にあくどい不正受給をしている被生活保護者だっているはずだ。
それでも、この本には説得力がある。著者は生活保護について、あくまでも冷静な政策議論として書こうとしている。だけどその行間には、何かただならぬ思いが溢れていた。「恐怖の現場」の最前線に立つ者の、怒りだ。
僕には、怒りよりも不安がやってきた。子供のころ、ふつーに生きれば会社に入れると思っていた。ふつーに生きれば結婚して子供ができると思っていた。でも、今は違う。誰でもふつーに生きてて、生活保護に頼らざるを得ない状況になる時代だ。そしてその生活保護制度が揺らいでいる。
なんとなくある安心感。それが社会から失われつつある。
(HK 吉岡命・遠藤譲)
しかし、『生活保護――知られざる恐怖の現場』を読んで、そんな安心感は吹き飛んでしまった。生活保護が受けられなくて、餓死、自殺。本書には、現代日本でナゼ?と思わずにはいられない過酷な貧困の実態が描かれていた。
例えば、こんな事件。北九州小倉区のJさん(52歳、男性)のお話。
アルコール性肝書障害や糖尿病を患ったJさん。タクシー運転手の仕事を続けられなくなり、生活保護を申請した。受給後、市の記録によるとJさんの主治医は「軽作業可」と判断したという。そこで市のケースワーカーはJさんの就労指導を始めた。その後、生活保護を辞退したJさん。当時の心境が日記に綴られている。
《4月5日》「体がきつい、苦しい、だるい。どうにかして。」
《日時不明》「せっかく頑張ろうって思っていた矢先に切りやがった。生活困窮者は、はよ死ねってことか。」
《5月25日》「小倉北のエセ福祉の職員ども、これで満足か。貴様たちは人を信じる事を知っているのか。3月、家で聞いた言葉、忘れんど。市民のために仕事せんか。法律はかざりか。書かされ、印まで押させ、自立指(ママ)どうしたんか。」
《同日》「腹減った。オニギリ腹一杯食いたい。体重も68キロから54キロまで減った。全部自分の責任です。」
《5月26日》「人間食ってなくてももう10日生きてます。米食いたい。オニギリ食いたい。」
《6月5日》「ハラ減った。オニギリ食べた―い。25日米食ってない。」
日記はここで終わっている。およそ1ヶ月後、Jさんは餓死状態で発見された。
100円のオニギリすら、食べられないというのか。でも、なぜJさんは、一度は受けていた保護を辞退したのだろう。
事件の後、主治医は「働ける」と判断した文章は書いていないと抗議した。著者は、行政が受給者を保護から追い出すために、病状調査を改竄し、辞退届も不本意に書かせた可能性が高いと考えている。
「違法行政」としか言えないような状態が、生活保護の現場にあるのだ。その原因の一つは、保護費の抑制をしたいという財政上の要請だ。年々膨れ上がり、2011年には3兆6000億円にも達した生活保護費。
今までにも何度か「適正化政策」と呼ばれる、行政による受給者の削減は行われてきた。しかし、著者によると、近年はこの適正化政策が暴走しているという。
背景にあるのは、次長課長・河本の「不正受給」報道に端を発する、生活保護バッシングだ。確かにあの報道以来、「生活保護は甘え」という声をよく聞くようになった気がする。そして行政までもが、バッシングの風潮に乗っかろうとしているというのだ。
京都府舞鶴市に住むシングルマザーのBさん(30代、女性)は、病気で働けなくなり、市の窓口で生活保護の申請をしようとした。ところが市は「母や妹に頼れ」「若いんだから働け」と言って申請書すら渡さない。果てには「生活保護バッシングの中で市民の声があるから遠慮してくれ」。
いつもは機転の利かない行政に、こんな時だけ世間の空気を読まれても困る。追い詰められたBさんは「POSSE」に連絡。その時点で所持金はなんと600円ぽっちだった。改めてスタッフに帯同してもらい、後にどうにか受給できたそうだ。
そもそも、行政は申請自体を拒否できない。申請を受けたうえで、収入や、財産、扶養してくれる親族がいないかを審査して、受給の可否を決める。だから、はなから申請を受け付けない対応は、違法なのだそうだ。(ちなみにこれはよくある手口で、「水際作戦」と呼ばれている)
審査をクリアしても、受給者の受難は続く。
受給を開始したら、今度はケースワーカーと通称される自治体の職員と付き合っていかなければならない。ケースワーカーは、資産や収入など受給者の実態を把握して、一時扶助の判断や就労支援を行っており、保護を打ち切る権限を持っている。
著者によると、受給者にとって重要な存在であるケースワーカーの質が低下しているという。保護費削減の圧力はもちろん、受給者に対する権力が強すぎること、専門性の低下、人件費の少なさによる担当世帯の超過が原因だ。
「働かん者は死んだらいいんだ」「風俗ででも働け」「裏の公園に行けばいい木があるよ。ヒモなら貸してやるぞ」
ケースワーカーにより繰り返される暴言と威圧が、むしろ受給者の自立と社会復帰を遠ざけ、不本意な辞退を生み、餓死、自殺、を招いてしまう。
僕もこんなことを言われたら絶対病む。お金が無い、という事だけでも言いだしづらいのに、その上死ねと言われては、やりきれない。
著者はこうした過酷な実態を踏まえ、生活保護を含めた福祉政策全体の見直しを提言する。現行の制度のように、「特別な貧困者」を審査、厳選して救うのは難しい。むしろある年収以下の世帯に、一律で医療費や教育費の減免を行うべきだという。
でも、それはそれで、お金は足りるのかな。貧困層のために、増税してもよいという人はどれくらいいるのだろう。
著者の主張は偏りすぎていると思う人がいるかもしれない。僕もそう思う。ケースワーカーの中にも親身になってくれる人は絶対にいる。意図的にあくどい不正受給をしている被生活保護者だっているはずだ。
それでも、この本には説得力がある。著者は生活保護について、あくまでも冷静な政策議論として書こうとしている。だけどその行間には、何かただならぬ思いが溢れていた。「恐怖の現場」の最前線に立つ者の、怒りだ。
僕には、怒りよりも不安がやってきた。子供のころ、ふつーに生きれば会社に入れると思っていた。ふつーに生きれば結婚して子供ができると思っていた。でも、今は違う。誰でもふつーに生きてて、生活保護に頼らざるを得ない状況になる時代だ。そしてその生活保護制度が揺らいでいる。
なんとなくある安心感。それが社会から失われつつある。
(HK 吉岡命・遠藤譲)