――“自決”という言葉がでたところで、読者から募った三池監督への質問を一つ。「切腹についてどう思うか聞いてみたいです。見てる方も痛いですよね(原文まま)」といったものですが、せっかくなので劇中に登場する「狂言切腹」について伺えればと思います。

三池監督:自分はね……狂言切腹をやる度胸すらない(笑)。

――自分もないです(笑)……それに切腹を静観できる武士の精神力もない。

三池監督:狂言切腹って史実ですからね。それって狡猾だし、度胸も必要。だから、自分は狂言切腹する勇気さえ持っていない人間だという視点が、本作を撮る上でどうしても必要でした。そういう人間が作っている映画なので、あまり偉そうに言えないし、ばかにもできない。だいたい狂言切腹をせざるをえない状況に追い込まれたこともないから。

――ないですよね、普通に生きていたら。

三池監督:ないと思う。ただね、実際は追い込まれているのかもしれない。それに気づかないようにするシステムになってたり、我々自身も教育を受けて見えなくなっている。だぶん、鈍感になっているんだと思う。地震が起きても、原発がどうなるか分からなくても、どうにかなるんじゃないかなって感覚。恐怖をコントロールして、なんかイヤな気はするけど、動物としての本能である怒りや恐怖感が鈍っているのは、確かだと思う。そのへんは怖いなと思いますね、なんか動物ではなくなっている気がして。心とか頭だけが肉体から離れてしまっている感じの異常にチグハグになった人間。そういう人間が何をもって興奮し、何をもって幸せを感じたりするのか。日本人ってすごく面倒くさいところにきているんじゃないかという気がします。

――話を『一命』に戻しますと。海老蔵さん、瑛太さん、それに満島さんといった三つ巴が大健闘されていましたね。

三池監督:そう、すごいでしょ。海老蔵さんの“形(かた)”で作る演技と、瑛太さんの“感情の揺れ”が生む演技の出会いがあったからね、それは僕が持っていないものですね。

――皆さんおっしゃるかもしれませんけど、本作の海老蔵さんは故・三船敏郎さんを彷彿とさせますよね。

三池監督:そう! 市川海老蔵って大物ですよ。不世出な人。映画的に言うと、本当に三船さん以来の衝撃。それには絶対の自信があります!

――ですが正直、ここまでとは思わなかった?

三池監督:全然、思わなかったです。

――やはりあれは監督の手腕で引き出したものだと思いますけど。

三池監督:いやいや、それはない。そんな風に自らの能力を開花させられる場所を提供するのが監督の役目だから。芝居的にここはこうで、それはこうで、とかじゃなくて。せいぜいグッ!と力んだ時に、遠くからメガホンで、「ちょっと今のまばたきは歌舞伎っぽいんですけど、なんとかなりますか」って言う程度。その声を聞いている海老蔵さんがモニターに映るんですが、そう言われた彼は「やっぱりね」と言ってましたよ。

――歌舞伎観劇もするんですけど、本作では見たことのない、海老蔵さんが楽しめました。自覚なさっていたから、また新たな魅力が出たのでしょうか。

三池監督:全然違うところで生まれて、いろいろなキャリアを積んで、同じ現場で仕事をする。ましてや一つのフレームの中で芝居するわけですから、それぞれのキャリアって最大限、尊重すべきなんです。それを捨てたり、否定したりしてはいけない。海老蔵さんにしか出せない味を出してもらえればいい。

――実際、お仕事なさってみていかがでしたか?

三池監督:海老蔵さんってね、スポンジみたいなの! 芝居しながら相手の芝居をずっと見ている。彼の中では半四郎でありながら過去を演じているので、本番前のテストである時は瑛太を見て、(瑛太が演じた)千々岩求女の未来を知っているからと、瑛太の笑顔を見ただけで泣く。「なんで泣いているの?」って尋ねたら、「(半四郎の孫である)金吾が産まれて、娘夫婦はこんなに幸せそうに笑っているのに、求女が切腹するんだと思うと泣かずにいられない」と。それから後半に撮った回想シーンでは、子役が演じた幼少期の千々岩求女を見て泣くんです。