首都圏で10店舗以上の薬局を経営するX氏(2024年10月・東京都内/弁護士JP編集部)

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現行の健康保険証を廃止しマイナンバーカードに統合する「マイナ保険証への一本化」が12月2日に迫っている。マイナ保険証については、政府が「医療の質の向上」「不正利用防止」といった「メリット」を強調してきている。

他方で、医療関係者や様々な分野の専門家から、それらについての数値的根拠の不足、情報セキュリティ面での難点、情報プライバシーの侵害、不正利用の助長のおそれ、利便性の後退、国民皆保険制度との整合性等の問題が指摘されている。また、医療現場でのトラブルも報告されている。

そんななか、編集部に、首都圏で10店舗以上の薬局を経営するグループの代表をつとめるX氏からメールが届いた。「マイナ保険証のメリットは一定程度のものはありますが、しかしバラ色に遜色ない優れものでもないです…」

メールの内容は、薬局経営者・薬剤師としてマイナ保険証の実務に携わる立場から、マイナ保険証により実際に得られた「メリット」を具体的に紹介する一方で、政府がPRする「メリット」の内実について疑問を呈し、かつ「マイナ保険証への一本化」が行われた場合の懸念点を率直に指摘するものだった。

X氏のグループがマイナ保険証を導入した経緯はどのようなものか。それにより得られた「メリット・デメリット」は何か。現場で何が起きているのか。X氏にインタビューを行った。

マイナ保険証のシステム導入は「やむにやまれず」

X氏の会社ではすべての薬局でマイナ保険証によるオンライン資格確認ための顔認証付きカードリーダーを導入している。導入のきっかけは、厚生労働省の施策に加え、導入しなければ政府が推進する「医療DX(※)」の流れに取り残され、薬局の経営が苦しくなるとの懸念からだという。

※医療DX:保健・医療・介護の各段階で発生する情報やデータを、クラウドなどを通して、業務やシステム、データ保存の外部化・共通化・標準化を図り、より良質な医療やケアを受けられるように、社会や生活の形を変えること(出典:厚生労働省

オンライン資格確認を導入しなければ不利なしくみになっている(画像はイメージ)(buritora/PIXTA)

X氏:「薬局の経営はどんどん厳しくなっています。まず、『大手ドラッグストアチェーンが儲かっている』という理由で、 “調剤報酬”が下げられています。

また、毎年の薬価改定で薬価差益が減少し、利益が縮小してきています。

そんななか、処方箋1枚あたりに『加算』を受けられるさまざまなしくみが設けられています。加えて、期間限定で所定のシステムや機器を導入した場合に受け取れる『補助金』の制度もあります。

たとえば、マイナ保険証のシステムや、電子処方箋のシステム、レセプト(薬局が保険者に提出する診療報酬明細書)のインターネット請求等を導入した場合には『医療DX推進体制整備加算』と、行政に対する申請によりそれぞれの設備導入にあたっての『補助金』を受けられます。

今の薬局業界は、それら『加算』『補助金』をすべて受けなければ十分な収益を得られず、経営が立ち行かなくなる構造になっているのです。

もちろん、機器の導入にはお金がかかります。たとえば機器の導入に1台あたり100万円かかった場合、国から2分の1の50万円、東京都から4分の1の25万円を受け取れても、残りの25万円は『持ち出し』になります。

しかし、補助金には期限が設けられており、その期間中に導入しなければ後々どんどん不利になります。

マイナ保険証のためのシステムも、そのためにやむを得ず導入しました」

政府は「医療DX」を推進しており、その枠組みを前提とした収益構造、つまり、薬局がそこに参画しなければ経営が成り立たなくなるしくみの構築を進めていることがうかがわれる。

政府のPRと違う? マイナ保険証で実際に得られた「メリット」とは

マイナ保険証で実際に得られたメリットにはどのようなものがあるのか。政府はマイナ保険証のメリットとして「デジタル化による利便性」「なりすまし等の身分を偽っての不正利用の防止」等を挙げている。

しかし、X氏が挙げた「メリット」は、それらのいずれでもなく、知人の薬局で「同一人物による睡眠薬の複数回入手」が1件、発覚したというものだった。

X氏:「その患者さんは、別々の医療機関で診察を受け、その処方箋をもとに、複数の薬局で別々に『1日1錠服用・1か月分』の処方を受け、1か月あたり合計200錠を超える薬剤を入手していました。

マイナ保険証の場合、レセプト(診療報酬明細書)のデータが反映されるまで1か月以上かかるので、直近1か月半くらいの薬剤のデータは分かりません。今回はそれ以前の月のデータより、毎月にわたって複数回入手していたことがわかりました。

日本では、どこの医療機関に受診してもよいことになっているので、同じ症状で複数の医療機関に受診し、同一内容の処方箋を複数受け取ることができてしまいます。

このような薬剤の “不正な複数回入手”は、おそらく『お薬手帳』では発覚しようがないものです。デジタルデータだからこそ分かったことです。

ただし、こういうケースは極めて稀だと思います。ふつうは保険組合の側のチェックで発覚します。本件の睡眠薬は安価なものだったので、見過ごされた可能性があります」

このことは広い意味での「デジタル化によるメリット」「不正利用防止のメリット」と言えるかもしれない。しかし、政府がPRしてきている内容とはかなりのズレがあり、かつ、保険組合のチェック漏れも介在した異例のケースと評価せざるを得ないだろう。

政府がPRする「医療情報の共有」のメリットは?

では、政府がPRするメリットはどこまで享受できているのか。まず、「医療情報の共有」についてはどうだろうか。X氏は、薬局はともかくとして、医療機関の側での体制整備が間に合っていない実情があると指摘した。

X氏:「今、デジタル庁が、全国の医療機関で電子カルテ情報・電子処方箋情報を共有できるシステムを、来年の運用を目指して構築しています。

それが実現すれば、理屈のうえでは、たとえばAの医療機関が処方した薬の情報をタイムラグなしにBの医療機関で確認できるようになるはずです。

私たち薬局では、電子薬歴(※)を含め、調剤に関わるPCのシステムを導入していて、いろいろなところでDXが進んでいます。しかし、医療機関の場合、電子カルテさえ導入が進んでいないところもまだたくさんあります。また、仕様もバラバラです。

特に開業医においては、かなり高齢の方もいて機械の導入がされていないところもあるし、実際には相当長い時間をかけなければ統合が進まないのではないかと思います」

※電子薬歴:処方歴・副作用歴・指導歴・疑義照会の内容等、調剤に関する患者情報を集積して電子的に記録したもの

厚労省の「マイナ保険証推進チラシ」で触れられていない「タイムラグ」の問題

政府は、マイナ保険証のメリットとして「医療情報の共有化で質のよい医療が受けられる」という点を強調している。

つまり、マイナ保険証の利用により、各医療機関や薬局において、患者本人の了承のもとで過去の治療内容や処方された薬剤のデータを閲覧でき、スピーディーかつ的確な医療が提供されるようになるという。

しかし、X氏は「最も重要な欠陥について、国民に対して説明していない」と批判する。

マイナ保険証の「タイムラグ」の問題の深刻さについて語るX氏(2024年10月・東京都内/弁護士JP編集部)

X氏:「マイナ保険証を利用した医療情報の共有には、大きなタイムラグがあります。

薬剤師の立場からすると、このことはマイナ保険証利用の大きな欠陥と言わざるを得ませんが、厚労省のマイナ保険証を推進するチラシでは一切触れていません。

薬局の薬剤師は、処方箋に基づいて調剤をするときは必ず、現在服用している薬剤の情報を参考にします。それができなければ、薬の飲み合わせや、類似の薬を含む重複投与の有無の判断に支障をきたしてしまいます。

ところが、マイナ保険証のしくみでは、最新の薬剤情報を得ることができないのです。

というのも、現在のしくみでは、集積されるデータが月単位のレセプト(調剤報酬明細書)の情報のみだからです。

どういうことかというと、薬局が、調剤報酬の保険者負担分を請求するには、翌月の10日までに、患者さんの調剤実績の1か月分のデータを専用のインターネット回線を用いて国保連合会などの『審査支払機関』に送信するしくみになっています。

マイナ保険証で確認できるのは、その情報です。つまり、薬剤の情報が反映されるには、最短でも2週間、最長で6週間程度のタイムラグがあるということです。

たとえば10月30日に受診した場合は、マイナ保険証のみでは9月30日までの薬剤情報しか確認できません」

「タイムラグ」は患者の命にかかわる重大問題

薬局と薬剤師の立場からみて、このタイムラグは看過できない重大な欠陥だという。

X氏:「薬剤はその患者さんの病状によって変更されることがあります。

患者さんが別の病気で異なる医療機関に受診した場合、マイナ保険証のみでは、受診日によっては直近の情報を確認することはできません。

直近に出された薬で患者さんの具合が悪くなっても、何の薬かわからないのです。現時点で最も役に立つのはアナログデータの『お薬手帳』です。なんでも『デジタル』であれば優れているというわけではありません。

東京都のある区のホームページでは、そういう欠陥があることに触れず、『お薬手帳の提示も不要になります』とまで記しているところもあり、重大な問題です。

また、救急医療でのマイナ保険証のメリットの実証実験のことが報道されましたが、直近の薬剤情報が確認できなければ診断・治療が全くできないことになります。

残念ながら医師会、薬剤師会などの職能団体は、こういった問題についてのコメントをほとんど出していません。

マイナ保険証を利用しさえすれば質の高い医療が受けられるかのような、誇張ともとれる表現は、実態と著しく反しています」

デジタル化」を推進する場合、問われるのはその内実である。「デジタル化」と銘打てばなんでも優れているわけではないこと、設計に欠陥のある「デジタル」がむしろ有害でさえあることは論をまたない。

現時点では、タイムラグが生じない点ではアナログな「お薬手帳」のしくみのほうが優れていると評価せざるを得ないだろう。

政府がPRする「なりすまし等による不正利用防止」のメリットは?

次に、X氏は、政府がPRする「なりすまし等による不正利用防止」のメリットについても、自身の実務経験をもとに疑問を呈する。

X氏:「私も職務上、マイナンバーカードを持っていますが、『顔認証』はかなり面倒でエラーもあるので、4桁の暗証番号を入力します。

私どものグループの薬局を訪れる患者さんもそういう人が多いです。

もし、他人にマイナンバーカードを手渡して4桁の暗証番号を教えれば、その他人がなりすまして資格確認をパスできます。

また、薬局で40年近く働いていますが、『なりすまし』や『使い回し』は一度も経験がありません。

医師の処方箋をパソコンで偽造して持ちこまれたことが過去1、2回ありましたが、これはマイナ保険証とは関係がありません」

この「なりすまし」「使い回し」は実際にどれだけ行われているのか。編集部で信頼できる情報の有無を確認したところ、2023年5月19日の参議院の地方創生・デジタル特別委員会で、厚生労働省が『なりすまし受診』『健康保険証の偽造』などの不正利用の件数は2017年~2022年の5年間で50件だったとのデータを示していた。これによれば「年平均10件」ということになる。

なお、一時期、インフルエンサーの「ひろゆき」氏が、「保険情報の誤りや不正使用は年間600万件にも上っており、その処理のための経費は1000億円を越える」という情報を拡散して話題になった。

しかし、その出典とみられる「保険証認証のためのデータ交換基準に関する研究(総括研究報告書)」の原文を確認すると、その文章の直後に「多くは単純な保険証番号の間違い」「資格停止後の保険証の利用も少なくない」と明記されている。「なりすまし」「使い回し」については一切言及されていない。

「医療DX加算」での「締め付け」も

今年6月に診療報酬の改定があり、「医療DX加算」(医療DX推進体制整備加算)という制度が始まった。薬局でのマイナ保険証の利用率が一定程度に達していれば加算を受けられるしくみになっている。

X氏は、この制度が薬局に対する「締め付け」になっていると説明する。

X氏:「加算される点数は、マイナ保険証の利用率が5%なら4点、10%なら6点、15%なら7点です。9月いっぱいで経過措置が切れ、10月から適用されます。

これは、マイナ保険証の利用率を上げるためだけの加算となっています。

先ほど述べたように、最近は、調剤報酬の加算をできる限り算定しなければ、収益が減り、経営が苦しくなる一方です。なので、私たちも、マイナ保険証の利用率を高めなければ、収益に関わります。

グループの各店舗の管理者に対しては、最低5%(4点加算)を目指して声掛けをするように指示しました。そのためのビラも作りました。

また、窓口では患者さんにマイナ保険証を持っているかどうかを聞いて、持っていると答えた人に提出をお願いするということを必死になってやりました。

『マイナンバーカードを作りたくない』という人や『マイナンバーカードを持ち歩きたくない』『個人情報を知られたくない』という人もいます。『なんで出さなくちゃいけないんだ』と怒る患者さんもいました」

マイナ保険証の使い方に不慣れな患者のために、本部事務局から薬局に顔認証付きカードリーダー操作の援助の使い方を教えるスタッフを派遣したこともあったという。

X氏:「私たちは、無用なトラブルは避けたいし、何より患者さんの意思を尊重したいと考えているので、本当はそういう働きかけはしたくないのです。

しかし、背に腹は代えられないので、患者さんへの働きかけをしました。結果として、私のグループの店舗ごとのマイナ保険証の利用率は、低い店舗で4%、高いところで15%でした。4%の店舗については10月から加算が受けられません。

来年1月からは、達成しなければならない利用率の数値が倍になります。利用率10%で4点、20%で6点、30%で7点になるということです。

私たちとしては、せめて4点を取らないと、収益が下がってしまいます。しかし、マイナ保険証を使いたくないという患者さんの気持ちはよく分かりますし、個人の意思は尊重したいと思っています。板挟みの状態です。

『DX』は本来、デジタル化の力を最大限活用し、利便性を向上させて人の暮らしの質を高めることをいうはずです。

しかし、今進められている『医療DX』は、多くの置いてけぼりになる人を生み出します。国による管理体制の強化と、企業によるビッグデータ収集と、市場開放を優先しており、歪んだ構造になっていると訴えたいのです」

“大臣・官僚”ではなく“薬局で働く人たち”が「矢面」に立たされる

患者の側としては、マイナンバーカードの取得も、保険証のマイナンバーカードへの紐づけも任意のはずである。にもかかわらず、薬局に対し、「調剤報酬の加算」をテコにして、マイナ保険証の利用を促すための働きかけを事実上強制する手法がとられていることになる。

他方で、厚生労働省の発表によれば、9月末時点でのマイナ保険証の利用率は13.87%にとどまっている。この数字は、政府によるマイナンバーカードのメリットのPRが功を奏していないことを端的に示している。

実際に、薬局経営者で薬剤師でもあるX氏は、マイナ保険証の導入によるメリットがあることは一部認めてはいるものの、政府がPRするメリットとはズレがあると話す。

また、日本に暮らす人であれば全員が加入することになっている健康保険の資格確認の方法を、任意取得であるはずのマイナンバーカードに「一本化」するという制度設計についても、国民の理解を得られているとは言い難いだろう。

その状況の下で、マイナ保険証の利用率の向上のために、それを推進する担当省庁の大臣や官僚ではなく、薬局の経営者やそこで働くスタッフが患者とのやりとりの矢面に立たされている。X氏の薬局グループで起きていることは、薬局業界全体の問題であることが推察される。

10月27日の衆議院議員総選挙の後に発足する新政権が、マイナ保険証への一本化という現在の政府方針についてどのような態度をとるのか、注目される。