日本兵の遺骨はすべて収容されるべきか…「幕引き」発言をした参議院議長の真意

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なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が12刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

遺骨収集「幕引き」発言の真意

僕も東京にいられる最後の最後まで、社会に発信すべき情報を取材しようと心に決めた。

幸い異動対象者は最後の1週間は休暇扱いとなるのが社内の慣例になっていた。

在京中最後の取材対象者は3人に絞った。いずれも、遺骨収集の今後を考える上で要人中の要人と言える人物だ。ただし、一人は「事前アポイント絶対不可」の立場の人物だった。残る二人は取材依頼のメールを送ったところ、事務所サイドから快諾の返事が返ってきた。

そのうちの一人は参議院議長の尾辻秀久氏だった。

硫黄島を含め、膨大な戦没者遺骨が未収容となっているが、今後の遺骨収集事業はどうすべきなのか。最後の1体の収容が終わるまで、収集は続けるべきだ。与野党問わず、歴代の政治家の答弁は、概ねそのような内容だ。僕も、政治家の立場だったら、そう答えるだろう。

しかし、尾辻氏が終戦60年の2005年、当時の厚労相として応じた記者会見での発言は、他の政治家と一線を画すものだった。

「だらだら続けるより、一度集中的にやって幕を引くなら引かないといけない」

遺骨収集の終幕に言及した政治家を、僕はほかに知らない。

「幕引き」発言の真意を知りたい。東京を離れる前の今が、インタビューのラストチャンスかもしれない。そんな思いで尾辻事務所にメールを送った。

その時期、尾辻氏は「ニュースの人」になっていた。国会欠席を続けるNHK党のガーシー参議院議員に対し、議長としての対応が迫られていたからだ。このタイミングでは、取材は無理だろうと、僕は考えていた。数日後、秘書から返信メールが届いた。

「議長本人の了承を得ました」

僕は歓喜した。そして、メールを読み進めるうちに、歓喜は驚きに変わった。取材場所として指定された場所が、事務所ではなく、参議院議長室だったからだ。

参議院のホームページでは議場や中央広間などを紹介する写真はあったが、議長室はない。どんな部屋なのか。緊張しながら僕は、指定された日時に、国会議事堂の未知の部屋に向かった。

祝辞で触れた、戦没者遺児としての悲しみ

遡ること5ヵ月前。2022年9月12日。この日、僕は、いつか必ず尾辻氏を取材したいとの思いを一段と強めたのだった。

天皇皇后両陛下が臨席した日本遺族会の創立75周年記念式典。新型コロナウイルス禍の最中だったため、会場となった都内のホテルニューオータニでの取材が許可されたのは、宮内記者会に所属する15社の記者だけだった。その限られた記者の中に僕はいた。

僕は会場の最後列で、式典の模様を眺め続けた。手元のメモを読み上げる岸田文雄首相の祝辞は形式的な内容で、特筆すべきことはなかった。しかし、続いて来賓として登壇した尾辻氏は違った。僕がいた位置から見た限り、尾辻氏はメモを見ていないように見えた。メモを見ていたとしても、誰よりも、自身の言葉を精一杯伝えようとしていた。

その内容は、戦没者遺児として育った半生に触れたものだった。

尾辻氏は、開戦前年の1940年10月、鹿児島県で生まれた。3歳のときに、海軍将校だった父が戦死した。その後の人生は、遺族会とともにあった。物心ついたときには、遺族会の会合でいつも母の隣に座っていた。夏休みの遊び場所は、会合が行われる護国神社の芝生だった。遺族会の少年部の一員だった。

少年部はやがて青年部となり、成り行きで鹿児島県の青年部長になった。大黒柱を失って生活が困窮した遺族たち。戦後、届けられた骨箱に、遺骨は入っていなかった。

「あとのことは心配するな、という国の約束はどこへいったのですか!」

そう叫ぶ母の声と姿が尾辻青年の活動の源となった。

母は、遺族会の活動に命をかけていた。ほとんど無給の事務局職員になった。細々と支給される公務扶助料を給料だと言っていた。そして、41歳のとき、事務局で倒れて、急逝した。母も戦死したのだと思った。戦争がなければ、こんなに早く亡くなることはないと思った。妹はまだ高校生だった。妹だけは守ってやると、決意をした。

必死で仕事を探した。しかし、片親というだけで、働く場のない時代だった。両親のいない尾辻氏を雇ってくれる先はなかった。「何でもしますから」とすがりつく尾辻氏に、返ってきた答えはこうだった。「我が社は慈善事業をしているのではない」。

戦没者の婦人部のお母さんたちが我が子と変わらぬ手助けをしてくれた。尾辻氏と妹が飢え死にをしなかったのは、遺族会があったからだった。青年部の仲間が兄弟同様に励ましてくれた。生きるか死ぬかという時代を、肩を寄せ合って生き抜いた。

そんな半生に触れた「祝辞」の締めくくりは、こうだった。「その頃の話をしますと、長くなります。同じ思いをされた皆さんの前で語る気もありません。一言、誰にも二度と同じ思いをさせてはならないと訴えて、挨拶といたします。令和4年9月12日、参議院議長、尾辻秀久」。

尾辻氏は戦没者遺児だった。胸を打たれた僕は、インターネットで尾辻氏の足跡を調べた。フィリピンやパプアニューギニア、ラバウル、インパールなどの遺骨収集活動に遺族会の一員として参加した経験の持ち主でもあった。戦没者遺骨を本土に帰すために、これほど世界各地で汗を流した政治家を僕はほかに知らない。2012年から2015年にかけて日本遺族会の会長を務めている。なぜそのような人物が、遺骨収集の幕引きについて言及したのだろう。足跡を知れば知るほど、話を聞きたいという思いが強くなっていった。

つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。

「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃