【野村 進】スピリチュアリスト・江原啓之が見た丹波哲郎の素顔。『オーラの泉』誕生秘話

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『日本沈没』『砂の器』『007は二度死ぬ』など大作映画やテレビドラマ『キイハンター』『Gメン‘75』に主役級として次々出演し、出演者リストの最後に名前が登場する「留めのスター」と言われた“大俳優丹波哲郎

「霊界の宣伝マン」を自称し、中年期以降、霊界研究に入れ込み、ついに『大霊界』という映画を制作するほど「死後の世界」に没頭した。なぜそれほど死と死後の世界に惹きつけられたのか。

丹波哲郎が抱えた、誰にも言えない「闇」とはなんだったのか。『読売新聞』『毎日新聞』『東京新聞』『週刊新潮』『サンデー毎日』『Wedge』『東京人』共同通信書評など各紙誌で大きくとりあげられた、ノンフィクション『丹波哲郎 見事な生涯』より連載形式で一部を紹介する

江原啓之丹波哲郎を知って

著名なスピリチュアリストの江原啓之は当初、丹波の活動を迷惑げにながめていた。

丹波が自分自身を卑下するかのようにふるまい、現実にしばしば笑いものになっているのが、スピリチュアリズムの普及のうえで、むしろマイナスに作用するのではないかと危ぶんでいた。映画『大霊界』はおもしろく観たが、テレビのバラエティー番組でふざけている丹波の様子は理解に苦しんだ。

来世研究会(丹波が主宰する会員数延べ4000名の研究会)の小林(正希)が、たまたま江原の旧知だった。小林によれば、江原は世間ではまだ無名でも、真の霊能力者として知る人ぞ知る存在になっていた。じきにテレビでも取り上げられるようになったので、丹波も注目しはじめ、小林の友人と知ると、自宅で収録するテレビの座談会に江原を招いた。1999年の秋、江原34歳、丹波77歳のときだ。

江原は丹波と語り合って、それまでの誤解がたちまち解けた。芸能界の「大御所」とも言うべき超有名人なのに、自分のような“若造”にもまったく偉ぶらず対等に接し、威圧的なところもまるでない。

丹波は万事承知のうえでやっているのだと、江原は思った。もし生真面目な顔で霊魂や死後の世界を肯定し、嘲りや猜疑の声に対してもいちいち真っ向から反論していたら、世間のつまはじきにあう。最悪の場合、存在を抹殺されかねない。

“村社会”の日本で村八分にされずに持論を貫くには、笑顔でいよう。潰されたくなければ、おどけてしゃべろう。丹波は筋金入りの信念に基づいた戦略を立て、世の中に向けて発信しているのだと気づいた。

丹波本人はその戦術を、「面白おかしく、懸命に」と短い標語にしている。

オーラの泉』誕生のきっかけ

江原は美輪明宏とも、そのとき丹波邸で初めて会った。丹波から美輪を紹介されたことが、のちのち大ヒット番組となる『オーラの泉』につながろうとは思ってもみなかった。『オーラの泉』のような番組を自分も作りたかったと、丹波は漏らしたことがある。

すぐにテレビの売れっ子となった江原が、最近バッシングに遭っていると聞き、丹波は小林の運転するクルマで、そのころ原宿にあった江原の事務所に直行する。いくら会いたくても、当人にいきなり会いに行く丹波ではなかったから、小林も意外な思いで、クリーム色の大型高級車セルシオのハンドルを握っていた。

マスコミやネットでの誹謗中傷にうんざりしていた江原が、テレビへの出演をやめるつもりと言うが早いか、丹波は色をなして反対した。

「なんでやめなきゃいけないんだ」「とにかくやりなさい」「何を言われても気にするな」「誰がなんと言おうと、真実を話せばいいんだ」「何か問題が起きたら、テレビの世界では一番古株のオレが言ってやる」「スポンサーがいなくなったら、オレが連れてくる」「オレが後ろ盾になってやる」「オレがついているから頑張りなさい」

とめどなくあふれ出る激励の言葉が、江原にはありがたく心強かった。丹波をいっそう「大恩人」と尊敬するようになった。

食事にもたびたび誘われた。丹波邸近くの蕎麦の名店に入ると、判で押したように、大きな海老天が2本のった「天重」と、二段重ねの「御膳蕎麦」を注文する。おいしく味わうにはこの順番で食べなければならないとの鉄則が丹波にはあるらしく、江原にも「はい、まず天丼いって」「はい、次は蕎麦だ」とあれこれ指示を出す。寿司屋で鉄火丼を頼んだときも、「シャリが熱いうちに食べなさい」とせきたてる。そのこだわりぶりが江原にはおかしくてたまらず、笑いを噛み殺していた。

丹波の原点を、江原は戦争体験に見出している。戦友たちのほとんどが激戦地にやられ生還できなかったのに、丹波は重度の吃音者ゆえ内地での勤務に回され、戦闘には一度も狩り出されなかった。運良く丹波は生き残り、戦前・戦中には想像すらしなかった役者での成功を収める。丹波は江原に、感慨深げに話した。

「自分がいま生きていることの意味や歩んできた道を振り返ると、戦争が非常に大きかったと思うよ」

「自分の人生は自分のもののようであって、自分のものじゃない。すべてがいまに至るように導かれていたんだな」

「自分はそうやって生かされてきたとしか思えないんだ」

江原は丹波に頼まれて、いまは天界にいるという(東島)邦子(34歳で夭折した丹波のマネジャー兼来世研究会会長)と一度だけ交信したことがある。「家族にも丹波さんにも皆さんにもとても愛されて、本当に幸せでした」と、感謝の言葉ばかりが返ってきた。

江原の口をついて出る一言一言を、丹波は涙ぐみながら聞いていた。

●前編はこちら

「『霊能者』を名乗る人間の10人中9人はニセモノ」丹波哲郎が魅せられた霊能者たち

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