「ただ一度の過ち」に心を暗く搔き乱す柏木の末路
(写真:micromagic/PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 5 』から第36帖「柏木(かしわぎ)」を全10回でお送りする。
48歳の光源氏は、親友の息子である柏木(=督(かん)の君)との密通によって自身の正妻・女三の宮が懐妊したことに思い悩む。一方、密通が光源氏に知れたことを悟った柏木は、罪の意識から病に臥せっていく。一連の出来事は、光源氏の息子で柏木の親友である夕霧(=大将)の運命も翻弄していき……。
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柏木 秘密を背負った男子の誕生
恋患いには加持祈禱も効かず……。
女三の宮は、たいそううつくしい男の子を産み、出家したそうです。
考えれば考えるほど情けなく
衛門督(えもんのかみ)(督の君・柏木)はずっと病に臥せたまま、快方に向かうことなくあたらしい年となった。一途にこの世を捨ててしまおうと命をあきらめつつも、父である致仕(ちじ)の大臣(おとど)と母北の方が悲しみ嘆いているのを見るにつけ、両親に先立つ罪は重かろうとも思うのだが、それはそれとして、
「しかしまた、どうしてもこの世に未練がましく生き残りたいような我が身だろうか」とも思うのである。「幼い頃から、何ごとにおいても人より一段すぐれていたいと、公私にわたってだれよりも高い志を持っていたが、思うようにその望みがかなわずに、一度、二度とつまずきを重ねるうちに、だんだん自分は駄目な男だと思うようになってしまった。それからはもう、この世の中はなんてつまらないものかと思うようになって、来世の安楽を願う修行をしたいと強く願うようになったが、両親がどれほど悲しむかと思うと、俗世を捨て野山に分け入ろうにも重い絆(ほだし)となるに違いない、と思い、なんだかんだと気を紛らわせて出家せずに過ごしてきた。しかし結局のところ、世間でうまくやっていけそうもない悩みが、あれこれとこの身に取りついてしまったのは、自分以外のだれが悪いというのか、すべて自分で駄目にしたのだ」と思うと、恨むような人もいない。「神仏にも文句の言いようがないのだから、前世からの因縁だろう。だれしも千年生きる松ほど長生きできないのだ、こうしてあの女(ひと)(女三の宮)から少しは思い出してもらえるうちに息絶えて、かりそめにも、あわれなことだと思ってくださるお方がいることを、一途な思いに燃え尽きた証(あか)しにしよう。無理矢理生き長らえたら、おのずからよからぬ浮き名を立てることになり、私にもあのお方にも、どうにもならない厄介ごとが起きてくるかもしれない。それよりは、自分が死んでしまえば、不届き者めと私を疎ましく思う六条の院(光君)も、いくらなんでも大目に見てくださるに違いない。何ごとにつけ、人が死ねばいっさい消えてしまうものだ。それに、あの一件のほかには私はなんのあやまちも犯していないのだ、ずっと長年何か催しごとの折には、いつも近くに呼んでくださったのだから、不憫に思ってもくださるだろう」などと、気を紛らわしようもなくあれこれ思い続けていると、考えれば考えるほど情けなくなってくる。
それにしてもいったいなぜこうも身の置きどころもないようなことになったのかと、心を暗く搔き乱して悩み、枕も浮くほどの涙を、だれのせいにもしようがなく、また泣いている。少しばかり病状も落ち着いたように見え、人々がそばを離れたその隙に、督の君は姫宮に手紙を書く。
「いよいよ命も果てようかという私のことは、自然とお耳に入っていると思いますが、どうなっているのかとそれだけでもお気に留めてくださらないのは、もっともなこととはいえ、まことに情けなく思います」などと書くのにも、ひどく手が震えるので、思うこともすべて書けずに、
「今はとて燃(も)えむ煙(けぶり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
(今これまでと私を葬る炎も燃えくすぶって、いつまでもあきらめきれない恋の火だけがこの世に残り続けるでしょう)
どうか、なんとあわれな……、とだけでも思ってください。そのお言葉に心を落ち着けて、みずからさまよう闇の道を照らす光といたします」と書く。
「柏木」の登場人物系図(△は故人)
本当にこれが最後になるかも
小侍従(こじじゅう)にも、なお性懲りもなく、あわれを誘うことをあれこれと書いて寄こす。
「私から今一度、あなたに話したいことがある」と督の君が言うので、小侍従も、幼い頃から縁あって督の君の邸(やしき)に出入りしては、馴染み深い人ではあるので、大それた恋心にはうんざりしていたものの、もう最後だと聞くとたいそう悲しくて、泣く泣く姫宮に、
「やはりお返事なさいませ。本当にこれが最後になるかもしれません」と言う。
「私の命も今日か明日かというような気がして、なんとなく心細いのだから、おかわいそうにとは思います。でもあの人とのことはつくづく情けなくて、もう懲り懲りなので、とてもその気にはなれません」と、姫宮はどうしても返事を書こうとしない。
そう言い張るほど、姫宮は性格がどっしりと強いわけではないのですが、どうも気後れしてしまう光君の機嫌が折々悪いことが、それはもうおそろしく、やりきれない思いなのでしょう。
けれども小侍従が硯(すずり)を用意して催促すると、しぶしぶながら返事を書く。小侍従はそれを受け取り、人目につかないように、宵闇に紛れて督の君のところへ向かう。
次の話を読む:9月8日配信予定
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
(角田 光代 : 小説家)