パリオリンピックで北口榛花が日本女子やり投・フィールド種目の歴史を切り拓く コーチが予見していた上昇気流
今年のDLモナコ大会でのひとコマ。北口榛花(左からふたり目)はトップスロワーグループの中心にいるphoto by L'EQUIPE/AFLO
女子やり投で日本の投てき種目、フィールド種目で歴史的偉業を次々と成し遂げ続けている北口榛花(JAL)。昨年の世界陸上で初の金メダリスト、世界の強豪が集うダイヤモンドリーグの年間女王となり、記録面でもシーズン世界ランキング1位と文字どおり世界のトップスロワーに。そして迎えるパリ五輪では自他共に大きな期待がかかる。
今連載では5回に渡り、その北口の成長を間近で見てきた人たちの証言をもとに、これまでの歩みを振り返っていく。
最終回・第5回は、東京五輪後に世界のメダリスト、女王へと階段を上る過程、そしてパリ五輪に向けどのように準備してきたかに焦点を当てる。
「北口榛花」目撃者たちの証言 第5回
【オレゴンの銅メダルからブダペストの金メダルへ】2022年の世界陸上オレゴンの銅メダルは、本人も驚く結果だった。
前年の東京五輪はメダルを目標にしたが、世界陸上オレゴンは8位入賞を目標としていた。北口はその理由を「東京五輪まではどこか責任感みたいなものを感じてしまって、目標をメダルと言っていました」と説明した。
「しかし東京五輪が終わって、本当にメダルを目指せるラインにいたのかな、と考えたんです。いきなりメダルを目指すより、入賞を目指すことからスタートすべきなんじゃないかと」
オレゴンに向けてはメダルを獲ることより、自分のやるべきトレーニングや動きに意識を集中した。
大会本番、5投目終了時には62m07で5位だった。この時点で目標を達成したと思われたし、入賞だけでも快挙だった。しかし最後の6投目で63m27を投げ、3位に浮上したのである。4位の選手とはわずか2cm、5位の選手とは5cm差の大接戦を制しての銅メダル獲得だった。
2019年から北口を指導するデービッド・セケラックコーチも「ビックリした」という。前年にメダルの力はあると感じていたが、「オレゴンの前にも腹(脇腹)にケガがあったから」だ。北口も当時、脇腹の痛みへの対処方法を試行錯誤していた。保持走とクロスステップ(*)の歩数を何度か変更したことも(クロスステップは2020年6歩、2021年8歩)、その対策のひとつだった。
*保持走は、助走の動き出しから、やりを肩口に保持した状態で投方向に対して体を正面にして走ること。クロスステップは、保持走後に投てきのフォームをつくるべく、体を横に向け、走る際の足の動き。
ただ、セケラックコーチにクロスの歩数変更について質問すると「東京五輪でどうやっていたか覚えていませんが......」と意外な答えが返ってきた。
「(クロスの歩数よりも)週に1回走りと投げを(結びつけるための)トレーニングに入れていました。今はクロスステップでエネルギーのすべてを投げる方向に集中させられるようになりました」
北口も2022年前半は、リリース時のやり先の方向のコントロールを意識していた。取材中に何度も話していたが、2022年後半から2023年はそこに言及する回数が減っている。課題が解決していった、ということだろう。
そして2023年シーズン。セケラックコーチは「結果を安定させること」をテーマに臨んだという。
「結果に大きな差が出ないように、トレーニングなどすべてをそのために集中して準備を進めました。67m、66m、67mを投げることができましたから、目標は達成できたシーズンになりましたね」
昨年の北口は7月のダイヤモンドリーグ(以下DL)シレジア大会に67m04の日本新記録で優勝すると、8月の世界陸上ブダペストは66m73で金メダルを獲得。9月のDLブリュッセル大会でも再び67m38の日本新&同年の世界リスト1位の記録で優勝した。66m00を投げてもセカンド記録が64m36だった2019年シーズンとは、大きく違っていた。
チェコに行き始めて5年目。その成長が顕著に現れ、女子フィールド種目初の日本勢シニア大会世界一を達成した。
【チェコで筋力とスピードがアップ】チェコで現在行なっているトレーニングの大まかな流れを、セケラックコーチが話してくれた。
「週に9回か10回、トレーニングを行なっています。2回投てき練習をして、その後に筋力トレーニング、リズムや走りのトレーニングなどを行なっています。投てき練習は30分くらい。その後のトレーニングは長くて1時間15分くらいです。その時間を超えてしまうと集中力が下がるので、長時間のトレーニングは意味がありません」
北口が練習で行なうことができる数値(強度)は、東京五輪の頃からどう変化しているのだろうか。
「簡単に比較できませんが、ウエイトトレーニングは5〜7%レベルアップしています。走りやジャンプは7〜8...10%くらいかもしれません」
筋力とスピードをアップさせ、それを投げにつなげていく。日本でも同じ考え方で強化をしている選手は多いが、やり投強豪国のチェコのコーチがメニューを立て、直接指導してくれる。その練習をチェコ人の選手たちが目の前で行なっていれば、北口も迷いなくそのトレーニングに邁進できる。
そのスピードとパワーを、もともとの特徴である上半身の柔軟性を生かした投げにつなげることで、北口は世界トップレベルに躍進を遂げることができた。
「ハルカは一生懸命にやりますから、僕もそれに応じた指導をしないといけないと思いました。彼女はプロフェッショナルでした。僕もプロフェッショナルとして、やるべきことをやらないといけなかった」
北口とセケラックコーチの強化方針は、大きな部分では一致していた。
だが昨年あたりから、北口は最後の調整段階で自身の感覚を優先したい、と考え始めた。
【試行錯誤を続けるも、コーチは金メダルに自信】今年6月末の日本選手権で北口は、62m87で優勝したものの「最近のシーズンでは一番悩んでいる」状態だった。
「"来た!"っていう投てきが1本もなく、出しきったと感じられる試合がひとつもありません」
北口が悩んでいるのは柔軟性を重視するか、筋力やスピードを重視するか、だった。
「筋力がつくことで動かせる部分が増える」選手もいるので、通常は相反する要素ではないのかもしれない。だが北口は「体が硬いと感じると練習をする気持ちも下がる」と言うほど、自身の体を思うように使えないことを嫌う。
昨年は日本選手権で2位(59m92)と敗れた後に、柔軟性重視の練習を多く行ない、1週間後のDLパリ大会で早くも65m09(優勝)と、メダルを狙える距離を投げることに成功した。そこから1カ月半で、世界陸上ブダペストの金メダルへと駆け上がった。
今季も5月5日の水戸招待までは、試合期の動きのための練習に加え、冬季から行なっていた筋力トレーニングを継続していた。だが水戸招待(61m83)以後は柔軟性重視の練習を多めに取り組んできた。5月19日のGGPでは63m45と記録が上向いた。そのGGPでは今後の伸びる要素として、筋力トレーニングの割合を多くする可能性に言及。そして日本選手権後は再度、「自分が投げたい、投げられるな、動けるな、と思える体にしていかないと記録は出せない」と柔軟性を重視していくと話した。
要は柔軟性と筋力&スピードのバランスなのだろう。ほかの選手に比べれば柔軟性に主眼を置くが、北口も筋力&スピードアップのためのトレーニングは行なっている。セケラックコーチとはシーズンイン後の筋力トレーニングの方法で食い違いも生じているが、内容自体を否定しているわけではない。
北口は、学生時代の経験からコーチに完全に依存するのでなく、自分にない部分、自分だけではできない部分を求めて海を渡った。セケラックコーチと北口の細かいやり取りまではわからないが、北口は自分の考えをしっかり伝え、特にシーズン中はセケラックコーチの練習メニューをアレンジしていると推測できる。
セケラックコーチはパリ五輪も日本チームのコーチに入っているが、それは、北口が自身の近くで見て欲しい、アドバイスを送って欲しいと考えているからにほかならない。
セケラックコーチも北口を、ひとりの人間としても好いているようだった。
「ハルカはヨーロッパに慣れても、日本人らしくすべてのことにお礼をしています。有名になっても謙虚なままで、本当に優しい人柄です」
北口にとって柔軟性が武器になっていることは、セケラックコーチも十二分に認識している。助走スピードを上げることに関しては、今季も北口が苦しむことを想定していた。セケラック氏は3月下旬に次のように話していた。
「助走スピードが速くなることで、(投てき動作)すべてが難しくなります。筋肉のつながりすべてを速くしないといけなくなり、腕の動きをもっと速くしないといけないから。以前の助走スピードは遅かったので、腕の動かし方にも余裕を持てました。今は腕を含めたすべてのリアクションを速く、正確に行なう必要が出てきています。これから(4月から)2、3カ月、そこに集中しないといけないでしょう」
北口は日本選手権の2週間後に、DLモナコ大会で65m21を投げて優勝した。昨年の日本選手権後の最初の試合と同じように、65mを超えてみせた。今季の世界リストでは5位(パリ五輪前時点)だが、昨年の実績や大試合での勝負強さを含めて考えれば、北口がパリ五輪の金メダル最有力候補になったと言っていい。
モナコの65m超えは6投目、最終投てきでの強さも改めてアピールした。セケラック氏も北口の強さを信じきっている。
「金メダルの自信はあります。もちろんオリンピックはすごいプレッシャーがかかります。世界陸上で金メダルを獲ったからなおさらです。
しかしハルカはメンタルが強い。決勝に進むことができたら、ブダペストみたいにやってくれると思う。我々も一生懸命にサポートします。ハルカは大丈夫だと思います。あとはみんなでお祈りをしましょう」
北口の投げるやりは、セケラックコーチはもちろんのこと、恩師やかつてのライバルら関わった人たちの思いを乗せて、パリの夜空を切り裂いていく。