1941年12月8日の旧日本海軍による真珠湾攻撃。そこで撃沈されたアメリカ海軍の4隻の戦艦のうちの1隻である「アリゾナ」では、約1000名もの乗員が亡くなりました。亡くなった乗員の慰霊と共に、この悲劇を伝える施設「アリゾナ記念館」を見学してきました。

海上に浮かぶ慰霊施設

 1941(昭和16)年12月8日、対米戦争を決意した日本は、海軍の空母機動部隊を集結させ、ハワイ州のオアフ島に位置するアメリカ海軍および陸軍の軍事施設を空母艦載機により攻撃しました。有名な「真珠湾攻撃」です。


アリゾナ記念館の外観(稲葉義泰撮影)。

 この攻撃により、アメリカ海軍は戦艦4隻を含む多数の軍艦を失い、あるいは大きな損傷を負いました。そして、この沈没した4隻の軍艦のうちの1隻が、それから80年以上か経過した今でも、記念館という形で人々に命の尊さを訴えかける場所となっています。それが「アリゾナ記念館」です。

 アリゾナ記念館は、撃沈された戦艦「アリゾナ」の直上に設けられた白色の建物で、一見すると長方形のようですが、両端から中心部に向かって上部がへこむように湾曲している特異なデザインです。

 この建物をデザインした建築家のアルフレッド・プライス氏によると、「片端から中心部に向かうにつれ、たるんでいき、そして最後には再び力強く活き活きと立ち上がる。これは初戦(真珠湾攻撃)での敗北から最終的な戦争での勝利までを表現したもの」とのこと。

 筆者も、実際にこの記念館を訪れてみることにしました。参加したツアーのガイドさんに指示された集合時刻は、ホノルル市内のホテル前になんと朝6時20分。じつは、この早朝集合にも理由があるのです。

 ツアーの車両で向かった先は、真珠湾を一望できる場所にあるアリゾナ記念館のビジターセンターです。ここで、アリゾナ記念館に向かうためのボートに乗船する際に必要な整理券を受け取ります。洋上に浮かぶアリゾナ記念館に向かうためには、アメリカ海軍が運航するボートに乗り込まなければなりません。そこで、先ほどの早朝集合の意味が明らかになります。

ハワイは早朝が涼しく、日が昇ってくるにつれどんどん気温が上昇していきます。すると今度は風が強くなってくるため、海面は波が高くなります。そうすると、アリゾナ記念館に向かうためのボートが大きく揺れたり、最悪の場合は運航が停止したりしてしまうことも。そのため、その日の朝一番に出るボートに乗るのがベストなのだそうです。

「ここは観光地ではありません」 係員が発した重い一言

 整理券を見せ、いよいよボート乗り場へと移動します。そこで、その時間の記念館見学者全員が大きなシアタールームに集められ、係員から見学に際しての注意事項が説明されます。

「ここは観光地ではありません。慰霊施設です。遊びに来るような感覚で写真を撮影して、それをSNSに投稿したりすることはやめてください」とは、係員が最初に発した一言です。1961(昭和36)年に完成し、翌年に国定慰霊碑となったアリゾナ記念館は、真珠湾攻撃に際して「アリゾナ」と共に命を失った、約1000名もの乗員が今でも眠る場所です。頭の中では理解していたつもりでしたが、この一言にハッとさせられました。

 注意事項の説明が終わると、いよいよボートに乗り込み、アリゾナ記念館へと足を踏み入れます。館内は白一色の塗装で、中央部には海面を覗くための大きな開口部があり、そこから「アリゾナ」の姿を見ることができます。一方海面には、沈没から80年以上を経てもなお「アリゾナ」の艦内から染み出ているオイルが、油膜となって漂っています。

 そして、記念館の最深部にあるのが、亡くなった「アリゾナ」乗員の慰霊スペースです。大理石でできた壁面に、戦死した乗員全員の名前が刻まれています。また、その壁面から視線を下に移すと、小さな大理石が両脇に置かれており、そこには「USS Arizona survivors interred with their shipmates(「アリゾナ」の生存者、彼らの仲間と共に眠る)」の文字が彫られています。


アリゾナ記念館最深部にある戦没者名簿(稲葉義泰撮影)。

 じつは、これは真珠湾攻撃時に生き残った「アリゾナ」乗員のうち、本人や遺族の希望によりその死後に遺灰が「アリゾナ」の眠る海底へと葬られた方々の碑なのです。

壁面に刻まれた1000名近い方々の名前から、「ここは観光施設ではなく、慰霊施設である」という先述した係員の言葉の意味を、改めて深く理解することができました。