郄木竜馬が原作と名曲の魅力を届ける『ピアノの森 ピアノコンサート 2024 Summer』開催中【公演レポート】

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一色まこと原作の漫画『ピアノの森』の世界を、登場人物が演奏した数々のピアノ作品を聴きながら巡る『ピアノの森 ピアノコンサート』。4度目となる夏のツアー開催中だ。今年もピアニストは、TVアニメ版で雨宮修平役のピアノ演奏を担当した郄木竜馬。一色氏が毎年このツアーのために描き下ろしているという原画も、郄木と共に全国をまわっている。全13公演の折り返し手前、8月2日(金)の調布公演のレポートをお届けする。

郄木竜馬/一色まことの書き下ろしイラスト原画も全国を巡る

平日昼間の公演。屋外に出ることをためらうような猛暑の中、会場の調布市文化会館は満席に近い入りとなった。肩から水筒をさげた夏休み中の小学生からご年配の方まで、聴衆の層は幅広い。

郄木が舞台に登場すると、息を呑むような美しいppで、ベートーヴェン「エリーゼのために」が始まった。4年連続、この曲でプログラムをスタートさせているとのこと。ベールに包まれたような、柔らかく奥深い音色には、高級感さえ漂っている。ピアノ学習者の定番曲だが、これほど心に染み入る素晴らしい作品だったのか、と誰もが思ったことだろう。先のインタビューで語っていた「親しみやすい内容で、しかし本格的なものを」というのは、まさにこのことだ。最後の音の余韻を消さぬよう、客席からすぐに拍手が起こらないことも印象的だった。

郄木のトークで曲への理解を深めながら楽しめることも、このコンサートの魅力のひとつ。ユーモアを交えつつ、折り目正しく落ち着いた話し方には郄木の知性と人柄が滲み出る。「『ピアノの森』の魅力、素晴らしい曲の魅力をお届けしたい。毎年ツアーでこの作品の世界を巡るのは、幸せな時間です」。

続くはショパンの2作品。「24の前奏曲 Op.28より第15奏《雨だれ》」は、みずみずしくふくよかな音色で始まり、次第に不穏な空気が満ちてくる。「雨だれ」を想起させる8分音符の連打で、緊張と解放を巧みに表現。そして、幅広い音量と音質が自然に身体に入り込んでくるのは、生演奏ならではだ。

《小犬のワルツ》は、鍵盤に指が吸い付いたように滑らかなパッセージが軽快に動き回り、愛らしい小犬そのもの。丸みのある音色と落ち着いたテンポがなんともエレガントだ。キラキラ、爆速で弾くだけが能ではない。

『ピアノの森』の登場人物、阿字野壮介がカムバックコンサートで演奏したメンデルスゾーン「厳格な変奏曲 Op.54」は、今年初めてプログラムに盛り込まれた。阿字野の厳しく辛い人生を表すような曲だが、郄木自身も近年シンパシーを感じるようになったという。透徹した厳しさの中にも、温かな光が差し込む瞬間があり、神聖な雰囲気。コーダでは郄木の鬼気迫る演奏が、聴衆を大きなうねりの中に巻き込んでいくようだった。

前半の最後はリスト《ラ・カンパネラ》。雨宮修平に、ピアノから逃げずに向き合っていくことを決意させる、ターニングポイントとなる曲だ。先ほどと変わって金属的で輝くような音色が響き、曲によって多彩な音色を使い分ける、郄木の引き出しの多さに脱帽。超絶技巧を忘れるほどに、情感たっぷりの歌が胸に染み入り、目の前にある鐘、遠くで鳴っている鐘、と遠近感のバランスも見事。

「聴きやすい作品で一度リラックスしていただくことから再スタートしたい」という郄木のこだわりから、後半の1曲目はショパン《別れのワルツ》。心地良く揺らぐ、たおやかな音楽に自然に身を委ねつつも、ppの音に集中力を引き出され、眠くなるどころか、目や耳も覚めていく。

本格的に聴く準備も整ったところで、プログラムの核とも言えるショパン「バラード第4番 Op.52」。ショパンの人生、そして主人公一ノ瀬海の人生を反映しているかのように、苦しみ、怒り、悲しみ、諦めが入り乱れ、さらに懐かしさや憧れが天上の美しさで描かれる、深遠な音楽。爆発的な音量でないからこそ、なおさらショパンのもどかしさが胸に迫ってくるよう。激情が渦巻くクライマックスはまさに圧巻、会場は大きな拍手に包まれた。

一旦舞台袖に下がって仕切り直し、「ディープな曲が多くなってしまいましたが(笑)、安心してください!ハッピーエンドです!」。郄木にとって、特に思い入れがあり共感するところが多いという雨宮修平がコンクールで演奏した「スケルツォ第2番 Op.31」は、ミステリアスな冒頭、突き抜けるような跳躍、瞑想的な中間部、と若々しいエネルギーとドラマに満ちた熱演で、なんとピアノの弦まで切れてしまった! 「申し訳ない」、そしてピアノに向かって「最後まで一緒に頑張りましょう!」と郄木。

プログラムの最後は、一ノ瀬海がコンクールの二次予選で演奏した《英雄ポロネーズ》。力強く希望に溢れる音楽は、複雑で困難な状況にもめげず、明るく前を向いて生きていく海の姿に重なる。豊潤かつ品のある音で、ポロネーズの荘厳さ、独特のリズムや郷愁をたっぷりと聴かせ、ブラボーの一言。

アンコール1曲目は、郄木自身がこれまでの人生を通して演奏してきた作品を収めたデビューアルバム『Metamorphoze(メタモルフォーゼ)』の中から、ラフマニノフの幻想的小品集より前奏曲「鐘」Op.3-2。《ラ・カンパネラ》の煌びやかさとは違う、渋く重厚な鐘の音色がずしりと響き、カリヨンを思わせる高音も寒々としている。中間部のアジタートは、大きな圧力の中で何かに抗うよう。ピアノの出し得る最大のsffffから、消え入る寸前のpppまで、一台の楽器のポテンシャルを最大限に引き出した、ピアノ音楽の真骨頂とも言える作品の魅力を聴衆に届けた。

「最後は涼しく」と、ノルウェーの作曲家グリーグの抒情小曲集より「夜想曲」Op.54-4。奥に続く道を示すように下行するバス、浮遊する内声、それらに優しく寄りかかるような旋律。立体的な響きが森の中のような空間を感じさせ、そこに鳥の声が鳴り響く。ひんやりと、身体の火照りが冷めていくような音楽で、真夏のコンサートを締め括った。水を打ったような静けさの後の大きな拍手とスタンディングオベーションを受けながら、郄木は立ち上がった一人ひとりと目を合わせるように何度もお辞儀をし、舞台を後にした。

ひと夏をかけて同じプログラムを何度も演奏し、それを何年続けていても、郄木は単に“こなす”ような演奏を決してしない。毎公演を心から楽しみにしつつ、同時に毎回緊張し、頭を悩ませながら作品に向き合っているという。しかし、その真摯な姿勢こそが郄木の素晴らしさであり、回を重ねるほどに増す作曲家や作品への畏怖の念がそうさせるのだろう。演奏は一期一会であり、だからこそ作品は生き物となる。この日も、「ピアノの森」の世界を楽しみながら、多くの作品の新たな魅力に気づかせてもらい、名曲中の名曲こそ一流の生演奏で聴くべきだと改めて感じた。こんな体験を、一人でも多くの人にしてほしいと心から思う。

終演後にはサイン会が行われ、多くの来場者が列をなした

イープラス presents『ピアノの森』ピアノコンサート2024 SUMMERは、2024年9月21日(土)浜離宮朝日ホールまで続く。

取材・文=正鬼奈保 撮影=福岡諒祠