石川・奥能登での清春のチャリティライブに密着ーー「いろんなミュージシャンが訪れるキッカケになれば」果たした約束、未来へとつなぐ支援と想い
2024年7月、ロックレジェンド・清春の姿は石川県・奥能登にあった。今年1月1日に起こった能登半島地震で大きな被害を受けた地域だ。今年の3月24日には金沢・vanvanV4で開催された、清春(with 大橋英之)&NOBUYA(with MASAHIKO)のチャリティライブ『KNOW』の前日に、写真家・石井麻木とともに初めて能登半島を訪れた清春。
2024.3.23
2024.3.23
その際、避難所にいる人々から言われた「歌ってほしい」という言葉。その約束を果たすため、現在開催中の全国ツアー『Debut 30th Anniversary year tour 天使ノ詩 NEVER END EXTRA』に合わせて能登を再訪した。今回SPICEでは、清春2度目の能登訪問に密着。ライブと活動の模様はもちろん、現在の奥能登の復旧状況と、そこに暮らす人々の想いをありのままレポートする。この記事がひとりでも多くの人に届くこと、「能登に行こう」という人が増えることを願って。
金沢駅から一路、珠洲市へ
7月19日、朝9時すぎ、金沢駅。SPICE編集部は前乗りしていたチーム清春と合流した。メンバーは清春とマネージャー、写真家の石井麻木、映像監督のYUTARO、ギターの大橋英之。そして奥能登をアテンドしてくれたのが、BRAHMAN・TOSHI-LOW(Vo)が立ち上げたNPO法人「幡ヶ谷再生大学復興再生部」の石川自主練リーダー(防災士)のバカビリーと、石川県羽咋郡にある妙法輪寺のお坊さん・教ちゃん。みんな明るく朗らかに、編集部を迎え入れてくれた。
一行が向かうのは、3月と同様に珠洲市・輪島市・能登町・穴水町がある「奥能登」エリア。能登半島の最先端だ。目的地は珠洲市と能登町。避難所での炊き出しと学校へのギター贈呈、チャリティライブを行う。石川県金沢観光情報センター・能登デスクの方の「能登のことを伝えてほしい」と涙をぐっと堪えて話してくれた熱い想いも受け取って、車に乗り込みいざ出発。
2024.3.23
2024.7.19
金沢市と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」は「能登への大動脈」と呼ばれる。住民の暮らしにも欠かせない大事な交通網だ。道すがら教ちゃんに話を聞くと、もともと能登半島は地形的に迂回路が少なく、地震でこの大動脈が被災したことで道路が寸断し、初動対応が大幅に遅れてしまった。その後懸命な復旧作業で、3月15日に能登方面全区間の通行が再開。さらに7月17日正午からは、ほぼ全区間で対面通行が可能となった。3月時点は亀裂や段差で路面はボコボコ、一車線通行だったそうで、清春は「道路が綺麗になって良かった。食料とか持っていけるから。素晴らしい」と嬉しそう。しかし地震の爪痕は深く、ところどころで見かける崩落現場や亀裂が、揺れのすさまじさを物語っていた。
2024.3.23
道中はローカルチェーン「すしべん」や「道の駅 桜峠」に立ち寄り、そばや金沢おでんを食べて腹ごしらえ。地元にお金を落とすことも忘れない。どちらも3月に訪れた場所で、道の駅の店員さんは清春が来たことを覚えており、笑顔で声をかけてくれた。清春もお気に入りの能登の特産品であるブルーベリーを使ったソフトクリームを味わいながら、前回の思い出話に花を咲かせる場面もあった。
博多ラーメンの炊き出し。「何かしたい」という想いの連鎖
金沢から約3時間走行し、珠洲市立宝立小中学校の避難所に到着すると、ひと足先に着いていた福岡市のらーめん居酒屋「博多らーめん・ちゃんぽん ひるとよる」と合流。ラーメンの炊き出しを行う。
7月現在、こちらの避難所を利用しているのは約50人。地震直後は約300人避難していた被災者も、仮設住宅に移ったり、金沢などに2次避難したりして、だいぶ少なくなったと石井は話す。また、ニコニコ生放送『深掘TV』で清春と石井が報告していたように、2月頃は1日2食のお弁当支給があったが、3月には1食になり、現在もそのままだ。それでも人々の暮らしは続いていく。被災状況に関する報道も減少していることから、このような現状は県外の人の耳にはなかなか届かない。
この日は避難所と学校裏の仮設住宅に住む被災者に食べてほしいと、200食あまりの本場のラーメンとキムチを用意した。清春は紅生姜、ねぎ、ごまのトッピングを担当し、1人ひとり丁寧にラーメンを手渡していた。中には「清春さん、前も来てくれましたよね」と声をかける人や、博多ラーメンだと聞いて「娘が熊本にいるもんで、福岡の屋台にも何回か行ったことがあるよ」と嬉しそうに語る男性も。
「ひるとよる」による能登での炊き出しは今回で2度目。店長の松屋綱善さんは「何かしたい」と思い、2月に自らボランティアに出向いたという。そして清春が福岡の店舗で食事をしたこと、3月の能登来訪のSNSの投稿を見て「今度は一緒に行かせてください」と清春に連絡、今回の活動につながった。炎天下の炊事場で、汗だくでラーメンを提供するのも想いがあるから。松屋氏は「街並みはあまり変わっていないけど、避難所の人たちの表情は少し明るくなったんじゃないかな。前回は大変そうでしたもんね」と話していた。ゆっくりと進む、建物の解体や瓦礫の撤去。外から見ると変わらないように見えても、珠洲で暮らす人々にとっては少しずつ変化している。それが希望なのだ。
そして、石井がMAN WITH A MISSIONのリーダーでボーカルのトーキョー・タナカと清春をつなげる。トーキョー・タナカはバンド活動をしながら「コネクトex. #サポウィズ(一般社団法人CON)」という災害支援プロジェクトを立ち上げ、東北をはじめ能登の後方支援を行なっている。この日も朝イチで奥能登に入り、能登の仲間の元を回っていたそうだ。
奥能登では上下水道のインフラが整いきっていないにも関わらず、仮設トイレが撤去され始めているらしく、住民の要望を受けて「#コネクト」は「自律式移動型水洗トイレシステムSalao」を導入して「誰でもトイレ」を設置した。清春がチャリティライブを行った本町ステーションの隣にも一基あり、中はカフェのトイレのよう。仙台の施工会社の手を借りて、快適な癒しの空間を作り上げた。困っている人がいる状態で容赦なく打ち切られる支援。そこにすぐさま救いの手を差し伸べる行動力には、ただ感服するしかない。
本町ステーションでミニライブ
炊き出しが終わると、避難所から徒歩約5分の場所にある、本町ステーションでミニライブ。本町ステーションは、珠洲市の若手がNPO法人を立ち上げて作ったコミュニティスペースで、古着やお菓子を用意したり、さまざまなイベントを企画して誰もが気軽に立ち寄れる場所を作っている。また、震災後に営業を再開したサービスやお店、トイレの場所などの最新情報を更新するサイト「ファイト! 珠洲」も運営している。
空き商店を改造した10畳ほどのスペースには、老若男女が満員御礼で清春を待ち構える。少し遅れて到着した清春を拍手で迎えると、ツアーのバンドメンバーでもあるギタリスト・大橋とのアコースティックライブがスタートした。
普段はライブハウスやホールでライブを行うことが大半の清春。被災地でのチャリティライブは今回が初となる。いつもと違う環境にオーディエンスとの距離の近さ、自分のことを知らない人もいるという状況に、やや落ち着かない様子。「(やる曲を)何も決めてないんです」と言うと、最前列の方から黒夢の「BEAMS」というリクエストが飛ぶ。清春は「自分のコンサートでもやってない曲だ」と言って、アコギ2本で力強くアンサンブルを奏で、サビを歌唱。清春が歌声を放つと場の空気がビリビリ震え、鳥肌が立った。
続いては、2000年にTBS系ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の主題歌として大ヒットした、SADSの「忘却の空」。オーディエンスは切なく甘い歌声と力強い演奏に聴き入り、歌い終わると大喝采が湧き起こった。さらにカバーアルバム『Covers(2019年リリース)』から、松山千春の「恋」を情緒的に歌い上げた。
「全世代の人が楽しめるように」という配慮からカバー曲を続けようとすると「清春さんの曲が聴きたい」という要望に応えてソロ曲「HORIZON」を披露。<ただ眠れる様に詞うよ>という歌詞や、最後に披露したソロ曲「君の事が」の<明日になっても何も変わらないよ だけど明日はきっと来るよ><夢とか希望はね、ずっとある><君の事が 僕はとても気掛かりで>といった歌詞から、清春の想いが痛いほど伝わってくる。クライマックスに向けて作られた空気や高揚感、響かせたフェイクは気迫たっぷり。ミニライブでもしっかりと山場を見せて締め括った。ライブ中、涙するオーディエンスもいたように、清春の表現はしっかりと心に染み込んだようだった。
最後に清春は「金沢に来る機会があれば、その前に必ず寄りますので。もしこの状況がまだ続いているようなら、また歌いたいと思います。頑張ってください」とメッセージを贈った。
ライブ後には、本町ステーションスタッフ・宮口さんからのご厚意で、500年以上前から珠洲で継承されてきた「揚げ浜式製塩」で作られた塩のプレゼントも。車が見えなくなるまで笑顔で手を振る心遣いにも、胸があたたかくなった。
清春に感想を聞いてみると、ワンマンでもフェスでもなく、年代や属性、音楽の基礎に差異がある客層の前でのライブということで、選曲が難しいと話す。「エンターテイメントとは違う何か。無料だからって何やってもいいわけじゃないしね。30年ぐらい音楽をやっているけど、こういうところに来ると半分くらい無力だなと思ったりするんですよね。違うアーティストのファンやおばあちゃん、普段音楽を聴かない人、僕の存在は知ってるけど曲を知らない人。色んな層の中でやって喜んでもらえるのが、1個の芸なのかなという気がします。説得力があれば聴いてくれるし「おおっ」となってくれるので。試されますよね。でもこういう経験が、自分のコンサートをやった時にすごく活きると思うんです。MCも含めて、今までの自分とは違った肉付けになっていく」と、真剣な眼差しで語ってくれた。
飯田高校と珠洲市教育委員会へ、アコースティックギターを贈呈
清春は石井らとともに、3月に行われたチャリティライブ『KNOW』とチャリティTシャツの利益を義援金及び支援金として寄付したが、そこからFenderのアコースティックギターを購入。「子どもたちが夢を持てるような形に残るものがほしい」という要望を受けて、珠洲市の全ての小中高等学校にギターを贈ることをチームで決定した。その中で、今回は石川県立飯田高等学校と、珠洲市役所内の教育委員会に直接ギターを届けに行った。
まずは飯田高校の吹奏楽部に到着。出迎えてくれたのは16~18歳の8人の部員と先生だ。早速部長の学生にギターが手渡され、ぴかぴかのアコースティックギターを見た学生は「すごい! かっこ良い! 綺麗!」と目を輝かせる。2人の子の父である清春は優しい眼差しでその様子を見つめ、「みんなのお父さんお母さん世代が、僕のこと知ってると思う。これを進呈します。ぶっ壊してください(笑)」とロック魂も継承した。
飯田高校の全校生徒数は232名。学生とすれ違うと、みんな「こんにちは」と明るく挨拶をしてくれた。しかし校内を歩いてみると、あちこちの壁が大きくひび割れていたり、シャッターが壊れたままになっていたりと、地震の被害を受けた校舎で学校生活を送っていることに驚く。さらに、珠洲市の5~6割が今もなお断水しているという。水道管は通っても、各自宅まで水を引く作業を自分たちでやらないといけず、思うように復旧が進まないのだそう。飯田高校は一部校舎のトイレにしか水が通っておらず、この酷暑でも学生たちは、運動場の近くに設置された給水タンクひとつで水分を摂り、仮設トイレで用を足している。この現状は一刻も早く解決してほしいと感じた。
続いて、珠洲市役所の中にある教育委員会へ。清春はギターを渡すと同時に北國新聞社の取材もこなし、今回の能登訪問とギター贈呈への想いを話していた。
3月から変わらない景色と……
ライブ会場のいやさか広場に向かう前には、珠洲市宝立町鵜飼周辺を視察。ここは約3mの津波が街を襲った地域だ。清春と石井は前回もこの場所を訪れている。3月はもう少しゴーストタウンだった、と教ちゃん。この日は車通りもあり、瓦礫撤去の重機の音が聞こえ、畑では農作業をしている人の姿も見られた。
しかしながら「人が住んでいないから直す必要がない」と復旧作業が後回しにされており、生々しく残る傷跡には思わず言葉を失う。地盤の液状化で隆起したマンホール。倒れて折れたままのカーブミラー。ぐしゃぐしゃに潰れた家屋。放置された自家用車。かつて誰かの腕に抱かれたであろうプーさんのぬいぐるみ。確かに息づいていた生活のあと。清春は辺りを見て「何も変わっていないね」と現実を受け入れる。
だが、視察中に車ですれ違った夫婦が「清春さん、ラーメンごちそうさま!」と笑顔でお礼を言う場面があり、心がホッとあたたかくなった。想いは確かに届いているし、人々はたくましく生きている。
数百人と最高の空間を共有した、大盛況のチャリティライブ
ライブ前には、いやさか広場から徒歩5分ほどの場所にあるコーヒースタンド・DOYA COFFEE(ドーヤコーヒー)を訪問。清春がチャリティライブを行うことをSNSでタグ付けして投稿したところ清春の目に留まり、来訪する流れとなった。2022年にオープンしたDOYA COFFEEは、地震後から毎日SNSで被災地の情報を発信し続けた、能登町のキーマン。笑顔で迎えてくれた店長のまゆ穂さんと、オーナーの辻野実さん。古いヘアサロンをリノベーションした店内では、清春の音源が流れていて愛を感じる。辻野さんはUターン移住したデザイナーで、能登の情報発信を行うプロジェクト「NOTONOWILD(能登のワイルド)」も手がけている。
清春は居合わせたラッキーなファン1人ひとりの話を聞き、コミュニケーションを取る。とても美味しいコールドブリューコーヒーを飲むと元気が出た。笑顔で前を向き続ける人たちの良い空気をもらえる、素敵な場所だった。
そしてお待ちかね、いやさか広場でのチャリティライブ。いやさか広場は、能登町宇出津港に面した敷地面積1347㎡のイベント広場。シンボル的な大屋根は、7月5日・6日に行われた宇出津のお祭りで、石川県の無形民俗文化財にも指定されている「あばれ祭り」の開催前に完成したばかり。ステージ前に並べられた椅子はすっかり埋まり、立ち見も出て大盛況。おじいちゃんおばあちゃん、学生や子どもたち、仕事を終えて駆けつけた人、ボランティアで能登町に滞在している人、県外からやってきた清春ファン。中には東北ライブハウス大作戦のTシャツを着ている人の姿も。およそ300~400人の人たちが集まり、広場の空気は期待に高まっていた。
定刻を少し過ぎた頃、大歓声と大拍手に包まれて清春が登場し、「皆さんこんばんは。2度目の能登になります。清春と申します」と挨拶。今回もリハーサルなし&セットリストは決めず、ギターの大橋と相談して、その場で楽曲を決めていく。
1曲目は黒夢の「少年」。解き放たれた素晴らしい声量と伸びやかな歌声に圧倒される。時折声を揺らし、がなり、魂を込めて声を振り絞る姿に息を飲む。宇出津周辺は比較的建物が残っていることから自宅避難者が多く、清春の音楽と青春時代を過ごした40~50代が街にたくさんいて、世代ど真ん中の楽曲にテンションが急上昇。のっけからクラップで盛り上がる。
清春は「普段の2倍ぐらい緊張します」とはにかみつつ、黒夢の「NITE&DAY」を大橋とアイコンタクトを取りながら、繊細かつゆったりと聴かせてゆく。続くSADSの「Masquerade」では立ち上がってアコギをかき鳴らし、叫ぶように声を放つ。「NITE&DAY」の<胸にきざむ傷を消したい>、「Masquerade」の<忘れられるよ 痛みを 嫌だった夜を><恐くないよ これから 愛せるよ>という歌詞に込められたエールにグッとくる。物語のような楽曲展開と魅せ方はさすがで、サビではしっかりと手があがり、惜しみない拍手が会場を包み込んだ。
「海が見えるので」と歌い上げたソロ曲「海岸線」では、<僕が居た 砂の城よ 脆く崩れ去って><何処かに安らぐ場所があればいいのに>と被災者の気持ちに寄り添い、「貴方になって」では思い切り愛を叫ぶ。アコギと歌声だけの、オーガニックで美しい贅沢な時間。とにかく伝えようとする清春の想いは、ヒリヒリとした質感を伴いながらも、会場を優しく満たしていった。
MCでは「僕をはじめ色んなミュージシャンが来ることがキッカケになって、ここで歌ってもいいんじゃないかという連鎖反応が起こればいいなと思っております。僕自身も微力ですけど、3回目、4回目と伝えていければいいなと思っています。見た瞬間の感動や、今日お会いできた運命、特別な時間を共有できた感覚を大事に、残りのツアーを廻って、また能登地方に帰ってきます」と、想いを述べた。
そして『Covers』から井上陽水の「傘がない」をカバー。<君に会いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ>という歌詞は、清春の気持ちをダイレクトに表したもので、本人もライブ後に「素晴らしい歌詞。あそこはちゃんと聴こえるようにしっかり歌いました」と語っていた。
最後のMCでは「僕は東京に住んでいるので、たまに来たぐらいでリアリティがわかるかと言えばわからないけど、どこに住んでいても心配してる人はいるし、できることがあれば持って来ようという人はたくさんいます。僕もまた来たいと思うので、あたたかく迎えてください」と言うと、割れんばかりの拍手と歓声、「清春さんありがとうー!」という声が飛び交った。
ラストは「忘却の空」。イントロが鳴り響いた瞬間、ものすごい歓声とクラップが発生し、これまでで一番の熱量が会場を包み込んだ。この爆発力はすさまじく、清春も高まって「イェーイ!」と叫ぶ。サビでは<歌う声は!><聞こえてる!>という力強いコールアンドレスポンス。交流を重ねるごとに大きくなる声、増す熱量。祭りの街ならではの結束力、素晴らしい一体感と疾走感に呼応して、「聞こえてる! 聞こえてる!」と叫ぶ清春。紛れもなく通じ合っているし、共有している。この感覚は一生忘れることができないだろう。清春はやりきったとばかりに「PEACE!」とピースサインして、「ありがとうございました! 次会う時まで元気で」とステージを後にした。ライブが終わるのを見計らったように降り出した雨も、奇跡の演出のよう。一様に充実感を浮かべたオーディエンスの笑顔はひかり輝き、なんだか胸を締め付けられた。
僕らは「印をつけていく世代」
大熱狂のライブを終え、清春に大勢のオーディエンスを前に何を感じたか聞いてみると「やっぱり今はどうしても飲みに行ったり、遊びのバリエーションが少ないから、『今日はもうこれしかない』って楽しみに来てくれた感じがすごく伝わってきた」と語る。
ボランティア活動への気持ちについては「支援だとは思ってない」と前置きしつつ、滋賀県甲賀市にあるアートセンター&福祉施設の「やまなみ工房」やALS(筋萎縮性側索硬化症)の未来を変える活動を行っている武藤将胤氏の名前を挙げて、「会社でもどこでも、辛い状況で諦めちゃう人もたくさんいるけど、10%ぐらいの人が本当に強い意志を持って強く生きようとしていて。そういう人たちと一緒に何かやることが、その人たちの希望にもなる。今日MCで言ったことと同じですね。僕は印をつけていく世代というか。僕が被災地に行って、別に寄り添えないけど、何かをやることで、他のミュージシャンが「清春さんがやってるんだからやってもいいな」「清春さんも行ってたから、俺たちも」というキッカケを作りたい。みんな親戚でも知り合いでもないけど、例えば信号待ちでおばあちゃんが渡れないとか、困ってる人がいた時に、東京だと見て見ぬふりをするじゃないですか。そういうことをしているのが恥ずかしい世代」と言葉を紡ぐ。
そして「寄り添うことよりも、シンプルに困ったとか寂しい、暇だなという時に、人前に立つ役割も大事だと思っていて。自分のやってきた道のりが、こういうところで突然意味を持つ。これまでは僕の音楽ビジネスを考えると、ライブで「忘却の空」をやるのが自分的に気が進まない事だったんですけど、今は人間として役割として、良いことだな、ありだなと思う」と、自身の音楽活動の成熟とフェーズ、歳を重ねた意識の変化が、今の清春たらしめていると話してくれた。
もちろん、仲間との出会いも大きい。「マジで麻木ちゃんと、バカちゃん、教ちゃんのおかげ。何の利益もなく、ただただ困ってる人がいるのは嫌だから、やっている。皆さん素晴らしいですね。僕はたまたま麻木ちゃんが写真を撮ってくれるようになったからつながれたけど、お会いできてなかったらこうなってない」としみじみ。「でも今日は思ったよりめちゃくちゃ頑張りましたね」と満足そうに1日を総括した。
風化させないために、できることを続ける
バカビリー曰く、能登の人々は「忘れられていくのが怖い」と語る。日に日に減っていく報道と支援、人々からの興味関心。もともと奥能登は過疎化が危ぶまれており、20年後には限界集落になると言われていたが、それが今回の地震によって一気に早まったと話す。「いつか風化してしまうのではないか、これからどうなってしまうんだ」という不安を抱えながら、それでも踏ん張って、明るく生きようとしている奥能登の人たち。そして、掛け値なしの純粋な気持ちから、想いのままに行動できる人たち。そんな美しく優しい人がいる場所だった。
遠くから被災地に想いを巡らせ、自分にできる範囲の支援をするのも素晴らしい。だけど、もし「何かしたい」と思っていたり関心がある人は、一度現地に足を運んでみてほしい。それだけで感じることがあるはずだし、被災地への解像度がぐんと高くなる。何よりも「訪れたことがある場所だ」「あそこにあの人がいる」という事実は、例えゆかりがなくともつながりと使命感を芽生えさせてくれる。SPICE編集部一同も、今回の密着取材で現地に赴くことの重要性を実感させられた。本当に意義深い能登訪問だった。
清春はまた仲間と奥能登に足を運ぶだろう。ミュージシャンとして、ひとりの人として、能登の人たちに会うために。今できることを続けるために。
「2024.7.19 清春 Second visit Noto」(Director / Editor:YUTARO)
取材・文=久保田瑛理 写真=石井麻木 提供 動画=YUTARO 提供