中田英、稲本、中村俊…シドニー五輪は“大人なチーム” 名ボランチがトルシエJで感じた組織と個の“融合”
【2000年シドニー五輪|ベスト8敗退】明神智和「立ち上がりから本気で…」五輪で味わった王国のしたたかさ
1999年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝を果たした中心選手たちを擁して戦った2000年のシドニーオリンピック(五輪)。
フィリップ・トルシエ監督の指揮の下、当時の代表で中心選手の1人だったのが、のちの日韓ワールドカップ(W杯)にも出場した明神智和氏だ。
稀代の名ボランチに、「ギラギラしながらもチームワークがあった」という24年前の黄金世代の輝きを振り返ってもらった。王国ブラジルとの戦いで感じた世界との差、唯一の欧州組として参加していた中田英寿の存在感、そしてコンビを組んだ稲本潤一の「スケールの大きさ」とはどのようなものだったのか。(取材・文=石川遼)
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当時の日本代表はU-20、U-23、そしてA代表までトルシエ監督が総指揮を執っていた。ワールドユースで準優勝の快挙を果たした1979〜80年生まれの選手たちがそのままシドニー五輪でも中核を担うことになり、オーバーエイジの選手たちも違和感なくチームに溶け込むことができた。
アジア予選では12試合全勝。計66得点を叩き出す圧倒的な強さで本大会への切符を手にした。本大会のグループリーグでは南アフリカ、スロバキア、ブラジルと同組になった。
グループリーグ初戦で激突したのは南アフリカ。マンチェスター・ユナイテッドでプレーしていたMFクイントン・フォーチュンやブラックバーンなどで活躍したFWベネディクト・マッカーシーらが中心となった難敵との一戦は相手に先制を許す展開となったが、高原直泰の2得点で逆転に成功した。明神は白星発進が持つ意味の重大さを強調する。
「初戦は自分たちがどれだけやれるのかというところで、期待と不安と両方があり、動きも硬かった。南アフリカは結構前評判が高くて、相当やるチームだというのは聞いていたんですけど、そこに勝てたことで『俺たちはできる』っていう自信を得ることができました」
グループリーグの最後にブラジルとの戦いが控えているからこそ、初戦の重要性はチームの誰もが理解していた。これ以上ない理想的なスタートを切った。
第2戦の相手はスロバキア。南アフリカほど前評判は高くなく、日本としては勝ち点3を取りこぼすわけにはいかない相手だった。後半に入って中田英寿の豪快なダイビングヘッドで試合の均衡を破ると、稲本潤一が追加点を挙げ、2-1で勝利を収めている。
「スロバキア戦は点差以上にやれたという印象で、これいけるなという思いは強かった」
初戦で抱いた自信は、確信に変わりつつあった。
準々決勝の米国戦は「身体に残っていた重さが試合を分けるわずかな差になった」
迎えた第3戦。日本が2連勝を飾った一方、ブラジルは第2戦で南アフリカに敗れていた。負ければグループリーグ敗退の可能性もあったカナリア軍団は若き日のロナウジーニョなどの主力を温存することなく、ベストメンバーを揃えて日本の前に立ちはだかった。
立ち上がりの前半5分、日本は左サイドからのクロスに対応しきれず、あっさりと先制点を奪われた。その後、スコアを動かすことはできず、そのまま0-1で敗戦。明神は「チームとしても、個人としても手応えを感じた部分はあった」と話したが、それと同時にサッカー王国のしたたかな強さを見せつけられた。
「ブラジルは第2戦でちょっとつまずいたのもあり、3戦目はお互いにベストメンバーで戦うという状況でした。実際に対戦して感じたのはやはり試合運びの上手さです。その点でははっきりと自分たちよりも上だったなと感じました。思った以上にやらせてもらえなかったなというか、ブラジルは立ち上がりから本気できて、その流れのまま僕らは失点してしまいました。そこからはボールを持たせてはもらえるんですけど、決定的な部分までは作らせてもらえず、時間が淡々と過ぎていくような試合でした」
大会初黒星を喫した日本だったが、スロバキアが南アフリカを下したためにグループDで2位となり、銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪以来となる決勝トーナメントへの進出が決まった。4強入り懸けた準々決勝の相手はグループCを首位通過したアメリカだった。
前半に中村俊輔のクロスボールから柳沢敦が豪快なヘディングで先制点を挙げると、後半には高原の今大会3得点目となる一撃で日本は2度にわたってリードを奪った。しかし、アメリカの粘りに遭い、2-2でPK戦へ。アメリカは5人全員が成功させたのに対し、日本は4人目の中田英寿の蹴ったボールが左ポストに嫌われた。
「アメリカは南アフリカやブラジルほどの強さ、上手さといったものは感じませんでした。ただ、最後のところで走り切れるスタミナやパワー、エネルギーを持っていました。僕らは予選3試合を常に勝利しなきゃいけないという極限の状況で戦ったあとで迎えたアメリカ戦だったので、疲れもありましたし、身体に残っていた重さが試合を分けるわずかな差になってしまったのかなと思います」
紙一重の敗北で「もっとやれたはず」という後悔は残ったが、ワールドユースから続く黄金世代の国際舞台での活躍は、日本サッカー界に確かな足跡を残した。
「本物の世界で戦っている人」…異質だった背番号7の存在
明神にシドニー五輪を戦ったU-23日本代表はどんなチームだったのかを尋ねると、「本当に凄い選手たちが集まっていました。ギラギラしながらもチームワークがあった。改めて見ると、その後の日本サッカー界を背負ったレジェンドたちばかり」と話し、「その中で自分がプレーできたのもびっくりです」と笑みをこぼした。
ビッグネームがズラリと並び、のちに日本代表歴代最多出場記録(152試合)を更新する遠藤保仁でさえバックアップメンバーに回らなければならないほどの充実ぶり。そこへオーバーエイジとして楢粼正剛、森岡隆三、三浦淳宏が加わったチームは「史上最強」の呼び声も高かった。
個性が際立つ選手を揃えて「船頭多くして船山に上る」になっては元も子もないが、明神曰く「チームのことを考えながら行動できるというか、人間的に本当に成熟している選手が多かった。その後、各クラブでキャプテンをやるような選手ばかり。年齢は若くても大人な印象が強かった」。トルシエ監督が選んだ18人はすでに“大人なチーム”として上手く1つにまとまっていたという。
そして、そんなチームの中でも特段大きな存在感を放っていたのが、当時イタリアのローマに所属し、日本代表で唯一の欧州組だった中田“ヒデ”だった。背番号7を背負った大黒柱は敗れたアメリカ戦で頭を抱えることになったが、そこに至るまで代表を牽引してきた事実に疑いの余地はなかった。
「印象に残っているのはやっぱりヒデさん。練習から取り組み方がほかとは違っていて、強度や激しさ、今でいうインテンシティーの部分は1人だけ別次元でした。オーストラリアに入った直後からコンディションは万全でしたし、最初の練習からバチバチとやり合っていました。僕はその姿を見て、本物の世界で戦っている人の厳しさを知りました。ヒデさんが作り出す練習の空気感というのが、チームにものすごくプラスの影響を与えたと僕は思っています」
今ほど日本人選手の欧州移籍が当たり前ではない時代に、イタリアでその名を轟かせていた男の背中は同じ代表選手にとっても大きく感じられた。
「どんな場所においても常に高いレベルを要求し、常に自分のプレーをして結果を出す。五輪の予選から合流して、本大会でも、その後のW杯でも一緒にやって、そのブレない強さ、タフさを間近で見て、改めて凄い人なんだなと思い知らされました。多くを語るわけではなく、背中で語る。そんな選手でした」
明神が「スケールの違いを感じた」選手とは?
トルシエ監督は日頃から選手には「組織70%、個人30%」と組織力を何よりも重視することを求めていたというが、その組織の中心にいた中田はもちろん、チーム最多の3得点を決めた高原や、左足から再三のチャンスメイクを見せた中村など個々の活躍もしっかりと目立った。そのなかで明神はボランチでコンビを組んだ稲本潤一を指して「スケールの違いを感じた」という言葉を残している。
稲本はスロバキア戦で日本を勝利に導く決勝点をマークした。ディフェンスラインの裏に抜け出して独走した高原のシュートはGKに防がれたが、そのこぼれ球に詰めたのが神出鬼没な動きで最前線まで駆け上がってきた背番号6だった。一番近くにいたからこそ、そのダイナミックなプレーは明神の脳裏に鮮烈な印象を残していた。
「あんなふうにボックスからボックスに出ていけるということの凄さは、近くで見ていなければ分からないかもしれません。攻撃に出ていくタイミングも素晴らしいですし、まだ行ける、まだ行くんだって、何度も、何度も。ただ闇雲に出ていくのではなく、ここぞという場面で決定的な仕事をする姿を見た時に、なんかスケールの違いをまざまざと感じさせられました。だからといって守備をしてないわけじゃなく、きちんと守備にも顔を出している。やっぱり彼も凄い選手ですね」
オーストラリアの舞台で堂々たる戦いを見せた黄金世代の歩みは多くのサッカーファンの記憶にも深く刻まれている。あれから24年。日本代表は数々の歴史を塗り替えながら成長を続けてきた。今回のパリ五輪では大岩剛監督が率いる代表チームがどのような活躍を見せてくれるのか注目だ。
(文中敬称略)
[プロフィール]
明神智和(みょうじん・ともかず)/1978年1月24日生まれ、兵庫県出身。柏ユース―柏―ガンバ大阪―名古屋―長野。J1通算497試合26得点、J2通算20試合0得点、J3通算38試合0得点、日本代表通算26試合3得点。シドニー五輪や日韓W杯でも活躍した職人タイプのボランチ。2020年から古巣であるガンバ大阪アカデミーのコーチを務め、日本サッカー界の発展に尽力する。(石川 遼 / Ryo Ishikawa)