関ヶ原古戦場決戦地(写真:ましゃいこ / PIXTA)

かつては「新大陸を発見した英雄」としてもてはやされた航海士のコロンブスだが、近年は植民地主義を推し進めた点などが問題視されている……。「コロンブス」というタイトル曲のMVが炎上し、物議をかもすことになったのはつい数週間前のことだ(過去記事:ミセスのMV炎上「コロンブス」が犯した恐ろしい罪)。その一方で、「歴史上で悪役とされてきたり、どちらかというと嫌われ者だったりした人物たちが、再評価されることもある」と、偉人研究家の真山知幸氏は語る。そのうちの1人が、石田三成だ。『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』を一部抜粋・再構成し、石田三成の素顔について、解説する。

歴史上の「嫌われ者」は誤解されているだけ?

勇気を出して困難に立ち向かい、自分の使命を果たすべく、命をかける――。そんな歴史上のヒーローの姿には、思わず勇気づけられる。

しかし、一方では、そんな英雄とは正反対の「嫌われ者」もいる。飛鳥時代に政治を意のままにしようとして中大兄皇子や中臣鎌足に成敗された蘇我入鹿や、満月をみては「少しも欠けていない、まるで私のような月……」と悦にいたった藤原道長のように、傲慢な人物も歴史上では、異彩を放ち、無視できない存在となっている。

そのほかにも「学問の天才」と名高い菅原道真を、デマで追い落とした藤原時平みたいな陰キャもいれば、平家を見事に打倒した源義経の悪口を言いまくって、失脚させた梶原景時のような、サイテー野郎もいる。

『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』では、そんな「嫌われ者」ばかりをあえて集めた。なぜ、そんなことをするのか? それは、歴史上の「嫌われ者」が、実は誤解をされていたり、イメージで語られていたりすることが、ほとんどだからである。

そのなかの1人である、「関ヶ原の戦い」で徳川家康に敗れた石田三成について、とりあげよう。


©メイ ボランチ

「これ以上、勝手なふるまいをする、徳川家康を許すわけはいかない」

豊臣秀吉に仕えた知的な武将、石田三成はそんな怒りからついに立ち上がり、家康と対決することなった。天下分け目の大決戦である「関ヶ原の戦い」直前のことだ。

秀吉の死後、家康はそれまで禁じられていた大名家同士の結婚を推し進めるなどして、あからさまに勢力を拡大。このままでは、豊臣家が滅ぼされてしまうと、三成は挙兵を決意したのだった。

ところが、盟友の大谷吉継に、いちはやく思いを打ち明けたところ、思わぬ返事が返ってきた。

「お前は人望がないから、人たらしの家康には勝てるわけがない。やめたほうがいい」

そこまでハッキリ言わなくても……。なんだか三成がかわいそうになってくるが、事実、三成は人の心をつかむことが苦手だった。

うまくコミュニケーションがとれなかった

特に三成自身が事務能力に長けた官僚タイプだったため、戦場で力を発揮する加藤清正や福島正則といった猛将タイプとは、相性がよくなかったようだ。

全国統一を果たした秀吉が海の向こうに目を向けて、朝鮮に出兵したときに、その溝はさらに深まった。三成が、戦地に送る物資や兵員を配置する一方で、加藤清正らは戦地へ。

しかし、朝鮮出兵は失敗に終わり、撤退を余儀なくされることになる。難しい撤退の指揮をとって成功させたのは三成だったが、裏方仕事はいつの時代も軽視されるものだ。清正らからすれば「戦地でがんばっているのは自分たちだけじゃないか」という気持ちから、三成への反発心を強めていく。

しかも、間が悪いことに、『清正記』という文献によると、帰国した清正に、三成はこう声をかけたという。

「ご苦労さまでした。苦労をねぎらって今度茶会を催したい」

この言葉に、清正はカチンときた。何が茶会だ。こっちは戦場で食料もなく苦しんできたというのに……。そんな怒りを覚えて、清正はこんな嫌味で返した。

「ぜひ御茶をいただこう。私は7年間、朝鮮で戦い、兵糧一粒もなくて、茶や酒も持っていないので、まずい稗粥でもてなそう!」

三成からすれば、よかれと思ってかけた言葉だろう。だが、それで相手を怒らせてしまうのだから、三成には相手の気持ちがわからないところがあったようだ。親友の吉継が「お前には人望がない」とはっきりと三成に伝えた理由もわかる気がする。

しかし、三成は何も自分の思いを表現すること自体が苦手だったわけではない。鳥の鷹が大好きであり、上杉景勝に自分の鷹を献上したときには、こんな手紙を書いた。

「私の秘蔵のタカでございます。アオサギを捕獲するタカということで他所からいただいたものですが、ガンにばかり興味を持ち、私のもとでアオサギをとることはありませんでした。この春、私のところではガンを20羽ほどとりました……」

手紙はまだまだ続き、ずっとタカについて語っている。もしかしたら、そんなオタク気質も、清正ら「武断派」とは合わなかったのかも……。どこか憎めない三成だった。

親友が生涯忘れなかった三成のやさしさ

三成は親友に「やめておけ」といわれながらも、家康を敵に回して挙兵することを決意する。関ヶ原の戦いの始まりである。

そして三成がいざ戦うことを決めると、結局、親友の吉継も三成とともに、西軍として戦うことを決めている。

あれだけ止めていたのになぜ……と思うが、吉継には、忘れられない三成との思い出があった。

それは、大坂城内山里丸で茶会が催されたときのことだ。茶の回し飲みが始まったが、このとき、吉継は皮膚の病を患っていた。

そして、吉継のところに茶碗が回ってきたとき、吉継の皮膚から汁が一滴ぽたりと茶碗に落ちた。列席していた前田利家らの大名たちは、思わず動揺したという。

しかし、そんななか、三成はその茶碗に手を出して、一気に飲み干してしまったという。吉継に恥をかかせないように、という三成の配慮だった。
吉継は、そんな三成の友情に心を打たれて、三成が決めたならば、どこまでもついていくことを決意したようだ。


©メイ ボランチ

盟友の吉継も味方してくれた関ヶ原の戦いだったが、数時間であっさりと決着が着き、東軍の勝利に終わる。

だが、福島正則のように、東軍率いる家康側についたことを一生後悔した人物もなかにはいる。家康が関ヶ原の戦いのあと、豊臣家をないがしろにして、自ら将軍となったからだ。

そんな家康の天下取りの意図にいち早く気づき、兵を挙げて立ちはだかったのが、三成だった。

しかし三成は敗れて捕らえられ、処刑されることとなった。処刑の直前に白湯を希望するが、刑場にはなかったため、警護の兵が「柿ならあるぞ」というと、三成はこう言って拒んだ。

「柿には胆の毒があるゆえに食さぬ」

警護の兵が「これから処刑される人間が体を気遣うのか」と笑うと、三成はこう言ったという。

「大きな望みを持つ者は最後まで己の命を大事にして、本来の目的を達成しようとするものだ」

「義理人情が理解できない空気が読めない男」とされてきた三成だが、主君への忠義を不器用に貫いた「義の男」だった。

嫌われ方にもいろいろとタイプがある


後世ですこぶる評判が悪い歴史人物たちを並べてみると、嫌われ方にもタイプがあることに気づく。『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』では、「なぜ嫌われているか?」という原因別に章分けを行っている。

今回は「第3章 シッパイしたから嫌われている?」から、石田三成をピックアップした。そのほか「ワガママ」「ズルい」「イメージが悪い」など、嫌われる理由もさまざまだ。

しかし、嫌われ者たちには、ある共通点がある。それは「自分の信念に基づいて行動をした」ということ。これは、実は「嫌われ者」と正反対の、人気のある英雄たちにも言えることだ。

「無能で何もしなかった」と思われがちな人物さえも、よく調べれば、誰かのためを思い、行動を起こしていた。ただ、ちょっとやりすぎてしまったり、目的がうまく伝わらなかったりして、誤解されてしまっただけ。あとから評価されることも多い。

長い人生においては、どうもあまり好きではない人物と、時間をともにしなければならないときも、あるだろう。そんなときには、ぜひ本書で「嫌われ偉人」たちに思いをはせてみてほしい。

苦手な人物の違った面に目を向ける、きっかけの1つになるかもしれない。

(真山 知幸 : 著述家)