ESSEonlineで2024年5月に公開された記事のなかから、ランキングTOP10入りした記事のひとつを紹介します。

画廊と美術館での学芸員経験をもち、現在は美術エッセイストとして活躍中の小笠原洋子さん。高齢者向けの3DK団地でひとり暮らしをしています。年金暮らしの小笠原さんは、自他ともに認める節約家で、1日1000円というルールで生活をしています。そんな小笠原さんの家には、ベッドや枕、キッチンマットといった、多くの人がもっているものをもちません。その理由と、どのように過ごしているのか紹介します。

※記事の初出は2024年5月。年齢を含め内容は執筆時の状況です。

あって当たり前のものをもたず、買わない暮らし

私の家には、普通の家庭にあって当たり前のものをもっていません。

たとえばベッドルームなのにベッドが。枕も敷布団もないのです。また、キッチンでは、シンクの下にマットも敷きません。リビングルームにもマット類は置きませんし、お風呂上がりの足ふきマットもありません。

まず最初に、敷布団がないということ。どうやって眠っているのかと思われるかもしれませんね。じつはこれまで使っていた敷布団を、“うっかり”処分してしまったのが理由ですが、その後、あえて買うことはしませんでした。

かつて実家を片づけたとき、布団が入っている収納から何組かの客布団を発見。廃棄してしまうよりは、自分が先で使えるかもしれないと思い、きれいそうな布団を自宅に運び、押し入れにしまいました。ところがいざ、押し入れから出して敷こうとしてみたところ、掛け布団しかなかったのです。「えぇ〜!?」っと腰が抜け。座り込んで頭を抱えながら、調べもしないでしまい込んだこと悔やみました。

そしてしばし思案の後、やっとひらめきました。掛け布団は敷布団より幅が広い。これを三つ折りにして、敷布団カバーの中に突っ込めば、はい敷布団! おやすみなさ〜い、というわけです。こんなわけで、ないものをあえて買うのではなく、あるもので代用できないか考え、過ごしているのです。

ベッドも、枕ももたず、ありあわせで代用

それから、ベッドも持っていないと申し上げましたが、ベッドルームなのに私が使っているのは、いわゆる“正式ベッド”ではないのです。過去に住んだ家のリビングルームに設置した高床の一部を寝台として使っているのです。かつて住んでいた家で広いフロアに凹凸をつけるためのものでしたが、引っ越しをしたら置き場を失い、今の家では寝床としました。ちょうど身長分あったことが幸いしました。それでベッドを買う必要もなくなったわけです。

そして、枕の代わりに使っているのがタオルです。規制の枕はどれも高すぎて、体に合わず、縦四等分、横三等分に折ったタオルの高さがぴったりだったからです。

高すぎる枕が体に合わないので、こちらがぴったりです。

バスタオルを使わず、フェイスタオルで代用

さて、たった一枚しかないバスタオルを枕にしているので、お風呂上り用タオルのタオルも持っていません。私はお風呂上りには、フェイスタオルで十分なのです。足ふきマットももたないことにして、速乾性を活かせる、別のフェイスタオルを足ふきに専用に使っています。

そういえば、バスタオルがいるかいらないかは、時々話題になりますね。湯上りにふんわり羽織るときの気持よさは大型タオルならではの快感でしょう。そもそも小柄なのでフェイスタオルで十分なのですが、それよりも私がバスタオルを使わない理由は、洗濯が大変だからです。数日分をまとめて洗濯するため、バスタオルはそのなかでもかさばってしまいます。

湯上りタオルは、入浴後であっても微量ながらの皮脂が付着するそうなので、どうしてもこまめな洗濯が必要と言われています。となれば私は自宅では、旅先のホテルで思いっきりバスタオルを使うようには使えず、干す場所も広く占領するバスタオルを風呂上りには使わなくなったのです。

そんなわけで、折り畳み式バスタオルを枕代わりにする場合も、上にもう一枚の枕カバーを掛けて頭を載せ、カバーをよく洗うように習慣づけてます。

照明のシェードはせいろのフタを代用

ある日、寝室のランプシェードの黄ばみが目立つようになったので、そろそろ寿命と判断。天袋の奥で見つけた筒形のシェードに取り換えてみました。でもいざ布団に横になるとまぶしさが気になりました。まだ消灯するまでもないしちょうどいい明るさにならないものかと見渡したところ、棚に愛用の小物入れがありました。

それは、かつて100円で買った小さなせいろです。竹で編んだフタがついていたので、小物入れとして使っています。

小物入れにしていたそのせいろのフタを見たその瞬間、「こいつは筒形シェードの底に当てはまるぞ!」とい直感が当たったではありませんか。ぴったりハマリました。横になって見上げるとフタの網目から光りが降り、寝室にはこれほど適合した照明はあり得ないでしょう。

以上のように私の暮らしは、「ないもの尽くし」の「あり合わせ」で成り立っています。それでも、「ものがない」には、「心が在る」と思っています。