中田英寿氏とペルージャで共闘した元ブラジル代表DFゼ・マリア氏。今年5月に行われたペルージャのイベントに参加【写真:倉石千種】

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ペルージャで共闘のゼ・マリア氏、「フェノメノになっても、ヒデは謙遜心を持っていた」

 日本サッカーを長年牽引してきた中田英寿氏は、1997年7月にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)からイタリア1部(当時)ペルージャに移籍し、輝かしいキャリアを積む欧州での第一歩を刻んだ。

 各国から猛者が集まるペルージャにて、日本の若武者は圧巻のパフォーマンスで地歩を固めたなか、共闘した元ブラジル代表DFのゼ・マリア氏は「ヒデはとにかく頭がいい」と絶賛する。ペルージャでのイベントに参加し、ブラジルでのバカンスからイタリアに戻ったばかりのゼ・マリア氏を直撃し、改めて当時を振り返ってもらうとともに、今後の抱負も語ってもらった。(取材=倉石千種)

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――ペルージャの名物会長として知られたルチアーノ・ガウチ氏を追悼するイベントが5月5日にアッシジのウリーボ・スタジアムで開催されましたが、参加していかがでしたか?

「素晴らしいイベントだった。元同僚、監督や友達に会えて嬉しかったよ」

――中田英寿氏はイベントで不在だったが、どんな選手、人柄だった?

「ヒデは(1996年)アトランタ五輪で対戦して、それから知り合った。1998年のペルージャで、僕は一緒の部屋で最初のルームメイトだった。親切で、優しくて、礼儀正しくて、僕の好きな選手。日本人はみんな礼儀正しいが、ヒデはまさにプロフェッショナル。ヒデはいつも協力してくれた。ピッチ外ではよく冗談も言っていたし、ふざけるけど、ピッチ内でふざけたのは見たことがない。決してピッチ内ではふざけなかったね」

――あなたはDFを主戦場しながらもゲームメイクをしていたし、中田氏にも良いパスを出していたが、中田氏とのコンビ関係はどうでしたか?

「ヒデは、ボールを持った時も持たない時も、よく思考する選手で、理解し合えていた。それにポルトガル語や英語も話せたから、コミュニケーションも全く問題なく、すぐに呼吸が合ったよ」

――現役時代のあなたは中田氏と同様、あまりプライベートなことは話さず、真面目で落ち着いた選手でしたね。

「僕は常に、真面目なプロ選手であり、プロフェッショナルであろうと心掛けてきた。人生を楽しむには、よくオーガナイズし準備する必要があるんだ。ヒデとは今も話をするし、僕たちは友達だ。僕の息子が生まれた時も話をした。ヨーロッパで会っているよ。ペルージャで一緒にプレーしたのは6か月程度で、僕はブラジルに戻ってしまったけど、ヒデはとにかく頭がいいという印象だ。サッカーの世界では、あまりヒデのような人は多くは見つからない」

――「多くは見つからない」というのは?

「ヒデは礼儀正しくて、プロフェッショナル。そして真面目。僕は好きだ。フェノメノ(現象的・怪物/凄い選手)になっても、常にヒデは慎み深く、謙遜心を持っていた。それは難しいことなんだ」

選手としても中田氏は「完璧だった」 将来は日本行きも視野「日本は成長している」

――サッカー選手としての中田氏の評価は?

「ヒデはフィジカルも技術もとても優れていた。完璧な選手だった。セルフケアが凄かったね。食べ物にもよく気をつけて、とても強い身体を作っていた。日本人は訓練の行き届いた規律に従う生活習慣を持っているが、ヒデもそうだった」

――イタリアサッカーは当時世界一と言われていたが、現在の状況をどう見ていますか?

「当時は美しいサッカーの時代だった。僕はレアル・マドリードに行く可能性もあったが、イタリアのチームからオファーが来たら、ノーと答えるのは難しかった。ACミラン、インテル、ユベントス、ASローマ、ラツィオ、パルマ、フィオレンティーナ……セリエAには素晴らしい選手が揃っていた。今ではイギリスやスペイン、ドイツも強くなった。当時イタリアはすごく強かったし、技術水準も高かった。今、イタリアのサッカーはアスリート的な側面で強くなっている。サッカー自体が当時とは違うけど、ヒデがいたペルージャは強かった。ミラン・ラパイッチ(元クロアチア代表MF)、マルコ・マテラッツィ(元イタリア代表DF)などビッグプレーヤーもいたからね」

――今、あなたはパルマのユース部門で技術スタッフとして貢献しているが、今後の抱負は?

「まずはパルマのAチームの監督になりたいし、将来は日本で監督をしたい。日本のサッカーは向上している。日本代表もとても強くなった。日本サッカーのクオリティーを視野に入れなかったことはない。当時に比べて、日本のサッカーはすごく成長していると思う」(倉石千種 / Chigusa Kuraishi)