「白鵬処分」にみる閉鎖性と不透明さ。「叱られ体質」の相撲協会を変革する「第二の笠置山」は、きっといる!

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若手力士の活躍で盛り上がる一方、宮城野部屋の事実上の「閉鎖」や、二所ノ関部屋の「アルハラ疑惑」など相変わらず問題も絶えない相撲界。時代に翻弄されながら愛され続ける大相撲の近代史を描いた『叱られ、愛され、大相撲! 「国技」と「興行」の100年史』(講談社選書メチエ)の著者、胎中千鶴氏は、「いま相撲界に必要なのは〈笠置山〉のような人材だ」という。昭和前期のインテリ力士「笠置山」とは、いったい何者なのか――。

白鵬問題」厳しい処分はなぜ?

5月場所の幕が開いたばかりの大相撲。すでに4月時点でチケット完売という人気ぶりだが、一方で最近また角界のスキャンダルが報じられている。

今年2月、宮城野親方(元横綱・白鵬)が弟子の暴力問題の監督責任などを問われて日本相撲協会から懲戒処分を受け、宮城野部屋は事実上の閉鎖となった。2月には二所ノ関部屋の幕内・大の里が同じ部屋の20歳未満の力士と酒を飲んだことが発覚、二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)とともに厳重注意を受けた。

とりわけ宮城野部屋の問題は世間の注目を浴びた。白鵬は史上最多45回の優勝経験をもつ稀代の大横綱。引退後は子ども相撲大会「白鵬杯」の主催などに尽力している。弟子の育成にも熱心で、指導者としても期待を集める特別な存在だ。

宮城野部屋の元幕内・北青鵬が後輩力士に暴行を繰り返したとされるこの事件は、相撲部屋の閉鎖性や協会のガバナンス不全をあらわすもので、深刻な案件であることはいうまでもない。一方で、部屋の唐突な閉鎖は他の親方が起こした不祥事とくらべても厳しすぎる印象があるため、世間の憶測を呼び、相撲ファンからも批判の声があがっている。

それにしても角界の不祥事が取りざたされるたびに痛感するのは、相撲協会の情報開示力の欠如である。宮城野親方はどういう基準でこのような処分を受けたのか、前例との整合性はどの点にあるのか、そうした合理的な説明が一切ないのだ。

そのためメディアや相撲ファンは協会周辺から流れてくる確証のない噂に振り回される。ネット記事によく登場する「ある親方」「協会関係者」は実在するのかどうかさえ怪しいが、ファンとしてはとにかくこうした周辺情報を収集するしかなく、スキャンダルが起きるたびにイライラがつのるのである。

相撲協会「叱られ体質」の100年

実はこうした日本相撲協会の閉鎖性や不透明な運営手法は今に始まったことではない。筆者は拙著『叱られ、愛され、大相撲!』(講談社選書メチエ)で、明治期以降から現在までの大相撲100年史を描いた。史料をめくりながら痛感したのは、「大相撲はこの100年、ずっと世の中から叱られ続けている」ということである。

明治期の大相撲は「文明開化」の波に乗り遅れ、近代化・西欧化の中で「裸踊り」「国辱的催物」とまで揶揄された。しかし、1900年代初頭に常陸山や梅ケ谷などの名力士が次々登場して人気が復活、さらに裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が大の相撲マニアだったことに助けられ、1925年には「国技タル相撲道ノ維持興隆」を目的とする財団法人「大日本相撲協会」の設立にこぎつけた。

実のところ、相撲は何かの法律で「国技」と規定されているわけではない。あくまで協会が設立時にそう謳っただけで、それを世の中がなんとなく共有しているにすぎない。とはいえ「国技」という看板を掲げたことで、大相撲はいわば国家のお墨付き(のようなもの)を手に入れることとなった。

その後も相撲協会は不祥事を起こすたびに迷走したが、いつも事を曖昧に片付け、世間に叱られ、反省したフリをしてやり過ごしてきた。それでもなんとかなったのは、「国技」という大看板を独り占めしてきたからである。

「国技(のようなもの)」である以上、大相撲は時の権力にしっかり寄り添う。戦時期には「興行第一主義ではけしからん」という批判をかわすために「相撲道」の精神性を強調、戦地への皇軍慰問をさかんにおこなった。

ところが戦後のGHQによる占領政策で剣道・柔道などの武道が厳しく規制されると態度を一変し、理事長みずから「相撲はスポーツ」と断言して降りかかる火の粉を払った。それどころか、進駐軍の「スモウが見たい」という要望に応じていそいそと国技館を修繕、土俵の大きさを30センチほど広げるサービスまでして将兵らを迎えた。とにかく為政者に嫌われたくないのだ。

こうした彼らの場当たり的なやりくり手法には驚かされるが、江戸期から今に至るまで大相撲の本質は「興行団体」であるという点を踏まえれば、ある意味納得がいく。

興行は、国技館のような大きな「ホーム」をもち、安定した客の入りを確保することで運営が維持される。身内の不祥事が世間に知られれば、すぐに客足が遠のいて命取りとなる。「これ以上バレないこと」。今も昔も協会にとってはこれが至上命令なのである。

しかし不思議なもので、この100年間、大相撲はどんなに低迷してもスター力士の登場や好景気などを機に必ず活気を取り戻してきた。少し前まで怒り心頭に発していたはずのファンも結局は帰って来る。叩かれてもつまずいてもいつのまにか復活して人々に愛される大相撲。それほど魅力的なエンタテイメントであるともいえるだろう。

とはいえ、いつまでも「叱られ体質」でいいわけがないし、不祥事のたびにイライラするのはファンとしても疲れる。もはや協会に企業並みのガバナンスを望むのは無理なのだろうか。組織の閉鎖性を打ち破るには、外部の「識者」などではなく、親方をはじめとする協会員自身の自覚と、それに基づく理性的な言動が必要不可欠なのだが、それは困難な道のりなのか。

忘れられたインテリ名力士・笠置山

いや、希望を捨ててはいけない。なぜなら、かつて相撲協会には、優れた知性を駆使して協会改革を志向し、世間とのパイプ役を務めた人材がいたからだ。第4代理事長武蔵川喜偉に「インテリジェンスを備えた」年寄は「彼をもって先駆」(『武蔵川回顧録』ベースボール・マガジン社、1974年) とまで言わしめたその人物とは、笠置山勝一(本名・仲村勘治、1911-1971年)である。今こそ私たちはこの人を思い出すべきだろう。

笠置山は1932年に初土俵、1940年代にかけて幕内で活躍した。最高位は関脇。当時としては珍しい大卒、早稲田大出身の「インテリ力士」で、出羽海部屋の「智将」とも呼ばれた。同門の安藝ノ海が横綱双葉山の連勝を止めた際に参謀役を務めたことでも知られる。実はさきほど述べた進駐軍を楽しませるための土俵拡大も、笠置山が調整力を発揮して内部の意見をとりまとめたといわれている。

1945年に引退して年寄「秀ノ山」を襲名、戦後は協会理事として渉外や財務を担当し、60歳で亡くなるまで職務を全うした。

文才に恵まれた彼は、現役時代から講演や執筆活動を精力的におこない、評論やエッセイ、小説、相撲指導書など多くの著作を残した。年寄襲名後の1946年から没年までの約25年間をみても、著書6冊を刊行、雑誌掲載原稿はおよそ270本余に及んでいる。

秀ノ山(笠置山)勝一は文章がうまいだけでなく、日々の出来事を詳細に書き留める記録マニアだった。相撲評論では、巡業や本場所の記録など自前のデータブックに基づき筆を進めている。そのため内容は客観的で整理されており、簡明で読みやすい。

驚くのは、現役理事であるにもかかわらず、協会が抱える問題点についてたびたび言及していたことだ。1950年前後に発表した小説では、相撲部屋の前近代的な慣習に苦しむ「近代青年」としての力士や、地方巡業で横行する八百長相撲に立ち向かう若い年寄を描いた。

1950年代末から約2年間雑誌に連載したエッセイでは、戦後の協会が新国技館建設や制度改革を進めた経緯を詳細に綴っている。彼に言わせれば、戦後約10年の「相撲史の出足」は「あまりにも悲惨」で、「相撲の伝統にも鋭い批判が加えられ」たという。

その後、1950年代後半になると相撲協会は組織改革に着手、茶屋制度の廃止、力士の月給制度の採用、行司や年寄の定年制導入などを実施した。これらの改革には「種々の批判もあったが、国民の目が国技相撲に向けられたことは事実」(秀ノ山勝一「戦後回想録」『相撲』10巻6号、1961年) であると秀ノ山は述べている。

当事者として常に渦中に身を置いていたのだから、秀ノ山にも言えないことは山ほどあっただろう。それにしても、協会運営に求められるのは「財政的確立」と「各人の近代的感覚」と明言し、組織の内情をできる限り世間に伝えようとした親方は、あとにも先にも彼一人である。秀ノ山をここまで駆り立てたものとは何だったのか。

「知らそうとしなかったのであった」

おそらくそれは戦時期の言論活動と関係がある。彼の現役時代は1930年代後半から40年代前半。当時の相撲協会は「国技」としての存在感を喧伝するために「武士道」になぞらえた「相撲道」を強調し、国家ナショナリズムに迎合する言説を繰り返したが、それらを実際に言語化し、メディアを通じて書いたり話したりしたのは、若きインテリ力士笠置山であった。

そもそも「お国のための相撲」など存在するのか。今となれば滑稽な議論だが、当時の笠置山にスポークスマンの役割を断るすべはなく、空虚な言葉を並べてはそれらしく答えるしかなかった。後年彼は「真に相撲の良さ、体育的価値を認識しての普及ではなかった」(秀ノ山勝一「力士生活十四年」『相撲』11巻4-7号、1946年)と、当時の協会の姿勢をばっさり切り捨てている。

奇しくも日本の敗戦と自身の引退が重なった笠置山は、1946年秋の断髪式を前に次のように述べている。

「日本の縮図でもあるような相撲協会も、ここに民主化しなければならぬ余儀なき時代になった。(中略)只指導者の問題だけが残されているのである」(秀ノ山勝一「観たところ考えたこと」『相撲』11巻4-7号、1946年)。

ここでいう「指導者」とは、相撲だけでなく協会の「民主化」「近代化」を牽引する人材を指している。戦時期の自分に忸怩たる思いがある彼の、再出発に向けた決意表明とみてもいいだろう。

また、戦時期の日本社会では、前人未踏の連勝記録を打ち立てた横綱双葉山に人々が熱狂、空前の相撲ブームとなった。後年相撲協会はこれを「国技全盛時代」と称したほどだが、この点についても秀ノ山は否定的である。当時の相撲人気は、人々が日中戦争の拡大と双葉山の強さを重ね合わせて作り出したものだった。観客は土俵上の華やかさに目を奪われ「古い長い伝統の根本的改革には触れなかった」という。でもそれは無理もない、と彼は続ける。「知らないのであるし、知らそうとしなかったのであった」(前掲「力士生活十四年」)。

秀ノ山のこの言葉はまさに現代の大相撲にも通じるものではないだろうか。旧弊にまみれた角界にファンはそのつど腹を立てるが、人気力士が登場すれば怒りの矛先が鈍り、つい土俵に気持ちが移ってしまう。それは世間が協会のありようを正確に「知らない」からでもあるし、「知らそう」としない協会関係者の責任でもある。秀ノ山の戦後の言論活動は、まさに自分の力で「知らそう」という社会的使命によるものだったことがわかるだろう。

「第二の笠置山」を許容できるか?

では、現在の日本相撲協会には「知らそう」とする意欲と能力をもつ人材はいないのだろうか。

おそらく心ある相撲ファンなら、期待を込めて「きっといるはず」と答えるだろう。

限られた情報でしか判断できないが、たとえばNHKの大相撲中継に解説者として登場する若手親方のなかには、客観的な視点をもち、的確かつ平易な表現で相撲を語れる人がいる。また、引退後大学院に通い、大相撲やそこに身を置く自身のありかたをいったん相対化しようと奮闘した親方もいる。

筆者には、この親方たちが世間との「共通言語」を獲得しているようにみえる。彼らが発する「ことば」は、相撲経験を土台にして培われたものだが、データや分析の裏付けがあり、合理的な文脈で語られる。弟子や内輪の人間だけにしか通用しない閉じた「ことば」ではないから、ファンのみならず相撲を知らない人にもクリアに伝わるのだ。

そうした共通言語を用いて、相撲だけでなくガバナンスやコンプライアンスにかかわる課題や情報を発信すれば、人々がそれを受け止め、真摯な議論を展開する機会も増えるだろう。何かがバレるたびに一方的に叱られてきた協会が、世間とフラットに向き合えるチャンスかもしれない。

もちろん、今の時代は「ことば」だけでなく、SNS上の画像などもまた「知らそう」とするものであろう。しかし何より大事なのは、知性に裏打ちされた自分たちの「ことば」が、社会と角界をつなぐ重要なツールであると協会員が認識することだ。外部の「識者」やメディアにそれを代弁させてはいけないし、イベント企画や物販の宣伝をSNSで展開することともまったく意味合いが異なるのである。

だが、果たして現在の協会幹部たちは、大相撲を世間に「知らそう」とする有能な人材を許容できるだろうか。「生意気な」などと組織内で排除の力がはたらくようであれば、公益財団法人日本相撲協会は永遠に叱られ続けるだろう。

仏の顔も100年まで。新たな笠置山の登場を願うばかりである。

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