応接スペースで辻盛英一監督と談笑していると、ふと時計に目をやった辻盛監督が「誰も何も聞きにこんな......」とつぶやいた。この日は予定されていた練習試合が雨で中止になり、選手たちは巨大な屋根のついた半野外練習場で練習することになっていた。だが、監督が何も指示を出さなくても、練習は滞りなく始まっていた。

 辻盛監督は苦笑しながら、こう続けた。

「野球も会社も一緒ですね。上の者が何も言わなくても、みんなが勝手に動いてくれるほうがよっぽどいいですから」


経営者でありながら大阪学院大高の指揮を執る辻盛英一監督  photo by Kikuchi Takahiro

【伝説の営業マンが高校野球監督に】

 野球と会社経営を結びつけて語る高校野球監督は珍しくない。だが、辻盛監督ほど説得力のある監督はいないだろう。辻盛監督は大手保険会社勤務時代には13年連続ナンバーワンの売上を達成した、伝説の営業マン。現在は会社を経営しており、『営業は自分の「特別」を売りなさい』(あさ出版)などのビジネス書を出版。サラリーマンの間で読み継がれるロングセラーになっている。

 その一方で、辻盛監督には野球人の顔がある。2010年から2022年まで大阪市立大(現・大阪公立大)の監督を務め、2017年秋には同大を24年ぶりの優勝に導いた。2023年3月からは大阪学院大高の監督を務めている。

 平日は15時まで会社で働き、16時から20時までは野球部の指導。その後、夜にオンラインセミナーを実施することもある。高校の春休み中は朝からグラウンドで指導にあたり、鹿児島への遠征にも帯同した。

 カリスマビジネスマンと高校野球監督の二足のわらじ。にわかには想像できない生活だが、辻盛監督は温和な笑顔で「おかげさまで高校野球の監督になってから、業績は最高を更新しています」と語った。

 高校野球の面でも、大阪学院大高の注目度は高まっている。スカウトが熱視線を送る超高校級遊撃手の今坂幸暉、パワフルな打撃を武器にする捕手の志水那優を擁して、上位進出を狙える戦力が整いつつある。

 大阪学院大高は元プロ野球選手・江夏豊氏(元阪神ほか)の母校として知られる。1996年春にセンバツ出場、2018年夏に北大阪大会準優勝と躍進し、2022年にはクッション性に優れた人工芝を使用した野球場も完成。雨の日でも技術練習ができる半野外練習場、ウエイトトレーニング施設も充実しており、学校をあげて野球部を強化しようという機運が高まっている。

 2022年に辻盛監督が大学野球部監督を退任。大阪学院大関係者からのオファーを受け、野球部にかかわるようになった。

【教育のキモは教えないこと】

 だが、辻盛監督が携わったタイミングは監督が交代するなど、チームとして不安定な時期だった。辻盛監督は当時を振り返る。

「グラウンドのネットにもたれて、ゲームして遊んでいるやつがいるんです。ウォーミングアップもずっとおしゃべりしていて、なかなか練習が始まらない。ウエイトトレーニングをするように指示しても、見に行ったらみんなゲームで遊んでいました」

 だが、辻盛監督が声を荒らげて選手を叱責することはなかった。雑談に夢中になる選手たちに「なんの話をしてるん?」と話しかけ、選手の話を聞いたうえで「練習中にそんな話をしても野球はうまくならんと思うけどな」と語りかける。辻盛監督は「分厚い氷を溶かしていくようだった」と振り返る。

「今の選手は頭がいい。あちこちから情報を仕入れて、考えています。だから『この監督はバカやな』と値踏みをしてくるわけです。指導者と選手は上下関係ではなく、指導者が選手のサポーターになっていくと選手は話を聞いてくれるようになります。ウチは指導者がヒントを出して、選手が解決していくスタイルです」

 辻盛監督は「採用と教育が大事なのは、野球も会社も同じです」と語る。それでは、教育のキモとは何か。そう尋ねると、辻盛監督は「こちらから教えないことです」と答えた。

「こちらから何が悪いかを言えば、考えなくなりますから。だから質問がすべて。『なぜうまくいかなかったのか?』を質問していって、自分で問題点を認識させる。こちらが質問して、考えられるようになることが大切です」

 辻盛監督の経営する会社には、社員のノルマがないという。数字が上がらない社員に対して、辻盛監督は「どうして数字が上がらないと思う?」と質問を繰り出す。社員は質問に答えるなかで、自分自身の問題点に気づくようになる。辻盛監督は言う。

「人のせいにしているうちは伸びませんが、自分で考えて『自分のせいだ』と気づくと急激に考え始める。それは営業マンも野球選手も一緒です。高校生は1〜2カ月で化けるから、面白いですよね」

【チーム一の問題児を主将に任命】

 辻盛監督の就任以降、スタッフも増えている。大学監督時代もコーチを依頼した福井耀介コーチなど、多い日になると10名近い指導スタッフがグラウンドに立つ。なかでも辻盛監督の大学監督時代の教え子でもある平田達也コーチは、動作解析を担当する変わり種だ。動作解析担当コーチを置くことについて、辻盛監督は「すべてが可視化されて、スランプ時に復習ができるから再現性が高められる」と効用を語った。

 環境が変わっていくと、選手たちの目の色も変わってきた。そんななか、かたくなに心を閉ざす部員がひとりだけいた。中心選手の今坂である。学校内でもなかば問題児扱いされる今坂を辻盛監督は呼び出した。

「これからどうなりたいねん?」

「本当はプロに行きたかったっすけど......」

 今坂の言葉は過去形になっていた。辻盛監督が「『行きたかった』って、どういう意味なん?」と聞くと、今坂は「もう無理でしょ」と返した。

「無理ちゃうよ。おまえが本気でやるんやったら、絶対にプロに入れたるわ」

 そう言う辻盛監督に対し、今坂はなおも「絶対はないでしょ」と反抗した。「おまえが本気で1週間やるなら、プロのスカウトを呼んでくるから」と辻盛監督は今坂と約束を結んだ。

 すると、今坂は1週間にわたって別人のように野球に対して前のめりに取り組むようになった。その姿を見て、辻盛監督は「今坂をキャプテンにしよう」と決めた。

 それまでの練習態度を見てきた周囲は大反対した。だが、辻盛監督は当時2年生だった今坂に「新チームからおまえをキャプテンにするから。おまえが本気で甲子園優勝させようと思ったら、先輩にも遠慮なく言ったらええ。おまえの好きなようにチームをつくれよ」と伝えている。辻盛監督は「ここで完全にスイッチが入ったと思う」と振り返る。

「今坂はもともとIQの高い子だと思うんです。だからこそ、先が見えてしまって『このままではダメだ』とあきらめかけていたのでしょう。子どもたちのやる気を、大人たちが奪ってしまっていただけなんです」

 今坂は今や、NPB12球団のスカウトが注目するほどのドラフト候補に成長している。そして、大阪学院大高も今や強豪ひしめく大阪で甲子園を狙えるチームになりつつある。

 辻盛監督にどうしても聞きたいことがあった。ビジネスマンとして成功し、経営者として順風満帆の日々を過ごしながら、なぜ高校野球監督をするのか、と。辻盛監督は「めちゃくちゃ難しい質問ですね......」としばらく考え込んだ。

「野球が好き、というのは理由のひとつです。あとは後悔しているところがあるのかもしれません」

 辻盛監督は大阪市立大での選手時代、企業チームからの誘いを受けていた。だが、辻盛監督は野球への道を選ばずに大企業へ一般就職した。その後、高額の収入を得ても、辻盛監督のなかで「やれるところまで野球をやればよかった......」という未練がくすぶり続けた。母校の大学監督を務めたのも、「選手に最後までやりきってほしい」という思いを伝えたかったからだ。

「今の子どもたちは安定を求めるところがあって、賢い子ほど安易に就職の道を選びます。でも、私は自分と同じ後悔をしてほしくない。最後まで野球をやりきってほしいし、やりきる道を教えたいんです」

 一流ビジネスマン兼高校野球監督は、今後どんなチームをつくり上げるのか。大阪桐蔭と履正社の2強時代が続く大阪に新風が吹きそうな予感がする。