2024年3月末、ソウル市内の教会で講演する尹錫悦大統領(写真・Yonhap News Agency/共同通信イメージズ)

民心。

日本語でも使われなくはない言葉だが、韓国では選挙を迎えると文字通り毎日、テレビなどで繰り返し見聞きすることとなる。民心=有権者たちからの支持を少しでも多く集めるべく、遊説で各候補のボルテージはいっそう高まる。

2024年4月10日投開票の韓国総選挙を前に、4月5日と6日に期日前投票が実施された。これに合わせて新たな世論調査の発表は選挙終了まで禁じられるため、土壇場での民心は把握しにくくなる。

ただ、これまで報じられてきた各種世論調査をみる限り、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領を支える保守系与党「国民の力」は劣勢を強いられている。

改選前でも300議席中「国民の力」は113議席で少数なのだが、それがさらに減り、進歩系最大野党「共に民主党」を中心とした野党側が200議席にも達する圧勝をするのではないか、という見方も飛び交う。

与党・刺客を送り込んでも…

「国民の力」は知名度が高い候補をあえて「共に民主党」が伝統的に強い選挙区に「刺客」として送り込むなどしているが、苦戦を強いられるケースが目立つ。


「刺客」となって別の選挙区で立候補した、朴振前外相(写真・筆者撮影)

例えば、日韓関係改善の立役者の1人、朴振(パク・チン)前外相はこれまでの地盤であったソウルの江南から漢江の北にある西大門区に移って出馬した。

彼が選挙区内の大学を訪れた様子を間近で見ていたが、若者が集まってくるでもなく、自ら学生が運営する売店で飲み物を注文し、しばし歓談する程度であった。

陣営の広報カメラマンは、「外相まで務めたといっても、これまで縁のなかった選挙区に移ると実働部隊はいないも同然なのですよ」と声を潜めた。

朴振前外相の遊説に盛り上がりが欠ける様子からも野党側が大勝する可能性は垣間見えたが、一方で、ずっと抱いてきた疑問もある。

尹錫悦政権の支持率は、2022年5月に発足以来30%台という低空飛行を続けている。総選挙で与党が苦しいのも尹政権の評判が悪いことが最大の理由なわけだが、では、尹政権に大きな失政があったのかというと、ないのだ。なぜ、そこまで民心が政権から離れっぱなしなのか、腑に落ちないのだ。

もちろん、「尹政権は『検察独裁』だ!」と声を荒らげる進歩(革新)系野党の熱心な支持者たちは、失政続きだと主張する。物価高や成長率の低下、さらには大統領の金建希(キム・ゴニ)夫人をめぐる複数の騒動(例えば高級バッグを無償で受け取る場面が隠し撮りされた)まで、あらゆる問題で尹大統領の責任を問う。

政策のせいで人気を落としたわけでもなく…

だが、中道や保守の立場の人たちに話を聴くかぎり、夫人のスキャンダルはともかく、経済の課題は中長期の流れもあり、尹政権に大きな失政はないということにはおしなべて同意する。

私が「日本では、自民党の裏金問題が発覚したことで岸田文雄政権の支持率は急落、と因果関係がわかりやすい」と言うと、韓国の人たちは「そうした明確な大失態は起きていません。確かに、なぜ尹政権が不人気なのかを外国の人に説明するのは難しいですね……」と苦笑する。

そして、たいてい、しばし考え込んだのちに「政策がどうこうというより、彼(大統領)のスタイルというか、態度というか、物言いというか……。何を考えているのかわからないことが多すぎるんですよ」という具合に言葉を紡ぐ。

具体例としてソウル在住の30代男性があげたのが、いまだに続く医者たちの職場放棄だ。

「自分も初めは医学部の定員増加に反対する医療界に『なんて自己中心的な』と腹が立ちましたよ。でも、1カ月以上も各地の病院で手術が延期され続ける事態になって、むしろ政府が根回しもなく、一方的に医学部拡大を打ち出したことのほうが問題だと考えるようになりました」

とりわけ失望したのは、この問題で尹大統領が4月1日に発表した談話であったという。大統領は、医療界が「より妥当な(医者不足対策の)案を持ってくれば、いくらでも議論は可能」とは述べたものの、全体としては「医学部増員の政府方針は国民のため」と自身の正当性を強調した。

それなので、ほとんどの韓国メディアが「尹大統領は医学部定員増加の必要性を改めて強調した」というトーンで報じた。

ところが、談話が発表されたあと、改めて大統領室の高官が記者たちの前に姿をみせて「いやいやいや、強硬姿勢ということではない。大統領としては医療界と話し合う意思を初めて明らかにしたもの」と補足説明をした。それを受けて、各メディアは「大統領が医療界と対話へ」と軌道修正することとなった。

「それなら大統領がストレートにそう言えば済む話じゃないですか。記者も国民も、誰もあの談話の内容では『対話に舵を切った』とは受け止めなかったのですよ。一事が万事、尹大統領はそうなんです。自分が正しいと思ったら突き進むだけで、国民にちゃんと説明をしない」(先の男性)

国民とのコミュニケーションが、とにかく下手だというのだ。

「長ネギ事件」でさらに人気落とす

そうした一例として韓国のメディアを賑わせているのは、「長ネギ事件」だ。3月、物価高への対応を検討するための現場視察ということで尹大統領がスーパーを訪れた際、長ネギが1束875ウォン(日本円で約98円)で売られていた。彼はそれを手に取って「そう悪くない価格なのではないか」と述べたのだ。

ところが、このとき大統領が手に取った長ネギは、複数の割引制度の対象となっていたもの。一般的には1束3000ウォンから4000ウォンが相場となっていたのだ。

特別に安い長ネギを手にして満足そうな表情の尹大統領の姿が報じられると、国民は「大統領は庶民の暮らしがまるでわかっていない」「同行していた政府当局者たちは『いや、これは例外的に安いだけだ』と説明できたはずなのに大統領に忖度して口をつぐんだ、の2点に対して憤慨した。

しかも、韓国語で長ネギは「テパ」と発音するが、「大破」も韓国語で同じ発音であるため、今回の総選挙戦期間中、尹大統領を「大破」しようと呼びかけるキーアイテムとして、長ネギが風刺画などの表現であちこちに登場している。

尹大統領のコミュニケーション不全の原因は、検事一筋で政治経験ゼロのまま大統領になったゆえの限界だとみる向きが強い。

2017年の大統領選挙における保守陣営の大統領候補で、現在は大邱市長の洪準杓(ホン・ジュンピョ)氏は、SNSで今回の総選挙では「政治的な視点と法曹的な視点の違い」が尹政権と与党への逆風につながっているとして、こう読み解いた。

「法曹界では証拠をもとに有罪か無罪を争うだけだが、政界では有罪無罪を超えて国民感情が優先される」

「政治は法曹界とは違う」

実は洪準杓氏もかつては検事であった。同じ検事出身の者からみて、尹大統領はまるで今も検事として法廷で有罪を立証するかのように政策の必要性を一方的に述べるだけで、国民感情に訴える姿勢に欠けるというわけだ。

対照的に、さまざまな罪で起訴されても今回の選挙で自ら新党「祖国革新党」を設立した者国(チョ・グク)氏や、最大野党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表が、まるで起訴は不問にされたかのように一定の支持を集めるのは、ひとえに国民感情を味方につけているのだ、と。

もう1つ、尹政権が国民とのコミュニケーションに問題を抱えている要因があると指摘するのは、韓国のメディア関係者だ。今の大統領室の高官スタッフの多くは、かつて李明博(イ・ミョンバク)政権(2008年〜2013年)のときに若手事務官だったという。

李明博政権から15年ほども経ったのに、政権の運営スタイル、とりわけ広報が当時と同じで、記者から苦言を呈されても「いや、MB(李明博)のときもこうだったけど?」と反応されることが目立つという。

李明博政権の後を継いだ朴槿恵(パク・クネ)大統領は、記者会見を極端に嫌って国民と対話をしない「不通」ぶりが強く批判され、それが弾劾の下地となった。同じ轍は踏まないとばかりに次の文在寅(ムン・ジェイン)政権(革新派)は過剰なまでに国民との意見交換や情報公開を重視し、国民は「風通しがよくなった」と歓迎したのだ。

しかし、保守派は進歩(革新)派のやることを小バカにするという悪い癖が出て、今の尹政権は時計の針を李明博政権の頃にまで巻き戻したかのように、再び国民との意思疎通を軽視しているのだという。

文政権の5年間で「ソフトで国民の話に耳を傾ける大統領」がスタンダードになったことを、尹大統領とその周囲にいる人たちは理解していないようだ。


「今回の総選挙は本当の韓日戦」とリュックに書き付けた、新党「祖国革新党」の支持者(写真・筆者撮影)

このように尹大統領から民心が離れているのは、日韓関係にとっては地雷のようなものだ。こちらの写真は、者国氏の支持者がリュックにつけていたメッセージ。

4月10日の投票を呼びかけたうえで、「今回の総選挙は本当の韓日戦」「親日売国政権を『大破』しよう」と書かれている。「大破」は、文字ではなく、例の長ネギだ。

なかなか激しい言葉に私も身構えてしまったが、尹大統領の英断といえる徴用工訴訟問題の解決策についても多くの国民にその意義が伝わっていないことを端的に示す。

対日・対北朝鮮政策でも反感募る

もう1つ、韓国メディアで大きなイシューにはなっていないものの、今回の総選挙で注目に値するのは、「共に民主党」の李在明代表が北朝鮮と「近すぎる」人物たちに当選への道を用意したことだ。

具体的には、比例代表用のミニ政党である「共に民主連合」に、左派少数政党である「進歩党」や「新進歩連合」などを合流させ、それぞれ3人ずつ、当選圏内である比例名簿上位に載せたのだ。

とりわけ「進歩党」は北朝鮮からの指令を受けて韓国のインフラ施設を破壊する計画を練っていたとして憲法裁判所から解散を命じられたかつての極左政党「統合進歩党」の流れを汲む。

与党「国民の力」はこうした動きに「従北(親北朝鮮)勢力が国防省の重要な資料に接して、北朝鮮に流す恐れがある」と声高に警戒する。北のスパイではないかというわけだ。これに対して「共に民主党」側は「時代錯誤のレッテル貼り」と反論する。

スパイ云々はさておき、「進歩党」や「新進歩連合」から当選しそうな候補たちの過去の発言をチェックすると、「北朝鮮の核・ミサイル開発が加速するのは尹政権の強硬姿勢のせいだ」などと主張をして北朝鮮を擁護する色合いが濃いのは確かだ。

総選挙を経て、韓国国会、ひいては社会全体で北朝鮮をめぐる理念対立がさらに激しくなりそうな雲行きだ。

(池畑 修平 : ジャーナリスト、一般財団法人アジア・ユーラシア総合研究所理事)