なんでタイヤは「〜本」で数えるの? “棒状”じゃないのに… 言語学者も悩ませた「タイヤの数え方」の秘密とは!
「タイヤの数え方」は言語学者をも悩ませる
「〜個」や「〜匹」あるいは「〜人」など、おもに数字と組み合わせてそのものの性質を示す言葉を「助数詞」といいます。
日本語は特に助数詞の多い言語として知られており、動物だけをとってみても「〜匹」「〜頭」「〜羽」「〜尾」など、その種類は多岐にわたります。
そんななか、多くのものに用いられる助数詞のひとつといえるのが「〜本」。
【画像】「これはアウトー!!」 これが交換すべき「危険なタイヤ」です(19枚)
一般的に細長いものに対して用いられると説明される「〜本」ですが、細長いものであればすべて「〜本」が用いられるかというと、実はそうではありません。
たとえば、スマートフォンや携帯電話のほとんどは細長いにもかかわらず「〜本」で数えられることはまずありません。
その一方で、細長いもの以外にも「〜本」が用いられているケースも珍しくありません。
その代表格が「タイヤ」です。
タイヤはホイールとともに車輪を構成するものである関係上、ほぼ確実に円形をしていますが、自動車用品店などでは「〜本」と数えられるのが一般的。
では、なぜタイヤは細長い形状ではないにもかかわらず「〜本」で数えられるのでしょうか?
この点について、「中心部の穴が輪っかの断面よりも大きいものを『〜本』と数える」と説明している例をインターネット上などで見ることができます。
たしかに、タイヤやフラフープは「〜本」で数えられるのに対し、中心部の穴が輪っかの断面よりも小さいことが多いドーナツは「〜本」と数えることがないことを考えると、この説明は妥当なようにも思えます。
ただ、これはあくまでタイヤやフラフープといった局所的な例に対して説明を与えたにすぎず、「〜本」という助数詞全体の意味を解き明かすものとは言えません。
たとえば、指輪はタイヤと近い形状であるにもかかわらず、「〜本」で数えられることはまずありません。
「〜本」という助数詞は、言語学の世界でもしばしば研究の対象となってきましたが、そうした研究の多くで、タイヤは例外的な存在として扱われてきたのが実情です。
「タイヤ」と「歯」は同じだった!?
一方、言語学者の濱野寛子氏と李在鎬氏による研究では、タイヤは腕や足(脚)、歯などと同じ考え方によって「〜本」と数えられた可能性が示されています。
両氏は、新聞で実際に用いられた膨大な言語データを解析し、「〜本」には物理的な形状以外にも多くの要素がからみあっていることを指摘しています。
そのうえで、そうした要素のうちのひとつとして「有情物(の一部分)」「握れる」「主語がコントロール可能な対象」の条件を満たすものには「〜本」が用いられる傾向があり、腕や足(脚)や歯、そしてタイヤなどがそこに含まれるとしています。
ただ、「有情物」が「生物」とほぼ同じ意味を持っていることを考えると、タイヤをここに含めるのは適当ではないようにも思います。
しかし、近年の言語学界では「メタファー(比喩)」によって言葉の意味が拡張していくという考え方が主流となっており、この点についてもそうした考え方で説明できる可能性があります。
たとえば、「〜本」はもともと木の棒のような「物理的に細長いもの」に対して用いられていましたが、そこから「握れる」という要素が加わったことで腕や足にも用いられるようになり、さらにそこから「有情物」という要素が加わったことで歯にも用いられるようになったと説明できます。
そして、その「有情物」という部分がさらに拡張されたことで、タイヤも「〜本」で数えられるようになったのではないかと考えられるのです。
言い方を変えれば、日本語ではクルマを擬似的な生物としてとらえ、その一部分であるタイヤも歯のように捉えているといえるでしょう。
たしかに、クルマは無生物であるにもかかわらず「愛車」と表現されることもあるなど、古くから親愛の対象となってきました。
そんなクルマにとって、タイヤは言うまでもなく必要不可欠な存在です。
一方、クルマを構成する部品のなかでは比較的取り外しやすいという側面もあります。
歯も、私たちが生きるためにはなくてはならないものでありつつ、取り外れる構造であるという点でタイヤと似た性質を持っています。
これらを総合すると、タイヤを「〜本」と呼ぶ最大の理由はその物理的な形状にあるのではなく、日本語がクルマを生物のようにとらえているためであると考えることができそうです。
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タイヤと同様に、ホイールも「〜本」と数えることが一般的です。
ホイールは明らかに「物理的に細長いもの」ではありませんが、擬似的な生物であるクルマの一部分であると考えると、「〜本」という助数詞で数えることも不思議ではありません。
一方で、たとえば、ホイールカバーについては、通常「〜本」と数えることはありません。物理的な形状もさることながら、そこにはどれだけ親愛の情があるのかということも関わっているのかもしれません。