死んだアフリカ象の腸に潜った獣医が「見たもの」
獣医学部の先生と学生、動物園のスタッフ総勢十数名で行ったアフリカゾウの解体(写真:ニングル/PIXTA)
みなさんは「獣医病理医」と聞いて、どのようなイメージを持たれるでしょうか。
獣医病理医の中村進一さんが専門にしているのは、動物の体から採ってきた細胞や組織を調べて、「病(やまい)」の「理(ことわり)」を究明すること。要は「なぜ病気になったのか、どうやって死んだのか」を調べることを生業としています。
そんな中村さんの著書『死んだ動物の体の中で起こっていたこと』(ブックマン社)から、動物の生と死をめぐるエピソードを3回に渡って紹介します。
アフリカゾウを解体しに行くぞ
「おい、アフリカゾウを解体しに行くぞ」
ぼくがまだ獣医学部の学生だった頃のことです。関東地方のサファリパークでアフリカゾウが亡くなったということで、当時大学に非常勤講師として来ていた動物園の獣医師に誘われて、同級生たちと現地に向かいました。
すでに転倒による四肢の損傷が死因だと診断がついており、病理解剖というよりは骨格標本を作製するための解体が主目的でした。
参加は任意でしたが、獣医師を目指すぼくたちに、「最大の陸上動物の解剖」を経験させようという意図も先生にはあったのだと思います。
身近でたくさん飼われているイヌやネコならいざ知らず、アフリカゾウの解剖ともなると、獣医師でもなかなかできない貴重な体験です。学生ならばなおさら。ぼくたちは期待に胸を膨くらませていました。
そして膨らんでいたのは、アフリカゾウも同じでした。
飼育場はブルーシートで簡単な仕切りが設けられ、亡くなったアフリカゾウはその中に安置されていました。
通常なら動物の遺体はバックヤードや解剖用の部屋に運ばれ、そこで解剖されます。しかし、あまりの巨体ゆえに重機を使ってさえも移動が困難だったため、死亡したその場で解剖を行うことになったのです。
アフリカゾウのスケール感に圧倒
横たえられたアフリカゾウを、先生と学生、そして動物園のスタッフ総勢十数名で取り囲みます。
当時、大型の動物では600キログラム程度のホルスタイン(牛)しか解剖経験がなかったため(それでも十分な大きさですが)、その10倍近い体重のアフリカゾウのスケール感には圧倒されました。
サイズがサイズですから事故に注意し、お互いに声を掛け合い、リーダーである先生の指示に従って作業を開始します。
体長およそ7メートル、その存在感に気圧されつつも、重機で四肢を持ち上げてもらいながら、ほかの動物を病理解剖するときと同じ手順でまずは開腹していきました。
四肢の外傷が死因でしたので、内臓に異常は観察できません。
ただ、目の前に現れたアフリカゾウの消化管はパンパンに膨らんでいます。まるで、子ども向けの屋外イベントなどで見かける大型のエアー遊具のようです。
「……取りあえず、これを外に引っ張り出さないと」
先生に意気込みを買われて、幸か不幸かぼくが臓器の摘出係となっていました。役目を果たさなければ。
ところが、目の前にある消化管をつかむことができません。弾力のある消化管は粘った血液にまみれており、指から逃げるようにすり抜けます。
同時に、鼻をつく強い臭気が立ちこめ、喉が詰まって思わずえずきました。
「アフリカゾウを解剖できる」というぼくたちの胸のときめきを、強烈な臭気が上塗りしていきます。
消化管がパンパンに膨らんでいたのは、内部で大量のガスが発生していたからです。
ゾウは草食動物ですが、本来、動物にとって草を消化することは容易なことではありません。なにせ哺乳類は、草の繊維質を消化する酵素をもっていないのです。
そのため、特に草食動物では、消化管内に膨大な数の微生物を住まわせ、その微生物に草の繊維質を発酵分解させてエネルギーを得ています。この発酵分解の過程で、消化管の中では大量のガスが産生されます。
ゾウが死んでも、体内の微生物がすぐに死ぬわけではありません。とりわけアフリカゾウのような大型動物では、死後も体温はなかなか下がりませんから、温かな消化管内で微生物による発酵が進行します。発生するガスと強力な臭気は、この発酵の産物です。
ぬるぬると滑る内臓と格闘
とにかく消化管を外に出さないことには、解体作業が進みません。壮絶なにおいの中で何も考えないようにして、ぬるぬると滑る内臓と全身で格闘します。
(イラスト:秦直也)
四苦八苦しながらようやくお腹の臓器を手繰り出せたところで、お次は肺の摘出。ゾウはほかの哺乳類とちがって肺と胸壁がゆるくくっついているため、通常ならするりと容易に取り出せるはずの肺の剥離にも骨が折れます。
洞窟のような大きな胸腔に「えいやっ」と全身を潜もぐり込ませ、巨大な肺と胸壁の間に向けてひたすら解剖刀を振るっていきます。
この頃になると、鼻はもう臭気に慣れてしまい何も感じなくなっていました。人間の体とはよくできているものです。
ズボンも気づけば血まみれに
病理解剖の作法として上下の解剖着を着用してはいましたが、終盤には全身がゾウの体液に染まっていました。うっかり解剖着の下にはいていたお気に入りのズボンも、ふと気づけば血まみれです。
着替えを持ってきていなかったので夜はそのまま現地のホテルにチェックインしましたが、フロントで見とがめられてつまみ出されるのではないかとひやひやしたものです。
そのような苦労のかいもあり、亡くなったアフリカゾウからはその後、骨格をはじめ全身のあらゆる組織の標本が作製されました。
正常な組織の標本は、後に生きるアフリカゾウの病気を解明するための貴重なツールとなります。
臭気がとにかくつらく、格闘に次ぐ格闘で、さらに翌日には全身の筋肉痛で苦しめられることになりましたが、このとき強烈な体験とともに知識と技術を授けてくれたアフリカゾウのことを、ぼくは今でも時々思い出して感謝しています。
解剖着の下にはお気に入りの服を着てはいけないという教訓とともに。
(中村 進一 : 獣医師、獣医病理学専門家)