老舗書店が創った「絵本グッズ」という新たな市場
丸善丸の内本店2階にある「EHONS TOKYO」。絵本のキャラクターや世界観をモチーフにしたセレクトやオリジナルのグッズを販売している(撮影:尾形文繁)
2003年に全国で2万件以上あった書店は、この20年間でほぼ半減した。街の書店に加えて、ここ数年は都市部の大型書店の閉店も相次ぐ。この紛れもない斜陽産業で好調を維持しているのが、丸善丸の内本店である。
同店で2021年10月から始まった絵本をモチーフにしたグッズを企画・販売する「EHONS TOKYO(エホンズトーキョー)」のコーナーには、近隣で働く人はもちろん、遠方からわざわざ足を運ぶ人が絶えない。
日本で一番ビジネス書を売る書店は、なぜ絵本という「らしくない」テーマに可能性を感じ、新たな市場を生み出すことができたのか。
既存事業の深化と新規事業の探索を同時に追求する経営手法を「両利きの経営」と呼ぶが、EHONSの事例は、まさにその好例である。その実践の手法として1つとして大きく注目されるのが、「エフェクチュエーション」と呼ばれる起業家の思考法である。
本記事では、エフェクチュエーションの概念を日本で広げたマーケティング研究者の吉田満梨氏が、老舗企業における新規事業の創出を考察する。
アマゾンも撤退を余儀なくされたリアル書店事業
書店は再販制度や委託販売制度のおかげで、価格競争とも在庫リスクとも無縁の楽な商売をしている――もしかしたら流通関係の中には、そんなふうに思っている方もいるかもしれません。では、書店事業の利益率が平均して20%そこそこ、営業利益率では1%を下回ることも珍しくないと知ればどうでしょうか。
あのアマゾンが初の実店舗ビジネスとして手がけたリアル書店を早々にすべて閉鎖したことからも、決して割のいいビジネスではないことがわかります。
それでも、文化の担い手としての矜持をもって踏ん張るリアル書店のおかげで、私たちはベストセラーでも「あなたへのおすすめ」でもない多種多様な本に出会い、手に取ってパラパラとページをめくっては、さまざまな刺激を得ることができます。街から書店が消えたら、そんな幸せな偶然はめっきり減ってしまうことでしょう。
とはいえ、儲からないビジネスに未来はありません。良い本を棚に並べ、文化の担い手としての役割を果たすためには、何よりもまず利益率を上げていく必要があります。
カフェの併設やイベント開催で来店数を増やしたり、熱のこもった手書きのポップで客単価向上を狙う。あるいは返品コストを削減するためにAIで需要予測の高度化を図るなど、多くの書店が持続可能なビジネスのあり方を探しています。
丸善丸の内本店の篠田晃典店長(撮影:尾形文繁)
こうした努力に冷や水を浴びせたのがコロナ禍です。丸善丸の内本店の篠田晃典店長は緊急事態宣言下、普段は人であふれる東京駅前の広場を闊歩するハトの姿を見て、危機感を募らせたといいます。
「店の売り上げは半減。いつ状況が改善するとも先が見えない中、このまま待っていたらつぶれると本気で思いました」
コロナ禍で生まれた新規事業の芽
私が研究する「エフェクチュエーション」は不確実性の高い状況における意思決定の理論で、新しい市場や産業を創造するきわめて不確実性の高い問題に繰り返し対処して成功した起業家の思考様式から導き出されたものです。
エフェクチュエーションは、次の5つの行動原則から構成されます。
1 手中の鳥の原則
目的ではなく、すでにある手持ちの手段(資源)から何ができるかを発想して着手する。
2 許容可能な損失の原則
アイデアを実行するにあたってダウンサイドのリスクを考慮して、起きうる損失が許容できるかどうかという基準でコミットする。
3 クレイジーキルトの原則
コミットメントを提供してくれるあらゆる関係者とパートナーシップを構築する。
4 レモネードの原則
予期しない事態や手段も受け入れ、ポジティブに捉えて活用する。
5 パイロットの原則
予測不能な状況下でも、自らコントロール可能な要素に行動を集中する。
その出自ゆえに起業家のための理論と思われがちなエフェクチュエーション理論ですが、閉塞感を抱える大企業や老舗企業がイノベーションを起こすうえでもきわめて有効です。150年の歴史を誇る丸善で丸の内本店の店長を務める篠田氏の危機意識とそれに突き動かされるように始めた行動は、まさしく先に挙げた「レモネードの原則」になぞらえることができます。
吉田満梨(よしだ・まり)/神戸大学大学院経営学研究科准教授(撮影:尾形文繁)
コロナ禍のある日、ふと思いついて秋葉原を訪れた篠田氏は異様な光景を目にします。外出自粛により、いつもの活気が嘘のように静まり返る街に、1軒だけお客であふれるアニメショップがあったのです。覗いてみると、先行販売や限定販売など、その店でしか買えないグッズにファンが群がっています。お客同士の会話に耳を傾けてみると、SNSの告知で情報をキャッチして、この店に来るためだけに遠くから来た人も多いようでした。
絵本雑誌のグッズ販売で好スタート
「どんな状況下でも気持ちを揺さぶられる対象、そこにしかない付加価値の高いものがあれば人は足を運ぶことを思い知らされました。では、私たち書店が提供できる価値は何か。考え抜いてたどり着いたのが、絵本雑誌『MOE』から生まれたグッズを販売するポップアップショップです」
早速『MOE』(白泉社)の協力を仰ぎ、絵本の主人公やストーリーをモチーフにしたオリジナルグッズを製作。貴重な複製原画やバックナンバーなどと一緒に並べて、絵本の世界を丸ごと楽しめる空間を作り出します。
そんな売り場の様子をSNSで発信すると、熱心なファンが全国から訪れ、先を競うようにグッズを買っていきました。リアル店舗ならではの絵本の世界に没入する体験価値は、コロナ禍でも、わざわざ足を運ぶに値するものだったのです。
絵本や雑誌の売り上げも3倍程度にまで増えたそうです。かねて「仕入品を売るだけのビジネスからの脱却」をめざしていた篠田氏にとって、主力の書籍販売との相乗効果が期待できる新規事業の好スタートは手応えを感じさせるに十分でした。
2021年には、さまざまな出版社の絵本の主人公やストーリーをモチーフにしたグッズを販売する「EHONS」が常設売り場として丸の内本店にオープンします。自社がプロデュースするオリジナルアイテムに加え、独自の選択眼が光る他社グッズも並ぶ、言ってみればセレクトショップのような存在です。
「EHONS」は、他の売り場をはるかに上回る坪売り上げを記録し、2022年には大阪、2023年には福岡にも出店を拡大しました。
緊急事態宣言という誰も予測しえない事態を次の成長の機会にできたのは、現実を受け入れたうえで、新たな環境の中で生じた人々の行動変化を見落とさず、それを積極的に活用するアイデアに最大限の柔軟性をもって対処したからにほかならないでしょう。
老舗書店ならではの強み
本を仕入れて売るのと、グッズを一から製作して売るのでは、同じ小売りとはいえ、全く別のビジネスです。丸善にそれができたのは、もともと持っていた資源を、新規事業の創出にも有効に活かすことができたためでした。
第1の資源は、長年培ってきた出版社との関係です。懇意の営業担当者から絵本の編集者や権利関係の部門につないでもらい、事業プランを説明しました。自社の大事なコンテンツを扱わせる以上、出版社が慎重になるのは当然ですが、書籍販売の歴史と実績に加えて出版事業も手がける丸善ならば、前向きに検討してもらえます。
しかし、肝心の絵本作家が首を縦に振らない限り、グッズ化は実現しません。ここで丸善側は前面に立たず、出版社に作家との交渉を担ってもらう選択をします。自分が描き出す世界に強い愛情と誇りを持っているからこそ、より多くの人に作品を知ってもらい、さまざまな形で身近に感じてほしいという思いと、安易な商品化に対する不安が交錯する。そんな作家の気持ちに寄り添えるのは、出版社の社員だと考えたのです。
出版社を間に挟み、アイテム選定からデザイン、細かな色味や線の太さ一つまで、本人の要望を聞きながら完成度を上げて製品化にこぎつけることができました。
第2の資源は、人材です。「EHONS」のチームは5人で構成されています。数ある絵本の中から作品とグッズ化するモチーフを選ぶのは長年児童書を担当してきた販売員、デザイン担当は丸善オリジナル文具などを製作する部署のスタッフなど、いずれもその道のプロフェッショナルばかりです。
そして篠田氏自身も、それまでにもネクタイやオーダースーツ、傘などのオリジナル品を企画開発した経験がありました。老舗書店の長い歴史の中で蓄積されたものづくりのスキルとノウハウが、新たな事業でも活かされたのです。
「売り場があるから強い」
第3の資源は、文化を創造するDNAです。洋書はもちろんのこと、万年筆、タイプライター、ハヤシライス、ウースターソースなど、丸善が文明開花の日本にいち早く紹介したとされるものは数え切れません。
面白そうなことはやってみようというフロンティア精神と、挑戦と学習を許容する大らかな組織風土が、コロナ禍という緊急事態においても発揮されたといえるでしょう。
そして、何よりも大きかったのが、売り場という資産です。東京駅の丸の内口と地下でつながるビルの1階から4階までを占める丸の内本店の中でも、正面エスカレーターを2階に上った正面という一等地に「EHONS」のショップはあります。私が店を訪れた際も、文芸書や雑誌を目当てに来たらしい大人の女性客が思わず吸い込まれていく様子を見かけました。
読者と本のタッチポイントが電子出版物とネット書店に移行する中、テナント料や人件費が負担となるリアル書店は苦戦を強いられている。一般的にはそう理解されているかもしれません。しかし、「EHONS」においては売り場があることが強みとなりました。
単にグッズを並べるにとどまらず、売り場のデザインや陳列で絵本の世界を豊かに表現し、そこで過ごす時間を堪能してもらう。こうした没入型の体験では、五感に直接訴えかけることのできるリアルならではの優位性が確かに存在します。
弱みと思われているものを視点を変えて強みに転換させた点に、篠田氏の革新性を見て取ることができます。
「何ができるか」を知るための3つの問い
自分がすでに持っている手持ちの手段(資源)を活用し、それで何ができるかを発想して行動を起こすのが、エフェクチュエーションの行動原則の1つ「手中の鳥の原則」です。
ただし、どのような資源を持っているかは必ずしも自明ではありません。すでに持っているものに気づかなかったり、過小に評価して、手に入るかどうかもわからない不確実な資源を追い求めてしまうことは珍しくないでしょう。しかし、そうしている間にも手の中にいる鳥は逃げてしまうかもしれません。
そこで有効なのが、「私は誰か」「私は何を知っているか」「私は誰を知っているか」という3つの問いです。組織を単位として考えるなら、「私たちは」と言い換えても構いません。丸善の篠田氏に当てはめれば、次のようになるでしょう。
・私(たち)は誰か……企画開発の経験が豊富な丸の内本店の店長。老舗書店でありながらフロンティアとしての文化を創造してきたというアイデンティティ。
・私(たち)は何を知っているか……人に足を運ばせる絵本のコンテンツの力。ものづくりともの売りの知識と経験。
・私(たち)は誰を知っているか……出版社とその先にいる作家。絵本の世界観を愛し、理解している人材。
これらの資源をもとにすぐに行動できる事業アイデアが、「EHONS」だったのです。
このようにエフェクチュエーションでは、手持ちの手段で「何ができるか」という発想に重きを置きます。これまでの経営学、あるいは経営の現場では、目的を起点に「何をすべきか」というアプローチが主に用いられていました。
しかし、絵本の世界と高度に融合したグッズという、これまで存在しなかった事業や市場を新たに創造するような場合、最初から目的や、それを実現するための機会が明確になっているとは限りません。こうした不確実性が高い環境においても、目的ではなく手段に着目していち早く行動を起こせば、想像もしない出会いやフィードバックの機会が得られることを「EHONS」のケースは示しています。
次回は、エフェクチュエーションの5つの原則のうち、「許容可能な損失の原則」「クレイジーキルトの原則」「パイロットの原則」の3つの視点から、丸善丸の内本店の取り組みを見ていきます。
(構成:相澤 摂)
(吉田 満梨 : 神戸大学大学院経営学研究科准教授)