道長の野望とは? 紫式部との関係は? 筆者が読み解きます(写真:NHK公式サイトより引用)

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で注目される紫式部や『源氏物語』。1000年以上も前に日本の一女性が書いた「光源氏の物語」は、書かれた当初から書写されつづけ、絵巻物にもなって、ひさしく伝えられてきました。

そんな、源氏物語にはたくさんの謎があり、作者の紫式部や、彼女の周りの人物にも、ずいぶんと謎めいたところがあるようです。作家・岳真也さんの著書『紫式部の言い分』から、その実態に迫ってみましょう。

『源氏物語』は帝への最高の献上品

ようやく宮中に自分の居場所を得た紫式部。『源氏物語』を書き進めることにより、「物語の続きを読みたい」という読者は、増えつづけていきました。

かの一条天皇でさえ、続篇を待ちのぞんでいるのですから、帝に仕える貴族たちも、物語の写本を争うように求めはじめます。道長自身も文学好きだったようで、『源氏物語』を読みこみ、内容を把握していました。

道長としては、紫式部を宮中に入れたことが、「これほどに大きな成果を得られる」とは思っていなかったでしょう。そのくらい『源氏物語』の人気は、群を抜いていたのです。

一条帝は、物語の最新版を読むために、道長の娘・彰子(しょうし)の御殿へ足繁く通うようになりました。

ちなみに彰子中宮が住む藤壺(ふじつぼ)御殿は、帝の住まい、清涼殿(せいりょうでん)のすぐ近くでした。彰子が女御(にょうご)として入内(じゅだい)したときに、道長は政治力を使って、そのように手配したのです。

道長は広大な荘園を所有し、経済力(財力)の面でも、他の貴族を圧倒していました。彰子の住み暮らす藤壺御殿を華麗に飾り立て、高価で上質な絵巻物や書物をふんだんに収集できたのも、その財力の賜物(たまもの)だったのです。

さらに、彰子に仕える女房として、知性あふれる女性をあつめようとしました。紫式部、しかり。和泉(いずみ)式部や赤染衛門(あかぞめえもん)などの有名な歌人も、彰子付きの女房として出仕させたのです。

『彰子サロン』をつくりたかった

おそらく道長は、亡くなった定子(ていし)皇后の御殿を意識していたのでしょう。清少納言をはじめ、すぐれた女流歌人や文人をよび寄せた定子の御殿(登華殿:とうかでん)は、一条天皇のお気に入りだったのです。

1回目の記事で私は「定子サロン」と言いましたが、それに負けない御殿、「『彰子サロン』を、道長はつくりたかったのだ」と思います。

そんな道長の計略のなかで、紫式部は「いちばんの功労者」でした。宮中に出仕した当初、容易にその雰囲気になじめず、すぐに彼女は里(実家)に帰ってしまう。しかも何ヵ月も休んでいたのですから、道長は相当にやきもきしたはずです。

しかし、紫式部はどうにか再出仕したあと、宮中での暮らしや仕事にも慣れ、再度、物語の執筆を開始します。それを見て道長は、ほっとしました。そして、出来あがった物語をさっそく帝に差しだすと、たいそうご満悦で、道長は、「自分の狙いが間違っていなかった」と確信します。

道長は紫式部の才能を高く評価し、貴重な紙や上等な硯(すずり)、墨(すみ)などをあたえました。

『源氏物語』は全体としては長篇小説ですが、五十余の短篇に分かれています。1つの短篇が仕上がるごとに、道長はそれを製本させて、表紙を付けたのち、帝に献上したようです。

そんなふうにして、紫式部がつぎつぎと物語を書いていかなければ、彰子の御殿へと通う帝の足がとどこおってしまいます。そのため道長は、「まだ新作はできぬのか」と、たびたび紫式部に催促したようです。

まるで流行作家と出版社の社長か編集長みたいな関係ですが、それほど道長は、作家・紫式部にご執心(しゅうしん)で、自身も『源氏物語』のファンであったのです。

紫式部と道長の本当の間柄

紫式部と道長の仲はどうなったかというと、もはや何の歌のやりとりもなく、記録も残っていないため、まるで分かりません。

ただし、紫式部は分別盛(ふんべつざか)りの30代後半(今日だと、50歳)、道長は40半ば(60すぎ)で、初老の身。もしや何らかの関係があったとしたら、まさに「老いらくの恋」ということになりましょう。

今井源衛氏は『人物叢書 紫式部』(吉川弘文館)のなかで、こんなふうに書いています。

「……左大臣ともあろう者が、事前に何の手も打たず、前ぶれもなしに、いきなり夏の夜中にのこのこと女房の局の戸を叩きに出かけて、開けてももらえずすごすごと引き揚げるとは、何という醜態か。道長としては、出来が悪過ぎるのである」

いずれ、『源氏物語』と作者の紫式部があまりにも有名になったために、2人の間の歌の交換について、後世の人びとは、さまざまな解釈をしてきました。

今井氏は「日記にも家集にも相手が誰とはいっていない」のに、「藤原定家(さだいえ)の撰(せん)した『新勅撰集(しんちょくせんしゅう)』には道長だとある」と指摘。根拠のない俗説をもとに、定家は「道長だ」と書き、さらにそれをもとにして、中世の『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などの文書(もんじょ)類が出現したのではないか、と説いています。

『尊卑分脈』というのは、南北朝時代に編纂(へんさん)された諸家の系図の集大成ですが、そのなかで、紫式部の注に「御堂(みどう)関白道長公妾云々(しょううんぬん)」と記されていました。「妾」はいわゆる愛人(側室)ということで、最後の「云々」は「〜と言われている」という意味です。

「それでは、やはり、道長の愛人だったというのは本当ではないか」と思われる方もあるかもしれません。が、これがおそらく定家の残した言葉の影響下にあること、くわえて「云々」と付けられていることに注目してください。

要するに「聞き書き」ということで、道長の系図中に「紫式部」の名があったとしても、事実かどうかは判ぜられない、ということです。

編纂者が、「紫式部は有名人だし、たしか道長公に雇われていたはず。それに艶(つや)っぽい歌も残っているし、『妾』というかたちで入れておこうか」などと考えたかもしれません。

西暦1376年に成立したといわれる『尊卑分脈』ですが、源氏、平氏、藤原氏などの主要な系図集なので、たいそう貴重な史料と見なされています。けれど間違いも多く、とくに伝聞の記述については、かなり疑わしいようです。

角田文衛氏も、「一瞥(いちべつ)したところでは、なんの不思議もない系図であるけれども、よく検討してみると(中略)、錯簡(さっかん)とも言うべき重大な誤写がそこに認められる」(『紫式部とその時代』角川書店)としています。

また、『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・伊井春樹氏も、その辺のことを語り、「……これだけの記述から先を読み取るのは不可能と言うほかはない」と結論づけていますし、例の『尊卑分脈』に関しても、ただの歌のやりとりからの「類推による」もので、取るに足らない、と見なしています。

健康状態が良くなかった道長

もう1つ、これまた、今井氏の『人物叢書 紫式部』に詳しく書かれていることですが、道長の健康状態はあまり良くなかった、という事実を付け加えておきます。

藤原道長といえば、つぎの歌が有名です。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば


「この世は自分のものと思っている」などと歌に残した道長は、権力欲が強く、妻と愛人が何人もいましたので、精力がみなぎっている人物に思えますが、じつは意外と病弱だったみたいです。

長徳(ちょうとく)4(998)年、道長が33歳のときに大病を患い、死を覚悟したのか、帝に出家を願いでたことがありました。このときは無事に治りましたが、その後も、たびたび体調を崩すことがあったのです。

とくに道長が紫式部と歌のやりとりをした、といわれる寛弘5年の夏は、病気のために参内(さんだい)もしていません。

また、道長が著わした『御堂関白記』によれば、風病(ふうびょう:風邪など)の記述も多く、50歳のときには「糖尿病」と疑われるような症状も出ていたようです。

以上のように見てきますと、「紫式部と道長の間に、恋愛関係はなかった」。それどころか、相聞歌(そうもんか)めいた歌の交換も、ふたりのものではなかったのではないか、とすら思われます。

(岳 真也 : 作家)