平安時代の作家、清少納言はどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「漢籍や和歌の教養が深く、強気な彼女は貴族に重用されていた。だが、宮中の権力闘争に巻き込まれたことがきっかけで、華やかな宮廷生活から離れ執筆を始めた」という――。(第2回)

※本稿は、河合敦『平安の文豪』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

菊池容斎「清少納言」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■清少納言にとってショックだった出来事

さて、いよいよ宮中に入った清少納言だが、当初は宮廷生活に圧倒されて借りてきた猫のようにおとなしかった。

「宮に初めて参りたる頃、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳の後ろにさぶらふ」と『枕草子』にあるように、宮仕えを始めた頃、恥ずかしいことばかりで涙がこぼれそうなので、毎夜、定子の前に参上しても几帳の後ろに隠れていのだ。

この時代、貴族の女性は人前で顔を見せるものではないとされ、几帳や扇子で隠しているのが常だった。だが、宮仕えをするからにはそういうわけにもいかず、定子をはじめ女房たちの前で顔をさらし、時には用事でやって来る定子の親族や男性貴族たちにも顔を見られてしまう。これは、清少納言にとってかなりショックだったようだ。

とはいえ、自分で憧れて入った世界であった。まだ十分再婚ができる年齢だったし、独身だとしても実家や兄姉の世話になって生きる方法もあった。でも彼女は、自分の可能性というものを試してみたかったようなのだ。

■注目を集める存在になったワケ

『枕草子』には、こんなことが書かれている。

「将来に何の望みもなく、家庭に入ってひたすらまじめに生き、偽物の幸せを生きる。そんな人生を送る女を私は軽蔑する。やはり、高い身分の娘は、しばらく宮仕えをさせ、世間の有様をしっかり見聞させるべきだと思う。中には宮仕えする女はよくないと悪口をいう男がいるけど、本当に憎たらしい」

当初、清少納言は先輩の女房たちが物怖じせずに定子やその親族と談笑する様子を憧憬の目をもって眺めていたが、しばらく経つと宮中での仕事にも慣れていき、やがて、20人ほどいる定子の女房衆の中で頭角を現していった。

とくに宮中で彼女を有名にしたのは、よく知られている「香炉峰の雪」の逸話だろう。雪がたいそう降り積もっている日、清少納言ら女房たちは格子(雨戸)をおろしたまま、炭櫃(火鉢)に火をおこして雑談をしていた。

すると、急に定子が「清少納言よ、香炉峰の雪はどんなであろうかの」と語りかけてきたのだ。そこで清少納言はとっさに女官に命じて格子を上げさせ、御簾を巻き上げたのである。中唐の白居易(白楽天)の詩に「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥げて看る)」という一節がある。定子がこれに言及しているのだと気づいたので、すぐさま清少納言は御簾を巻き上げたというわけだ。

このように、漢籍や和歌の教養が深く、しかも定子や男性貴族たちの問いかけにアレンジを加えたり、機知をきかせたりして応えるので、定子の父の道隆や兄の伊周にも気に入られるようになっていった。

■紫式部との関係

だが、同じく宮仕えをした紫式部は、清少納言が知識をひけらかすことが面白くなかったようで、「大したことがないのに利口ぶっている」と悪口を言っている。

しかし紫式部が宮仕えした時期にはもう清少納言は引退しており、宮中で2人が顔を合わせる機会はなかったといわれている。

土佐光起「紫式部図(部分)」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ちなみに清少納言の栄達は、生来の負けん気の強さも関係しているように思える。あるとき、清少納言が柱にもたれかかって女房たちと雑談していると、いきなり定子が紙を投げてよこした。それを開けてみると、「思ふべしや、否や。人、第一ならずはいかに(あなたのことを愛してあげようか。でも一番じゃなければだめですか)」と書いてある。

じつはかつて清少納言は、「すべて、人に一に思はれずは、何にかはせむ。ただいみじう、なかなか憎まれ、あしうせられてあらむ。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ(すべて人から一番だと思われなければ嫌だし、意味がない。一番になれないのなら、みんなから憎まれたほうがいい。二番や三番になるくらいなら死んだほうがまし。とにかく一番でいたい)」などといっていた。

どうやらこのように、清少納言が日ごろから「オンリーワンではなくナンバーワンになりたい」と豪語していたのを定子がからかったらしい。そんな強気な女性だったから、紫式部も嫌悪感を覚えたのかもしれない。

■突如訪れた転機

宮仕えからわずか半年後、関白・道隆が建立した寺の供養が盛大になされた。このとき中宮・定子も列席し、清少納言ら女房たちも参列した。清少納言は、定子の側近女房である中納言の君と宰相の君と同座しており、一番ではなかったが、短期間に特別な扱いを受けるようになったことがわかる。

この翌年、清少納言の宮仕えは暗い影を帯びていく。長徳元年(995)、関白の道隆が43歳で病気で亡くなってしまったのである。道隆は跡継ぎの伊周を何とか関白にしたいと考え、伊周自身も一条天皇に自薦したが、まだ二十代前半だったこともあり、道隆の死後、その弟の道兼が関白に就いてしまった。

ところが前述のとおり、道兼は半月もしないうちに感染症で死んでしまう。前年から病が広まり、主だった公卿(現在の閣僚)14人のうち8人が感染死していた。

道兼の死後は、道隆の弟・道長(伊周の叔父)が右大臣に昇進、伊周を差し置いて氏長者(藤原氏の当主)となった。納得できない伊周は大いに反発し、二人は激しい口論をするなど対立した。その後伊周が、花山法皇と揉め、弟の隆家に命じて法皇に矢を射かける事件を起こし自滅したことはすでに述べた。

■「枕草子」執筆の動機

結果、伊周は左遷され、定子も出家を余儀なくされた。この大変な時期、清少納言はどうしていたかというと、じつは里に引きこもってしまったのだ。彼女は道長一派ではないかと疑われ、定子のもとを離れざるを得ない状況になっていたらしい。

『枕草子』を本格的に書き始めたのはこの時期ではないかといわれている。これ以前、兄の伊周から大量の紙(草子)をもらった定子が、清少納言に「あなたにあげましょう」と下賜してくれたのが執筆動機になったようだ。

「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたる」と閑居している間に、自分が見たことや思ったことを、自由に書き連ねたのだという。

だが、源経房が清少納言のところを訪れたさい、この草子を見つけてそのまま持ち帰り、人の目に触れるようになった。かくして『枕草子』は、貴族の間で大変な評判となり、清少納言の名を知らぬ者はいないほどになったのである。

しばらく里に引っ込んでいた清少納言だったが、誤解が解けたようで、再び定子に呼び戻された。一条天皇は定子を心底愛しており、出家した彼女を還俗(僧の資格をはく奪して俗人に戻す)させて寵愛し、娘が誕生、さらに皇子(敦康親王)が生まれた。だが、長保2年(1000)に次女を出産した翌日、定子は25歳の若さで死去してしまった。清少納言の宮仕えもここで終わったといわれる。仕えたのはおよそ7年であった。

■意外な老後の姿

その後は30代のときに70歳を超えた藤原棟世と再婚し、娘(小馬命婦(こまのみょうぶ))を産んだが、まもなく棟世は亡くなり、晩年は兄の致信と同居していたという。しかし致信が寛仁元年(1017)に争いに巻き込まれて殺されてしまい、その後は各地をさまよう落ちぶれた生活を送ったと鎌倉時代の書物などに記されている。

河合敦『平安の文豪』(ポプラ新書)

だが、それほど豊かな老後ではなかったかもしれないが、まだ子供たちが健在だったので落魄したというのは、単なる伝承に過ぎないようだ。死去は万寿2年(1015)頃とするのが有力である。

いずれにせよ、華やかな宮廷生活は2年程度に過ぎず、あとは定子一族が落ちぶれていく時期であったが、研究者が口をそろえて述べているように『枕草子』には、そうした悲壮さや悲しみはまったく感じられない。極めて明るい希望に満ちた、にやりと笑みがこぼれるような話が多い。ぜひ一度みなさんも全編を読破してみると良いかも知れない。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)