【インタビュー】元日本代表FW川又堅碁、中山雅史監督のアスルクラロ沼津で復活の狼煙!J2昇格のキーマンに

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1062日ぶりのゴールだった。

J1通算213試合70ゴール、J2通算69試合24ゴールを積み上げてきた、元日本代表FW川又堅碁が復活の狼煙を上げている。

今年1月、長引く怪我に苦しんで来た川又は所属していたJ2・ジェフユナイテッド千葉を退団。無所属のままリハビリに専念する期間を設けて復帰の準備を整え、8月にJ3・アスルクラロ沼津への加入を発表していた。

34歳となったJリーグ屈指の大型ストライカーの現在地とは?(取材・文/新垣 博之)

2023年10月8日、明治安田生命J3リーグ第30節、FC岐阜VSアスルクラロ沼津。

2点ビハインドの沼津は後半開始から川又を投入し、前線に厚みを加えた。迎えた65分、今季一貫して[4-3-3]システムを採用し、ボール保持率でJ3トップを記録する沼津はショートパスを繋ぎ、二桁ゴールを挙げているFWブラウン・ノア賢信が最前線から引いた位置でボールを受ける。

この瞬間、川又はブラウンが空けたスペースに走り込み、ペナルティエリア内にスルーパスを引き出す。動き出しから左足でのシュートまでの一連の流れは、何度も見た“川又らしい”得点パターンの1つ。川又にとっては千葉に所属していた2020年11月11日のJ2第33節・松本山雅FC戦の決勝点以来、約3年ぶりとなるゴールだった。(動画4分11秒から)

「かなり久しぶりでしたし、初ゴールまで少し時間がかかってしまいましたけど、嬉しかったです。こうしたチャンスをいただけたことに感謝しています」

沼津ではデビュー戦となった第25節・奈良クラブ戦から強烈なヘディングシュートを披露し、空中戦での強さも健在。翌26節の愛媛FC戦ではブラウンのゴールをアシスト。岐阜戦での初ゴールも含めて2トップの有効性を示したことも大きい。

「(2トップの有効性は)相手にとって脅威となっている感覚をもてましたし、可能性は十分に示せたと思います。個人としても攻撃の局面であったり、FWとしてのゴール前の感覚はほぼ取り戻せたと思います。(先発出場は?)チャレンジできる段階には来ていると思います。ただ、チームには前線からの守備や攻守に渡ってハードワークする『沼津のスタンダード』というモノがあって、それを僕個人が100%体現できているかと言えば、そこまでは言えません。ただ、それこそが僕が沼津でプレーしたいと考えた理由でもあるんです」

リハビリに専念した怪我、沼津加入の理由

川又はジュビロ磐田在籍3年目の2019年4月28日、第9節の北海道コンサドーレ札幌戦でゴールポストにぶつかり、右肩を脱臼。患部の神経麻痺も患い、完全に痛みがひくまで1年以上の時間を要した。同年、磐田はJ2降格を喫し、自身も初の「ゼロ円提示」を受けた。

その深刻な怪我の影響もあり、2020年は無所属のまま迎えたが、J2・千葉のキャンプに練習生として参加。見事に契約を勝ち取ったものの、磐田時代から苦しんでいたアキレス腱の痛みにより、2年目は公式戦出場ゼロ。3年目の2022年も公式記録で僅か2分間の出場に終わっていた。

「僕の場合、アキレス腱と踵の付着部に骨棘(こつきゃく)と呼ばれる余分な骨が生えていて、それが稀に見るほどの大きさだったために痛みが生じてプレーができませんでした。1月に手術をしたのですが、今回はその骨棘はとらずに、TENEXと呼ばれる治療法でアキレス腱の再生治療をしていただきました。できるだけ足に最小限の負担しかかけずに、なるべく早く復帰できる方法を探し、様々な方々からアドバイスを受けて選択しました」

その後、約2か月間を入院とリハビリに費やし、4月からは千葉県にある高円宮記念JFA夢フィールドで本格的な復帰に向けたトレーニングを開始。6月20日からは沼津への練習参加を発表し、8月3日に晴れて正式加入を果たした。

「練習先のクラブを探していた時期に中山さん(沼津・中山雅史監督)から練習参加の連絡をいただきました。自分は怪我で直近2年間の試合やチーム練習に絡めず、ジョギングすら出来ずに歩くことにも痛みを感じていました。そんな今の自分にとって沼津のトレーニングとその強度はピッチレベルに戻るためにも絶対的に必要なモノだったんです。

練習参加は2週間の予定だったんですけど、それが合計1カ月半に延長になりました。『本当に大丈夫なのか?』と思われていたのかもしれません。同時に1週間ごとにコンディションが上がっているのが目に見えて分かっていたのも事実です。その頃、チームの連勝が続いていたこともあって(※6月から7月にかけて3連勝を含む4勝1分無敗)、雰囲気も良く、受け入れてもらえたタイミングも良かったと思います」

川又はアルビレックス新潟時代に柳下正明氏(現ツエーゲン金沢監督)、ファジアーノ岡山時代には影山雅永氏(現JFAユース育成ダイレクター)、名古屋グランパス時代には西野朗氏(ガンバ大阪や日本代表監督)、磐田では名波浩氏(現日本代表コーチ)ら、日本代表の指導者を歴任してきた指揮官たちの下でプレーしてきた。

そんな彼の眼に、指導者・中山雅史はどう映っているのだろうか?

「中山さんとは雑誌での対談やテレビ出演などで以前から面識があり、僕がジュビロでプレーした頃(※2017から2019年)にも練習場によく来られていました。監督になられた現在も現役時代のような熱さと謙虚さを保ちながら指導されていると思います。

僕は自分からアプローチして直接アドバイスをいただいているんですが、普段の中山さんはサッカーのことについて話すことはほとんどないと思います。やっぱり、選手自身がどうなりたいか?どう成長したいか?自分で考えてアクションを起こすべきだと思いますし、中山さんはそう促しているんだと思います」

「自分で考える」原点

「自分で考える」「“無”になる」

川又は自身のサッカーに対する向き合い方やゴールを奪う極意について、一見すると相反する2つの考えを挙げる。普段のトレーニングから指導者任せではなく、「自分で考える」習慣があるからこそ、試合中は無心になって自分を解き放つことで集中力を高めている。

その原点は、多忙ながらも刺激的だった高校時代にあるのかもしれない。

愛媛県西条市出身の川又は、アニメ『キャプテン翼』を観てサッカーを始めた。ただ、中学、高校ともに全国大会常連の強豪校に進学したわけではない。それが逆に“型”に嵌らず、自分が主体的にトレーニングに励む環境となったのかもしれない。

2006年、川又は愛媛県立小松高校の2年生にして当時J2の愛媛FCの特別指定選手としてJリーグデビューを飾っている。

「1年生の冬に愛媛FCと徳島ヴォルティスから特別指定のお話をいただきました。徳島までは距離的に遠かったこともあって愛媛を選びましたけど、それでも練習場まで行くのに1時間はかかりました。練習が午前中にあるときは学校を休んで行ったり、午後からの時はマネージャーが車で迎えに来てくれて練習に通いました。高校の試合日程と被らないように配慮もしていただいて、参加できる時に行くというかたちをとっていました」

小松高校時代の超絶ゴール(提供:南海放送)

当時の愛媛には後にJ1で黄金時代を築くサンフレッチェ広島の主力となるDF森脇良太(愛媛)とMF高萩洋次郎(栃木SC)が期限付き移籍でプレーしており、現在J2昇格目前の愛媛で2度目の指揮を執る現役時代の石丸清隆、そして、サガン鳥栖で戦術家として注目を集める青年指揮官・川井健太ら、「考えてプレーできる選手」が揃っていた。

「当時から(高萩)洋次郎くんは本当に上手くて、森脇さんと同じく今も現役で長くプレーされています。今では監督としてJリーグで指揮を執られている石丸さんや川井さんもいて、凄いメンバーが揃っていたと思います。皆さん上手かったので、練習では付いていくのに必死でしたけど、刺激的な日々でした。

その愛媛に誘っていただいたのが当時の望月一仁監督で、よく小松高校の練習試合にも足を運んでいただきました。その望月さんが今は沼津にいて、再会することになりました。沼津には本当に強い縁を感じています」

プロ4年目まで無得点のFW〜点取り屋として覚醒

2008年、川又は高校卒業のタイミングで当時J1の新潟とプロ契約を締結。高校時代から誘いを受けていた愛媛と徳島からもオファーはあったはずだが、決め手になったのは1人のブラジル人ストライカーだった。

「高卒のタイミングでは多くのクラブに練習参加させていただきました。その中から新潟に決めたのは、当時のエースだったFWエジミウソン(※Jリーグでは新潟、浦和レッズなどで活躍し、J1通算111ゴールを記録)がいたからです。

僕も高校時代からシュート力には自信があったのですが、エジミウソンのシュートは比べ物になりませんでした。ただ、僕が入るタイミングで彼が浦和に移籍して、入れ違いになってしまったのは複雑でしたね(笑)」

エジミウソンとの共演は叶わなかったが、当時の新潟にはペドロ・ジュニオールやブルーノ・ロペス、ラファエル・シルバなど、他クラブでも大活躍することになる強力なブラジル人FWが毎年のように加入していた。

「高いレベルでサッカーをしたいと考えていたので、ポジション争いをすることは気になりませんでした。それこそ、エジミウソンの近くでプレーしたいと考えて加入を決めましたし、その頃から自分が点を取る自信もありましたから」

184cm77kgの大型FW川又がピッチに登場すると、ゴールへの飢えと殺気立った目つきで相手に襲い掛かるような強烈なインパクトを放つ。それは20歳前後から変わらない。

「ピッチ上は戦場なので、常に相手と闘う意識でいます。たとえ相手に仲が良い選手がいても、試合前から関わりたくないタイプだと思いますよ。逆に味方は全員俺が守ってやるっていう気持ちでいますね」

一見すると坊主で強面なイメージが先行する川又だが、新潟でのプロデビュー戦は気合が空回りして何もできず。僅か11分間で途中出場途中交代。2011年にはリーグ初先発を言い渡された前日に著しく体調を崩して欠場したこともある。

「いろいろ節目であるんですよ。初先発を言い渡された前日は酷く嘔吐してしまって。それだけだったんで、そのまま行こうと思ったら、さすがにクラブからストップがかかりましたね(笑)」

その2011年にプロ4年目を迎えた川又は天皇杯とヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)でゴールを奪い、リーグ戦でも出場機会が急増。前年にブラジルのサンパウロ州2部カタンドゥヴェンセに半年間の期限付き移籍を経験したことも大きかった。

それでもJ1リーグでのゴールは遠く、出場23試合で無得点。プロ入り後4年間で1度もJ1のゴールネットを揺らせなかった。

「2011年は合計8回もポストに当ててしまって無得点が続きました。翌年にJ2のファジアーノ岡山へ行くことになった時も、自分ではJ1でやれる自信があったんですけど、同時に『J2で点が取れなかったら新潟には戻れない』という気持ちもありました」

覚悟を決めた川又は岡山でJ2得点ランク2位の18ゴールを挙げ、点取り屋として覚醒。その頃にはトレードマークも意識するようになったようだ。高校時代はアシンメトリーのようなオシャレなヘアスタイルだった川又が笑う。

「僕は『坊主にする=気合が入る』と考えるような古いタイプの人間なので、初心にかえるという意味でしたのがキッカケです。実際、岡山で18ゴールとって、『川又=坊主』と認知してもらいたかったのもあります」

新潟へ復帰した2013年にはエジミウソンを超える23ゴールを挙げて大ブレイク。未だ破られていないクラブ記録を樹立している。本格派ストライカーの誕生だった。

「正直、点を取る自信は以前からありましたけど、岡山でその自信を確信に変える経験を積ませてもらえましたし、新潟でも周りの選手に恵まれました。僕は自力で点を取れるタイプではないので、アシストしてくれた選手たちのおかげです。

それと、普段から東口順昭さん(現ガンバ大阪)のような代表レベルのGKを相手にシュート練習を続けていると、駆け引きも含めたシュート技術が自然と身に付きますよね」

30代でゴールを量産する大迫、中山、大久保に続け!

J1得点ランク2位の23ゴールを挙げ、年間ベストイレブンにも選出された川又のもとには獲得のオファーが殺到。2014年の夏には「5チームあった」というオファーから名古屋へ電撃移籍を果たす。

名古屋では得点数は伸びなかったものの、FWとしてのプレースタイルを拡げ、2017年に加入した磐田で開花。初年度に14ゴール7アシストを挙げ、近年低迷するサックスブルーのチームを6位躍進へ導いた。翌年も11ゴールを記録するなど、より万能なストライカーへと変貌を遂げた。

「それまでの自分はクロスに合わせたり、裏へ抜ける動きなど、ゴールに直結する動きしかなかったんですが、名古屋では西野監督の下でポゼッションサッカーに取り組む中、攻撃の起点となるポストプレーを磨いて、自分のプレースタイルが拡がったと思います。

磐田では監督の名波さんやMF中村俊輔さん(横浜FCコーチ)のチカラをお借りして、FWアダイウトン(FC東京)やMF川辺駿(スタンダール・リエージュ)といった選手たちと上手く連携をとって、良いサッカーをして結果を出せていたと思います」

10月14日には34歳となった川又だが、現在J1得点ランクトップタイの21ゴールを挙げてヴィッセル神戸を首位に押し上げる元日本代表FW大迫勇也は33歳。そして、現役時代の中山雅史も33歳で自身2度目の得点王に輝き、翌年も16ゴールを挙げている。

31歳だった2013年から2015年にかけてJ1で唯一3年連続得点王に輝いた大久保嘉人氏も含めて、30代になってから改めてゴールを量産するストライカーは多い。

取材後、沼津は懸念されていたJ2ライセンスの取得を発表。残り5試合でJ2昇格圏内の2位・鹿児島ユナイテッドとの勝点差は9と厳しい状況だが、終盤戦に入って唯一コンディションを上げている川又はJ2昇格へのキーマンだ。

「ここからバンバン点を取って、お世話になった人達へ恩返しをしていきたいと思います。期待しておいてください!」

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【プロフィール】川又 堅碁(かわまた けんご)

1989年10月14日生(34歳)/愛媛県西条市出身/FW/184cm77kg

2006年、愛媛県立小松高校2年時に当時J2の愛媛でJリーグデビュー。高校卒業後の2008年よりJ1・新潟へ入団。リーグではプロ4年目まで無得点が続いたが、2012年に期限付き移籍したJ2・岡山で18ゴールを挙げて点取り屋として覚醒。新潟へ復帰した2013年にはJ1得点ランク2位の23ゴールを挙げて大ブレイク。J1では新潟・名古屋・磐田の3クラブで通算213試合出場70ゴールを積み上げ、2015年にデビューした日本代表でも9試合出場1ゴールを記録。2023年は無所属のままリハビリに専念していたが、8月に練習参加していた沼津への正式加入が発表され現在に至る。