プーチン氏の生い立ちから現在の行動原理を探る(写真:Leon Sadiki/Bloomberg)

複雑怪奇な国際情勢を読み解くためには、「歴史」と「哲学」を学ぶ必要があります。例えば、現在のウクライナ戦争を理解するためには、ロシアのプーチン大統領を動かしているおおもとの思想を知る必要があるのです。

茂木誠さんと松本誠一郎さんの共著『“いまの世界”がわかる哲学&近現代史 〜プーチン、全体主義、保守主義』より、スパイに憧れていたプーチンがいかにして政治家としての考え方を構築していったのかを本文を一部引用・再編集してご紹介します。

プーチンを動かす根本的な思想

松本:今、よくも悪くも世界中の人々が注目している、ロシア大統領ウラジーミル・プーチン。この人物を、私たちはどう考えていったらいいのか。茂木先生、どのあたりから話を始めましょうか?

茂木:2022年に始まったウクライナ戦争を論じても仕方がないと思います。というのは、当事者両国はもちろん、関連各国の情報戦がすさまじいので、何が本当なのかがわからない。どちらが勝っているのかも、正確には判断できないからです。ですから、ウクライナ戦争については直接的には触れず、プーチンを動かしている根本的な思想を深掘りしたいと思います。

松本:わかりました、プーチンを動かしている「思想」あるいは「哲学」ですね。

さて、プーチンについて読者の皆さんもある程度のことはご存じかと思うのですが、今一度振り返っておきますと、彼はKGB(ソ連国家保安委員会)出身だということ。KGBはソ連の諜報機関ですね。そして、かつて兄弟国であったソ連と東ドイツ、その東ドイツにプーチンはKGBのエージェントとして派遣されていました。

茂木:ですから、プーチンはドイツ語が非常に堪能です。ドイツのアンゲラ・メルケル前首相とも通訳なしでしゃべっていたようです。

松本:KGB時代にソ連崩壊があり、そしてこのことがプーチンにとっての最初の蹉跌、つまり試練だったとよく言われます。プーチンが諜報機関出身であるということは、彼のその後の政治家としての足跡にどのような影響を与えているのでしょうか?

スパイに憧れていたプーチン少年

茂木:僕が興味を持っているのは「プーチンは共産主義だったのか?」という点です。確かに、彼の父親は共産党員でした。独ソ戦(1941〜45)を戦ってしょうい軍人となった。ただしプーチンは、少年期から「共産主義」というより「スパイ」に憧れていました。彼は中学生の時にKGBを訪れて、「どうすればKGBに入れますか?」と聞いている(笑)。

松本:見どころのある中学生だ(笑)。

茂木:そのとき対応したKGBの職員に、こう言われたそうです。「KGBは外から来る人間は一切信用しない。もし君が使える人材だったら、こちらから声をかける。だからそれまでは、スポーツや勉強を頑張りなさい」と。

それで14歳のプーチン少年はどうしたかというと、その教えを守って「体を鍛えよう」となった。彼はすごく小柄だったので、小柄でも通用する運動は何かと考え、柔道を選んで精進し、そのまま高校、大学へと進みました。そして、どうやら大学を出る頃に、KGBのほうから接触があったようです。

松本:ということは、「面白そうな中学生が来た」という情報がKGB内で引き継がれていたのでしょうか?

茂木:推測にすぎませんが、KGBはプーチン少年をリサーチしていたのでしょうね。

松本:なるほど、諜報機関というのはそのくらいの能力はあると思います。相手が中学生であっても追跡を開始するわけですね。

茂木:要するに「見どころがある」と。プーチンはKGBのレニングラード(サンクトペテルブルク)支部に入って、諜報の勉強を始めました。そして、先ほど松本先生がおっしゃったように、東ドイツに派遣された。

松本:プーチンがスパイになりたいと思った1つのきっかけは、彼が小学校高学年か中学生の頃に観た『スパイ・ゾルゲ』という映画だった、と聞いたことがあるのですが。

茂木:その逸話は知りませんでした。

松本:プーチンが中学生前後の頃ですから1960年代です。

茂木:それは、日本映画?

松本:1961年日本公開の日仏合作映画です。『スパイ・ゾルゲ』は2003年にも映画化されていますが、1961年版ですから白黒映画です。それを中学生前後だったプーチン少年が観て感動したらしくて。それで「僕はKGBに行くんだ!」と、そういうことがあったらしいのです。

※『スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜』
フランス語の題名は「Qui êtes-vous, Monsieur Sorge?」(ゾルゲ氏よ、あなたは誰)

プーチンがNATOに詳しいワケ

茂木:そうですか、スパイ映画に感動した少年の夢が叶ったわけですね。念願叶ったプーチン青年は東ドイツに派遣され、その地でNATO(北大西洋条約機構)に関する情報収集をメインの仕事としていたようです。

松本:NATOの情報収集……だから、プーチンは欧米に詳しいのですね。

茂木:余談ですが、前米大統領ロナルド・レーガンがモスクワを訪問したときに、赤の広場で彼がロシア人の観光客としゃべっている写真があって、そこにプーチンが写っています。親子連れの観光客を装い、レーガンに接近しているという証拠写真です。

松本:私の興味は、ドイツ語も練達(れんたつ)するようになったプーチンが「ドイツ哲学」を勉強していたのか否かです。彼がドイツ時代に、どういうドイツ哲学に触れていたのかまったく記録がなくて……。ヘーゲルに目覚めたとか、ニーチェを愛読していたとか、であれば後のプーチンの思想はこのときつくられていたのか、という手がかりにもなるのですが。

茂木:ドイツ語を読めるのですから、当然、プーチンはドイツ哲学に何かしらの影響を受けているでしょうね。彼の経歴を追ってみても、ゴリゴリの共産主義者という感じはしない。

松本:ええ、なんというか、資本主義の良し悪しもわかるといった、そういう人物像が浮かび上がってきます。

茂木:はい、僕もそう思います。

松本:プーチンの経歴に話を戻しましょう。東ドイツの崩壊後、プーチンはレニングラード、いまのサンクトペテルブルクに帰ってきました。ところが今度はソ連が崩壊してロシアになり、彼はなんとタクシー運転手までやって生計を立てていたそうです。その後、レニングラード大学の恩師が市長になったときに声をかけられ、プーチンは政治の世界に入った、と一般的にはいわれています。

茂木:アナトリー・サプチャークですね。ソ連崩壊の年(1991)に、サプチャークがレニングラード市長になっています。

「エリツィン時代」が大きな原動力に

松本:はい。そしてプーチンは、サプチャークのもとで手腕を発揮していくうちに有名になっていきました。当時の大統領はミハイル・ゴルバチョフからボリス・エリツィンに代わっていたのですが、このエリツィンに若きプーチンが見出されていく。これは1990年代の「プーチンの飛躍」の一番大きな要素だったように思います。

茂木:この「エリツィン時代」が、現在のプーチンの大きな原動力になっていると、僕は見ています。急進改革派のエリツィン政権は、共産主義に対する反動から、アメリカ型の自由主義経済を信奉していました。保険も年金もカットし、国営企業の売却を進めました。

松本:「オリガルヒ」が大活躍していた頃ですね。

茂木:はい。オリガルヒとは、旧ソ連諸国の資本主義化(主に、国有企業の民営化)の過程で形成された新興財閥のことですが、彼らが政治的にも大きな影響力を持つようになり、ロシアの政財界を支配していました。

松本:まだ力がなかったプーチンは、オリガルヒを苦々しく横目で見ていた、と推測できます。

茂木:当時は共産主義の反動で、むき出しのアメリカ的な市場経済がドーンと入ってきて、ロシアの一般大衆は貧困にあえいでいました。社会主義は最低限の生活を保障していたのですがそれもなくなり、おじいちゃん・おばあちゃんが路頭に迷うようになってしまった。

その一方で、新興財閥のオリガルヒがいて外国資本と結託して富を独占している……。だから資本主義、というより世界の市場統合と弱肉強食を是とするグローバリズムの一番ダメな部分をプーチンは見ていたのです。

松本:グローバリズムがいかに悲惨な結果をもたらすか、というのを40代のプーチンはジッと見ていた。それが、のちに自分が権力を握ったときにオリガルヒに対してどういう態度をとるべきかの指針ともなっていった。

茂木:それはそうなのですが、プーチンはエリツィン政権のときに「国有財産の民営化」に関する仕事をやっています。

松本:ということは、プーチンはオリガルヒに手を貸していたわけですね。

茂木:手を貸したというより、彼らを監督する立場にいたのでプーチンは裏側を見てしまったのでしょう。1997年に、プーチンは論文で「市場経済移行期における資源の戦略的な計画」を発表します。資源については「民営化ではなく、国家が管理するべきだ」ということを、この頃から彼は主張しています。

松本:エリツィン時代のオリガルヒのやりたい放題を見て、これではダメだと思ったということですよね。

チェチェン独立の動きとプーチンの出世

茂木:そのとおりです。そして、もう一点。ロシア連邦の領土であるカフカス(コーカサス)地方でチェチェン共和国の独立運動(第一次チェチェン紛争/1994〜96)が起こります。

チェチェン人はイスラム教徒ですが、バクー油田が近いので利権の巣窟です。エリツィンとしてはチェチェンを手放すことはできない。チェチェン独立派を取り締まるために、KGBの力が必要でした。だから、エリツィンのやることは矛盾していたのです。「共産党の独裁に反対する」「ロシア民主化」「KGB解体」などと言っていたのに、チェチェンの独立運動が起こるとKGBに頼るという……。このような状況下で、さらにプーチンの活躍の場ができたということです。


松本:ということは、プーチンはいいポジションにいたということですね。

茂木:はい。プーチンはどんどん出世して、1999年に第一副首相。そして、わずか1週間後に首相になりました。その後、チェチェン過激派がやったと言われているテロが起こります。高層アパートが連続爆破されて、確か300人ぐらい亡くなったのですが、実はよくわかっていない部分があります。

それをプーチン首相が「これはチェチェン過激派の犯行だ」と断定して、いったん独立運動が沈静化していたチェチェンに対して、猛烈な空爆を始めます。これが、第二次チェチェン紛争(1999)です。

(茂木 誠 : 駿台予備学校 世界史科講師)
(松本 誠一郎 : オンライン講師、YouTube「ゆめラジオ」チャンネル主宰)