実に107年ぶりの夏の甲子園優勝で注目の的となった慶應高校野球部。その優勝を遠いタンザニアの地で知ったOBがいる。慶應野球部のモットーであるエンジョイベースボールをアフリカに伝える活動をしている友成晋也氏だ。今回の優勝では「髪型」ほか様々なキーワードが挙がっているが、ここでは友成氏に現チームとの交流のなかで感じた、それらの話題について語ってもらった。

【「長髪容認」は髪を切らずに出直そうという話】

 慶應高野球部OBの友成晋也(アフリカ野球・ソフト振興機構代表理事)は、母校優勝の報をアフリカのタンザニアの地で知った。


慶應高校野球部は、107年ぶりの夏の甲子園優勝で大きな話題を提供した

 慶應高−慶應大の野球部出身。卒業後JICA(独立行政法人国際協力機構)勤務時代の1996年から、ガーナ、タンザニア、南スーダンなどで野球の普及活動を手掛けてきた。2019年12月にアフリカ野球・ソフト振興機構を設立後、翌年にJICAを早期退職。現在は日本式野球の導入によりアフリカでの人材育成と競技普及の支援を行なう「アフリカ55甲子園プロジェクト」を推し進めている。

 母校の甲子園優勝後、日本に帰国した。やはり聞かれるのは髪型のことだ。

 友成自身、慶應高校野球部の「長髪容認」がいつから始まったのかは知らない。

「慶應高は、昭和37年(1962年)に夏の甲子園に出場したんですよ。私が入学する19年前でした。当時の話は私も高校時代によく耳にしたものです。2回戦で栃木の作新学院高校と対戦した。もちろん相手は坊主頭ですよ。この試合で慶應高校は負けるんですが、スタンドからヤジが飛んだらしいんです」

"髪切って出直してこい"

 その一言により、慶應高野球部にはある"誓い"が立てられたという。

「だったら髪を切らずに出直してやろうじゃないか」と。

「独立自尊」は慶應義塾の精神のひとつでもある。友成は「人が何か言うことに気を使いすぎる、というのはそもそも学風に合わないのかな」とも思っていた。

 ただ、高校から慶應に入学した友成は、当時、慶應高野球部が長髪容認だということも知らなかった。別にそれに憧れたわけでもなんでもない。

「弱かったし、髪型のことが有名だったわけでもありません。むしろ入学後に知って『これでいいのか?』と思ったくらいで。高校入学直前の春に(1981年)センバツでの槙原寛己さん(大府)と金村義明さん(報徳学園)の投げ合いを見て、『高校野球、気合い入れて挑戦するぞ』と思っても、周りはみんな髪が長くて。だから自分は最後の夏は自らスポーツ刈りにしたくらいでした」

 高3の夏に神奈川県で2回戦負けを喫するチームにあって、ショートを守っていた友成。二遊間を組んだセカンドの選手はパーマをかけていたという。当時は対戦相手の高校から髪型のことで妬まれるようなことはなかったが、やはり「髪型のせいで弱いんだろ?」という視線は感じることがあったという。

【森林貴彦監督との交流】

 友成はその後、慶應大に進学し、迷った挙げ句に野球部に入部した。なにせ慶應高は弱かった時代。実力的に足りないことは自覚しつつも体育会の門を叩いたのだった。結局4年間で一度も1軍での試合出場が叶わず卒業。社会人2年目に母校の試合を観に行った際、ショートを守っていた選手に目が行った。

 森林貴彦(現慶應高監督)だった。

「その年は県大会4回戦まで進み、喜んで試合を観に行きました。私も高校時代にはショートを守っていたものですから、自然と彼に目が行ったのだと思います。ショートらしいキビキビとした動きや、真面目そうな雰囲気を見て、とても安心感を覚えた記憶があります」

 友成と森林の縁が生まれたのはのちのことだ。

 友成はJICA勤務時代にアフリカに駐在。現地で野球の普及活動を続けるなかで、1996年に野球のガーナ代表チームを立ち上げ、初代監督に就任、オリンピック出場を目指す活動を始めた。1990年代末にこの模様がフジテレビ『アンビリーバボー』で取り上げられた。合わせて2003年に『アフリカと白球』(角川書店)という書籍にもまとめられている。

 この頃、森林のほうが友成を認識するようになる。

 ただ、友成は転勤や海外勤務の多い日々のなか、森林と初めて顔を合わせて直接言葉を交わしたのはいつだったか、はっきりとした記憶はない。それでもいつしか始まった森林との交流のなかで、のちに全国制覇を果たす監督にこういった印象を受けていた。

「真面目で真摯に野球に向き合っている印象です。彼は慶應普通部(中学校)から内部進学を続けた立場ながら、内部生にありがちな『お金持ちの子』を感じさせる気取った雰囲気がなかった。私自身は高校から慶応に入った『外部生』で、普通のサラリーマン家庭の子でしたから、親近感を覚えた記憶があります。ですからすぐ仲良く打ち解けられました」

 やがて2020年年代に入り、友成は森林からある依頼を受けることとなる。

「アフリカの野球について選手たちに話してくださいよ」

 新型コロナのパンデミックの折、講演の依頼を受けたのだ。森林は「野球ができないのなら、その分の時間で外の世界の人の話を選手たちに聞かせて視野を広げさせたい」と話していたという。

 話の内容は、自身が代表理事を務める一般財団法人の話だ。アフリカでの野球を伝道する活動を続けている。友成は慶應大卒業後にJICAに勤務。その際に現地で野球を教えてみると、現地の人たちに喜ばれた。


アフリカで野球を伝える友成氏(写真:J-ABS提供)

 ガーナのとある少年から聞いた「野球は民主的。なぜなら打席という自分だけが応援され、ヒーローになれる機会がみんなに平等に与えられるから」という言葉にむしろ友成自身も学ぶことがあった。そういった打って、投げて、守る楽しさと合わせ、「相手を敬う」「道具を大切にする」といった人間教育のひとつとして薦めていることも、現地で喜ばれている点だ。

 最近はアフリカの地で「エンジョイベースボール」も伝えている。自分で考えてやってみよう。だからこそ楽しいんだよ、と。

【印象的なキャプテン、そして清原勝児のこと】

 そういったなかで最近の慶應野球部を幾度か訪れた。印象的だったのが、今回優勝したチームの主将でセカンドを守った大村昊澄の姿。昨年の秋のことだ。

「てっきり、マネージャーだと思っていたんです。学校の中を案内してくれたんですが、とても優しくて要領もよくて。体格も小柄(163cm)でしたし」

 森林から「彼がキャプテンだ」と聞いて友成は驚いた。

「森林監督は、優しい性格だし、ふさわしいと思うからキャプテンを任せていると。ただ当時は『ベンチキャプテンになるかもしれない』との話だった。だから私は今夏の母校の躍進を見ていて、印象的だったのは彼の姿ですよ。やっぱりグラウンドでチームを引っ張りたいという気持ちが強かったんでしょう。昨年秋の時点の監督の評価を覆して甲子園でも試合に出続けているな、と思って見ていました」

 そして、やはり話題に上がったのは清原勝児のことだった。森林は昨年秋の時点でこう話していたという。

「いい素材だと言っていました。ただ110人を超える部員のなかでは、図抜けた存在にまではなっていないとも。『競争のなかで日々頑張っている』と言っていましたね。それと森林監督はふだん、幼稚舎(慶應系列の小学校)で先生をしているんですが、小学校の時に清原くんのお兄さん(正吾/現慶應大野球部)のことを担任してるんですよ。そこからの縁もあってか、時折、彼のお母さん(モデルの亜希)の息子たちへの熱心なサポートぶりについて口にすることもありましたね」

【変わっていったエンジョイベースボール】

 チーム練習を目にする機会もあった。友成の目には「自分たちの時代と変わったな」と感じられる点があった。

「ノックのあとに、監督なしで選手たちが集まるんです。そこで、今日のノック練習がどうだったのか、問題点、良かった点は何なのかを話し合う。最後のほうは感情を交えて話すような様子も見られました」

 自分たちで工夫して考えるから、野球は楽しい。これこそエンジョイベースボールだ。

 それは、監督たる森林にとっては、高校時代から続く風景だったという。友成は食事の席で森林がこんな話をしていたことをよく覚えている。

「高校の時、守備時の『ランナー2塁』の状況でベースカバーの判断は選手に任されていたんですよね。ショートが入るのか、セカンドが入るのか。自分たちでサインを決めろと当時の監督に言われていたんですよね」(森林)

 友成は思う。こういった姿もまた、遠いアフリカの地にも伝えていきたいと。現在推進している「アフリカ55甲子園プロジェクト」は、アフリカ55カ国・地域に野球を普及しようという活動だ。松井秀喜さんをエグゼクティブ・ドリームパートナーとして招き、折を見て子どもたちへのメッセージももらっている。

 日本とアフリカを往復しながら活動を続ける日々。滞在中のタンザニアから映像で見守った優勝について、こんな思いも頭をよぎった。

「私の高校時代のことを思い出したりもしました。ウチの高校、投手は130kmも出ていなかったし、ホームランを打つ選手もいなかったんですよ。完全に『神奈川や東京の子たちが受験で入る学校の野球部』でしたから。それが1996年の甲子園予選県大会決勝進出を機に注目が集まるようになった。学校側にも掛け合って、推薦で選手が入ってくるようになった。そのころから再び甲子園にも出るようになって......。いまや140キロを投げるピッチャーが3人もいたりしますよね。本当に強くなってくれたなと思います」

 もうひとつ、優勝を誇らしく思うのはこの点だ。

「61年かけて、髪を切らずに出直しました。それが叶った優勝でもありますよね」

 伝統を守ることが、新しいことを生み出す。そういった優勝でもあった。

友成晋也 
ともなり・しんや/1964年7月16日生まれ。東京都出身。慶應義塾高校、慶應義塾大学と野球部に所属。卒業後民間企業を経てJICA(独立行政法人国際協力機構)で働き、1996年にガーナへ赴任した際に、仕事の傍らガーナナショナル野球チームの監督を務めたのをきっかけに、アフリカ各国で野球の普及に携わる。2019年に一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構を設立し、日本式野球の導入によりアフリカで人材育成と競技普及の支援を行なう「アフリカ55甲子園プロジェクト」の展開に尽力している。