指揮官の「予言」どおりに元オリックスの小川博文はプロ入り「すべて言われたとおりで恐ろしい」
消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜小川博文(後編)
『プリンスホテル野球部物語』小川博文の証言・前編はこちら>>
1985年、プリンスホテル入社1年目の小川博文は弱冠18歳で4月の社会人野球・静岡大会からベンチ入り。抜擢した監督、石山建一の期待に応えて本塁打を放つなど結果を出した。小川は石山から「4年間、社会人でやって、88年のソウル五輪に出てプロに行け」と道を示されていた。「そんなうまく行くわけない」と思いながらも、高校時代と同じようにやるべき練習を積んだ。
96年には巨人を下し、日本一を経験した小川博文
「当然、やるものだと思ってやってましたね、個人での練習は。合宿所にはウエイト場と室内練習場があったので、トレーニングしたり、バッティングしたり。しかも、ランニング、キャッチボールができる広い庭がありましたから。そういう設備面は本当に充実していましたね」
社業ではホテルのドアボーイを務め、最高の環境で個人練習を積み重ねつつ、チーム練習では石山から技術的な指導を受けた。
「僕が言われたのは『バットを内から出す時はこうやって出せ』とか、『バットをかつぐな』とか。守りでは『ゴロを捕ったら早く投げるんだ』と、足の運び方を教わって。どれも理にかなっていて、すごいなと思いました。でも、技術的な指導以上にすごかったのは、ラクなことを考えずに野球としっかり向き合って、準備を大切にしなさいという教えですね。
レギュラーになってからの話ですけど、試合前のミーティングでよく怒られました。『何で相手選手の打順とポジションを言えないんだ? ピッチャーの名前、覚えてないのか?』と。相手の1番から全員分の特徴を頭に入れて、ピッチャー全員の持ち球も覚えて、選手の名前もすべて覚えろと。この準備の大切さを教わったことは、後々まで生かされましたね」
チームの先輩では村中秀人(東海大/現・東海大甲府高監督)からよく助言を受けた。小川と同様に小柄だけに、技術面も考え方も参考になった。そうして、都市対抗予選でもベンチ入りした小川は、代打で結果を出す。ただ、それは単に技術を高めて打てたものではなかったという。
「予選は相当ピリピリした雰囲気になるんです。なぜかというと、都市対抗は会社全体のもので、一大イベントですから。それに対する責任感からピリピリする。そのなかで自分はまだレギュラーじゃないけど、メンバーに入っている。入っているからには責任がある、という意識がないと打てなかったと思います」
神宮球場でNTT東京と対戦した、東京都第一代表決定戦。延長戦の末サヨナラ勝ちしたプリンスの選手は帰りのバスで祝杯をあげ、合宿所では食堂でビールかけが始まった。まだ18歳の小川は酒を飲めず見るだけだったが、この一体感はすごいと感じた。さらに大会前、西武球場(現・ベルーナドーム)での強化合宿練習では、会社全体の一体感を目の当たりにする。
【野球部以上にハードだった応援部】「練習の合間に何気なくスタンドを見たら、応援部も練習してるんです。男子も女子もチアガールも、あの急な階段を走ったり、坂道ダッシュをしたり。それだけ体力をつけてるから、応援の動きにめちゃめちゃキレがあるんですね。やっぱり都市対抗は応援合戦でもありますから、会社をあげて力を入れているんだなと。応援部といっても、みんなホテルの仕事もあるわけなんで」
応援部の主将は、85年から野球部マネージャーも兼任した本社管理部の太田秀和(元西武球団社長)。慶應義塾大時代に応援指導部副主将を務め、野球部発足時からプリンスの応援を指揮していた。それだけに80年の都市対抗初出場時から、大会の応援団コンクールで特別賞を受賞。「強化練習」の成果の証として86年に優秀賞、87年、89年と最優秀賞に輝いている。
「合宿所の庭でね、応援部と決起集会をすることもありました。『都市対抗、みんなで頑張りましょう』って。応援部もみんな日焼けして真っ黒だったので、それだけ応援の練習をしていたんだなってわかりますし。そういう姿を見ていますので、試合で一生懸命に応援してもらっているのを見たら、余計に勝たなアカンとプレッシャーを感じるんですよ」
大会では後楽園球場の外野席までいっぱいになった。ふだんはホテルごとに別々の会社のようになっていたが、野球の応援でひとつになっていた。そのなかで小川は、初戦に代打で初出場。結果は三塁ゴロだったが、痛烈な打球だった。ここから4年連続で都市対抗に出場し、翌86年には3番を打つまでに成長。
87年は2番を打った小川は、チームがベスト4に進出した全4試合で通算19打数9安打6打点。2本塁打を放って打率.474と打ちまくり、4番・中島輝士とともに優秀選手、同年の社会人ベストナインを受賞する。都市対抗後には中島とともに初めて全日本に選ばれ、アジア野球選手権大会、インターコンチネンタルカップに出場。そして翌88年のソウル五輪を迎える。
「ソウルでよく覚えているのは準決勝の韓国戦。7回に中島さんのホームランで同点に追いついて、8回に2点とって勝った試合。あとは決勝のアメリカ戦ですよ。日本は先発のジム・アボット(ミシガン大/エンゼルスほか)と初めて対戦して3点とったけど、ティノ・マルティネス(タンパ大/マリナーズほか)に2本ホームランを打たれたのが響いて負けたんですよ。
最後、アメリカが勝った時の喜びようがね。やっぱり、4年前のロサンゼルスで日本に負けているから、それだけ思いは強かったんだろうなと。その姿を見て、なおさら悔しかったんですけど、自分のなかで達成感みたいなものはありました」
プリンスからは右腕の石井丈裕(元西武)も出場。そのほか野茂英雄(新日鉄堺/元近鉄ほか)、潮崎哲也(松下電器/元西武)、古田敦也(トヨタ自動車/元ヤクルト)、野村謙二郎(駒澤大/元広島)ら、のちにプロ入りする選手たちの活躍が光った。
【オリックス2位指名も記者会見なし】その五輪が10月初めに閉幕して翌11月のドラフト、小川はオリックスから2位で指名されて入団した。
「当日は記者会見もなかったし、ネットもありませんでしたので、球団から『2位で指名させてもらいました』と連絡をいただいて知りました。それまでにプリンスから10人以上プロに入っていて、その年は中島さん、石井さんも指名されましたからね。ただ、石山さんにお伝えした時は『よかったなぁ』って。『監督に言われたとおり、4年でプロに。ありがとうございました』と頭を下げたら『おお、頑張れ』と」
会社側から見れば、大事な選手が抜け、戦力減退につながるドラフト指名。とくにプリンスは高校出の選手が成長してプロ入りするケースが多く、チームの完成期がなかった。それでも、石山は監督として「プリンスホテルは高校生が育つと評価されればいい」と考えていたという。
「それにしても、プリンスで4年間やって、オリンピックに出て、プロ。すべて石山さんに言われたとおりになっているの、恐ろしいんですよ。ふつう『そんなんならんやん!』って思いますもん」
予言を現実にした小川はオリックスで1年目から遊撃のレギュラーを獲り、91年にベストナインを受賞して球宴に3度出場。95年のリーグ優勝、96年の日本一に大きく貢献した。2001年から横浜ベイスターズ(現・DeNA)で4年間プレーして引退となったが、強靭な体で休まず続けた16年間の現役生活。通算1720試合で1406安打、100本塁打、597打点という成績を残した。
引退後はオリックス、DeNAで打撃コーチを歴任し、現在はオリックスで社会貢献活動に携わり、バファローズジュニアの監督も務める。その一方で野球解説者としても活躍。すべて意義のある仕事で、何も不満はない。だが、プリンスホテル入社前に断念した高校野球の監督を、あらためて目指したい気持ちもある。
「やっぱり僕は勝負師なのかなと、自分で思う時がある。なんかウズウズしてしゃあない時があるんです。もう一度、グラウンドで花を咲かせられたらいいですね」
(=敬称略)