「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第31回 高橋直樹・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 今もファンの記憶に残る「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。洒落たメガネに口ひげという喫茶店のマスターみたいなルックス、それでいて美しいサイドスローからキレ味抜群の投球で勝ち星を重ねた高橋直樹さんは、1970〜80年代のプロ野球で異彩を放つ存在だった。

 甲子園、東京六大学、都市対抗とキャリアを重ね、プロでも通算169勝を挙げた高橋さんの球歴を振り返ると、「我が子を早慶戦で見ることに執念を燃やした母親」と「不思議な因縁で結ばれたライバル投手」の存在が浮かび上がってくる。


一目でわかる個性的なルックス。日本ハム時代の高橋直樹(写真・共同通信)

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 高橋直樹さんに会いに行ったのは2018年8月。きっかけは〈西武ライオンズ誕生40周年〉の同年、仕事の関係で球団の歴史を紐解いたときのことだ。1982年の埼玉・所沢移転後初優勝を語るに欠かせない選手として、その名が浮上した。

 82年6月、高橋さんは広島から移籍すると、当時は前期後期制のパ・リーグで西武の前期優勝に貢献。移籍後7勝を挙げて、日本ハムとのプレーオフ、日本一になった中日との日本シリーズでも登板している。

 さらに、球団史が書かれた雑誌の記事に、高橋さんの移籍には西武初代監督・根本陸夫が直に関わっていたと記されていて、僕は俄然、興味を持った。

「球界の寝業師」と呼ばれた根本は、西武監督時代から編成の仕事も兼任。新生球団の戦力を高めると同時に注目を集めるべく、78年オフのトレードで阪神の田淵幸一、ロッテの山崎裕之を獲り、ロッテを自由契約になっていた野村克也(元・南海)も獲得。他球団のスター選手たちを迎え入れていた。

 そのぶん、生え抜きの若手成長株を放出したが、巧みなドラフト戦略で次々に有望な新人を獲ることに成功。外国人補強も功を奏して、西武が誕生してわずか4シーズン目の82年、根本に代わって監督に就任した広岡達朗(元・巨人)のもと、初の優勝が成し遂げられたのだった。

 一方、現場を離れてフロント入りした根本の肩書は球団管理部長、実質的にはGMとなったのだが、後年、高橋さんを獲得した理由をこう明かしている。

〈若い投手陣の成長が止まっていたんです。高橋君には、そんな若手にはなかったひたむきで粘り強いプロ魂があった。それを西武の若手に吸収してほしかったんです〉

〈プロ魂〉はいかにして培われたのか──。そう思って、会いに行きたくなった。

 約束の午後1時より10分早く着いたが、高橋さんはすでに待ち合わせ場所に来ていた。神奈川・横浜市にある東急東横線の駅の改札を抜けた所。現役時代の特徴だった口髭はないが眼鏡はかけていてすぐわかった。半袖のワイシャツにネクタイを締め、チェック柄のジャケットとポーチを小脇に抱える姿は紳士そのもので、長身かつ細身の体格は73歳(当時)という年齢を感じさせない。

 挨拶を交わしてすぐ、高橋さんは「いつも行ってる喫茶店がありますので」と言って先に歩を進めたが、一瞬立ち止まって振り返り、人懐っこい笑みを浮かべながら口を開いた。

「僕は日本ハムでよかったんだけど、広島に行ってダメになりましたから。それでも、西武でまた勝てるようになったんですね」

 事前の連絡で〈野球人生についてうかがいたい〉と取材主旨を伝えていたからか、いきなりその球歴が端的に語られた。高橋さんはプロ18年間で東映〜日拓ホーム〜日本ハム、広島、西武、巨人と4球団を渡り歩いているのだが、移籍を機に成績には変動があった。その背景と〈プロ魂〉はどう絡んでいたのだろう。

 駅から程近い喫茶店に案内され、満席なら60人以上は入れる広い店内の真ん中の席で向かい合った。早速に野球人生の原点を尋ねると、大分出身の高橋さんは父親が教師で、中学時代には、大分全県で実施された模試で26番になるほど頭脳明晰だったという。

 しかも父親は県立佐伯中(現・佐伯鶴城高)野球部でプレーしていた上に、母親は日本女子大に在学中、早慶戦を観戦して感激。「私の子どもが男の子だったら絶対、野球選手にして、早稲田に入れて早慶戦に出られるようにする」と誓ったそうだが、実際に高橋さんは早稲田大でプレーしているのだから驚かずにいられない。

「うちの母親は身長が170センチ近くあって、大きかったんです。それで高校ではバレーボールをやって、東京に出て大学に通っていたとき、親父の後輩みたいな人が早稲田の野球部にいて、その人に早慶戦に誘われたと。

 当時の早慶戦といったら、神宮のスタンド全体が真っ白になりますからね。早稲田と慶應しか、こんな満杯の球場で試合はできないんだ、すごいなあ、とあこがれたんでしょう。観ているうちに、『私の子どもが男の子だったら...』と誓ったということです」

 今の時代なら、結婚後にそのように思う女性はいるかもしれない。が、これは戦前、今から80年ほど前の、独身女性の話......。と同時に、プロ野球スカウトの間で、「母親の体格がいいと男の子の体格もいい」と言われてきた話を思い出す。

「あんたには私の体力と能力をあげてるんだから、絶対、勝てるからって、高校のときに言われたことあるんです。実際、小学生のときから僕に野球やらせたのは母親です」

 文武両道を超えた高度な道のように感じるが、高校進学に当たって、高橋さんは津久見高・普通科の入試にトップの成績で合格している。中学で投手として活躍し、同校野球部から声をかけられてもいたのだが、学業で最高の結果を出していた。

「僕は頭がよかったんですよ、はっきり言って。先生が入学試験の答案用紙を下から見ていたら、『高橋のがない』と。野球部はだいたい下だからと見ていったら『ない』。どうしたんだ? と思ったら、いちばん上にあった。

 それで野球部でピッチャーとしては、最初はずっと上から投げてたんですが、1年が終わる頃かな、『今のままではね、お前にエース番号をやれない。ちょっと腕を下げたらどうだ?』って監督に言われたんです」

 当時監督の小嶋仁八郎(こじま にはちろう)は中央大、社会人の八幡製鉄で投手として活躍し、西鉄の前身球団=西日本パイレーツに所属した時期もあった(当時はプロ・アマ規定がなかった)。甲子園では67年の春、72年の夏、津久見高を優勝に導いた名将だが、選手に「ああしろ、こうしろ」と言わず、ヒントを与えて自分で考えさせる指導をしていたという。

「監督は詳しく言わないけど、バカじゃないから自分なりに考えたんです。オレの今のフォームじゃあ、あまりにも真面目過ぎる、おとなし過ぎる。もうちょっと、バッターに嫌われることをするのがいい方法じゃないかな、ということを、たぶん小嶋さんはオレに言っているんじゃないかなって」

 腕を下げるフォーム改造に取り組んだ高橋さんは、スリークォーターでは特にバッターが怖がらないことに気づく。そこでさらに腕を下げ、体を傾けてサイドスローにすると、すべてのボールが低めに行きだした。

「2ヵ月ぐらいしたら、僕がバッティング練習で投げるとみんな怖がるんです。上から投げてるときはバッターも向かってくるんだけど、下から投げるようになったら、みんな腰が引けて逃げるんですよ。そうか、監督はこれを言ってたんだなって、そのとき初めてわかって。

 自分が気持ちよく投げていてもね、相手も気持ちよかったら抑えられない。そう気づいたら、さらに体を傾けて、最後はストレートでもバッターのほうに食い込む球筋になってたね」

 投手と打者の対決に関して、お互いの「気持ちよさ」を焦点にした表現は初めて聞く気がする。「上から投げていると、どうしても手先で投げる感覚になってコントロールがつきづらい」という話も興味深い。振りかぶったあとに体が深く沈み込み、逆にテークバックで腕が高く上がる高橋さん独特のフォームを想起しつつ、話に惹き込まれた。

「監督は自分で考えることを大事にして、しかも自由にさせてくれました。ピッチャーがシートバッティングで投げる、紅白試合で投げる。終わったら、ピッチャーは何をやってもいい。だから僕はいつもキャッチャーと組んで、毎日、自分の役割が終わったら、近くの海岸線をずーっと走ってね。走るのだけは人より多くやりました。そんなことがだんだんと本当の自分の力になっていたんだなと」

 そうして63年、高橋さんは津久見高のエースとして夏の甲子園大会に出場。1回戦で中京商高(愛知)と対戦し、エースの三輪田勝利(みわた かつとし 元・阪急)と投げ合って3対4で惜敗したのだが、この三輪田との因縁めいた関係が大学、社会人、プロまで続くことになる。

「問題は甲子園のあとです。僕は津久見高校に入るときから早稲田に行きたかったけど、それ以上に母親の気持ちが早稲田に向かって、当時、朝日新聞の論説委員だった飛田穂洲(とびた すいしゅう)先生に手紙を出したんです。〈津久見高校の高橋投手は負けはしたけど優秀なピッチャーだ〉と、先生のコメントが新聞に載ったのを読んで、感謝の気持ちを書いたんですね。

 飛田先生は早稲田の野球部初代監督ですから、それこそ、早慶戦を観たときの話も含めて......。そしたら、お返事の手紙が届いて、〈息子さんの力はすごい。だから私は大学のほうに推薦するように言っておくから〉と」

 これは今の時代はもとより、いつの時代でもまずないだろうし、高橋さんが「問題」と言った理由もわかる。飛田穂洲といえば「学生野球の父」と呼ばれ、半世紀前でも「神様」だった人だ。もっとも、頭脳明晰な高橋さんは早稲田大に一般入試で合格している。入学後、1年生でただひとり飛田に声をかけられたそうだが、「神様」による推薦にどれだけの効力があったのか、定かではない。

「ひとつ言えるのは、母親は必死の思いで手紙を書いた、ということです。運もあったと思いますが、すべては母親の執念でしょう」

 早稲田大には甲子園で投げ合った三輪田も入ってきて主戦投手となり、高橋さんは控えに回った。三輪田がリーグ通算45試合で23勝9敗だったのに対し、高橋さんは12試合で2勝2敗だったが、4年時の秋には早慶戦2回戦に先発。神宮球場に呼び寄せた母親の前で、1対0というスコアで完封勝利を挙げる。

 この時期の高橋さんはコントロールに絶対の自信を持つようになっていて、「右バッターの膝元にシュートを投げまくったのが効いた」という。それにしても、母親が母親になる以前に立てた誓いが本当に叶えられたのは驚異としか言いようがない。そして、この早慶戦での快投がプロの目に留まり、高橋さんは67年のドラフトで東映から3位指名を受ける。

「でも、僕は断りました。それで社会人の日本鋼管に入社したんだけど、三輪田も近鉄の1位指名を拒否して大昭和製紙に入ったんです。そうしたら、翌年春のスポニチ大会。皮肉なことに1回戦が日本鋼管対大昭和製紙。いきなり三輪田と投げ合って、僕が完封して4対0で勝ったんです。それからですよ、あいつと僕の運命が変わったのは......」


口ひげはなくなっていた取材当時の高橋直樹さん

 東映入団を一度は拒否した高橋さんだったが、都市対抗での活躍もあってスカウトが執拗に追いかけるようになると、翻意して68年10月に入団。翌69年のプロ1年目から13勝を挙げ、即戦力として機能した。

 一方で三輪田は70年に阪急に入団したが、層の厚い一軍投手陣に割って入れず通算で4勝に終わり、73年に現役を引退。スカウトに転身し、一時コーチになるも81年からスカウトに復帰。球団がオリックスに身売りされたあと、イチローを発掘したことで注目された。

「それで編成部長になって、ドラフト1位の選手を獲れなくて、失敗して、責任を感じたのか、沖縄で投身自殺しましたよね。ショックでした。僕にとっては甲子園のときから因縁の相手で、早稲田では最後まで三輪田のほうが上で、社会人でもプロでも意識してました。僕が阪急戦でよく勝てたのも、三輪田がいる球団に負けたくない、という気持ちだけで......。

 話が飛びましたけど、永遠のライバルだから、あいつの話をしないと、僕の野球人生の話じゃなくなるんですよ」

 過去20年間、野球人の取材を続けてきて、このような言葉を聞くのは初めてだ。そこまで自身のライバルに言及した方はいなかった。ゆえに、98年11月に他界した三輪田の話も聞きたいところだが、ここではあくまで高橋さん自身の、東映での活躍について聞いておきたい。

(後編「『お前、遊んでんのか?』根本陸夫は高橋直樹が公園にいることを知っていた」につづく)