中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

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プロ2年目に阪神・小林繁からプロ1号を放った川又米利氏

 1軍の壁にブチ当たった。元中日の川又米利氏(野球評論家)は、高卒1年目の1979年シーズンを5月以降、最後まで1軍で過ごした。打撃に関してはそれなりの自信もあったが、ナゴヤ球場での秋季練習で腰を痛めてリタイア。それがつまずきのもとだった。ここで休んだことで「自分のバッティングがちょっとわからなくなってきた」。2軍では打てても1軍では駄目。そんな地獄の日々が2年目から6年目くらいまで続いた。「よく残してくれたと思う」。最悪クビも覚悟していた。

 1年目秋の悪夢だった。「まだ秋季練習が始まったばかりだった。アップして、ポール間を走った時に腰がぶっ飛んだ。痛くて歩けなくなった」。入院や手術はしなかったが、回復までは時間がかかった。「そのまま僕のオフシーズンが始まってしまった」。前兆はあった。「シーズン中から腰が張っているイメージがあったんです」。それが一気に来た感じだった。その時19歳。「やっぱりまだプロの体じゃなかったというか……」。

 順調だったプロ生活が一転した。歯車が狂った。復帰しても、自信に満ちあふれていた1年目の打撃に戻ることができなかった。逆に不安が増した。「自分のイメージ通りに振っても全然いい形で打てなかった」。1年目にあった「打てる」という感覚はなくなった。「なめていたのかもしれない。“いける”なんて」と思うようになった。すごく苦しかった。

 2年目の1980年6月28日の阪神戦(ナゴヤ球場)に代打で出場し、阪神・小林繁投手から初ホームランを放った。「ライトスタンドに打った。小林さんから1号を打てたのは、めちゃくちゃうれしかったですよ。ホームランは1年目に打てると思ったのに打てなかったので、もう打てないんじゃないかって考えたりもしていたんでね」。しかし、この一発も自身の起爆剤にはならなかった。2年目はその1本だけで、3年目と4年目は0本。腰痛の影響は予想以上に大きかった。

4年目はウエスタン・リーグ首位打者も…1軍では4安打

 4年目の1982年はウエスタン・リーグの首位打者になった。26試合連続安打もマークした。これは、1993年にオリックス・鈴木一朗(イチロー)外野手が塗り替えるまでウエスタン記録だった。しかし、1軍に上がるとバットは湿った。結局、この年は24試合に出場し、26打数4安打の打率.154で本塁打、打点はゼロ。中日1軍は優勝し、川又氏は西武との日本シリーズ第1戦と第2戦(いずれもナゴヤ球場)に代打で出たが、センターフライとライトフライに倒れた。

 舞台を西武球場に移した第3戦、第4戦、第5戦は出場なし。「西武球場には行ったけど、“上がり”だった。“上がり”だから、練習もさせてもらえなかった。僕には打つ時間がなかったからね。やることは球拾いだけだった」。悔しかったが、どうしようもなかった。ナゴヤ球場での第6戦も出場なし。中日は2勝4敗で日本一になれなかった。川又氏は何の貢献もできなかった。

 心機一転、5年目は背番号を「46」から「23」に変えてもらった。1982年限りで引退した強打の名捕手・木俣達彦氏がつけていた番号。「木俣さんにもかわいがってもらっていたので、『僕に23をください』と頼んだんです」という。「木俣さんは『欲しいのか、球団に聞いてあげるよ』と言ってくれて、球団からもOKが出た」。ところが「いざつけると重かった。マサカリ打法で、285本塁打の偉大な木俣さんを背負っているわけですからね」。気合を入れ直した。

 結果的にそれもプラスに働いたのか、その5年目は8月下旬の1軍昇格後に6本塁打、14打点をマークして、打率も49打数16安打の.327。だが、6年目は41試合、35打数4安打の打率.114、本塁打0、打点0の不振ロードに逆戻りだ。「何が駄目なのか。僕自身もわからなかった」という。もはやいつ戦力外を言われてもおかしくないと思っていた。「それを球団が我慢して残してくれたのかな」。厳しい立場を感じながらの闘いだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)