私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第23回
「ドーハの悲劇」をベンチから見ていた若き司令塔の回顧録〜澤登正朗(1)

「絶対にアメリカ(ワールドカップ)に行くぞ!」

 1993年10月、アメリカW杯最終予選の地であるカタール・ドーハに到着した時、澤登正朗はチーム全員から、言葉ではなく、そういう覇気みたいなものを感じた。


1994年W杯アジア1次予選を突破し、笑顔を見せる日本代表の面々

 澤登が日本代表に初めて招集されたのは、1993年1月のカールスバーグカップだった。所属する清水エスパルスはオフに入っており、チームメイトの青嶋文明、内藤直樹らと北海道へスキーに行っていた澤登がその連絡を受けたのは宿泊先のホテルだった。「代表に呼ばれたらから行くぞ」と、チームスタッフから電話がかかってきたのだ。

「(その時に招集されたチームは日本代表の清雲栄純コーチが指揮官を務め)A代表というよりもB代表みたいな感じで、若手中心のチームだったんです。でも、代表ですし、憧れの場所に呼ばれたうれしさがありました。大学時代に(同世代の)磯貝(洋光)や森山(泰行)らが代表に入って羨ましさがあったんですが、ようやく追いついたかなと思いました」

 この大会でスタンドから見ていた日本代表監督のハンス・オフトの目に留まった澤登は、続く2月のイタリア遠征にも参加し、4月から始まったアメリカW杯アジア一次予選に挑む代表メンバーにも選ばれた。ラモス瑠偉やカズ(三浦知良)、柱谷哲二ら主力がいるチームに馴染むのは、それほど時間がかからなかった。

「カズさんをはじめ、A代表の人の半分ぐらいが"静岡人"なんですよ。日常的に(チーム内では)静岡弁が飛び交っていたので、特別な場所っていう感じがしなくて、自分としては馴染みやすかったです。ラモスさんも『おい、ノボリ』と声をかけてくれて、すごく居心地がよかった」

 澤登はできるだけ多くの人の声や考えを聞けたらと思い、食事の時はいろいろなテーブルに顔を出した。

「基本ビュッフェなので、上の世代の人たちから(食事を)取りに行って、おのおのテーブルに着くんですが、僕はカズさんやラモスさんなどがいるところに行って、同じ世代とかで固まらないようにしていました。そういうところに行くのが結構大事で、みんな、個性が強いので、自分から溶け込むような積極性がないとダメなんです。ひとりで離れたところで食べていると孤立しちゃいますからね」

 食事のテーブルでは先輩に気を遣いつつ、多くの選手と積極的にコミュニケーションを図った。また、遠征の際には澤登ら若手が空港での荷物の出し入れを率先してやった。

「今はエキップメントがいて全部やってくれますけど、僕らの時代は選手が協力して荷物を運んでいました。僕は当時、一番下っ端だったんで、何回もターンテーブルとバスを行き来しました。それがふつうでしたね。

 練習でもボールを全部拾って片づけるとか、それも当然のようにやっていました。そういうのを自分たちの前の先輩たちがやってきていたので、それが染みついていたんでしょうね」

 だが、ピッチに立てば先輩・後輩関係なく、自らをアピールし、先輩たちにも遠慮せずにさまざまな要求をした。

「カズさんがボールを持っている時には、『カズ、出せ』ってふつうに言っていました。(ピッチ上では)それが当たり前ですし、ピッチ上と外ではきちんとメリハリがついている感じでしたね」

 そうして、澤登は一歩ずつ、代表チームに溶け込んでいった。

 W杯アジア一次予選の第1ラウンドは、日本で集中開催された。タイ(1−0)、バングラデシュ(8−0)、スリランカ(5−0)、UAE(2−0)と対戦。澤登は初戦のタイ戦で途中出場し、代表デビューを果たした。その試合以降も途中出場ながら、4戦中3試合に出場した。

 第2ラウンドはUAEで開催され、日本はタイ(1−0)、バングラデシュ(4−1)、スリランカ(6−0)と順当に勝利し、地元UAEとの対戦を迎えた。6点以上の差をつけられて負けなければ、最終予選への進出が決まる。

 その試合を前にして、澤登に日本から身内の訃報が届いた。

「僕の祖父がなくなって、『帰るか?』とスタッフに聞かれたんですけど、『それはない』と即答しました。ただその分、がんばらないといけないと思っていましたね」

 そして試合前日、スタメンで出場予定だった福田正博が体調不良で練習に不参加。澤登はオフトから「スタメンで行くぞ」と言われ、「よし、やってやろう」と意気込んでいた。

 しかし、試合前のミーティングでスタメンには福田の名前が記されていた。

「(スタメンが)発表された瞬間、『福田さんかよ』って思いました。(先発で出る)気持ちの準備をしていたので......。でも、だからこそ、途中から出場した時には『やらなきゃ』という思いが強くなりました」

 試合は0−0のまま進み、澤登は後半31分、福田に代わって出場。その後、37分にUAEが先制した。だがその直後、澤登が同点ゴールを決めた。1−1で引き分けて、日本が最終予選進出を決めた。

「(自分のゴールは)シュートを打った瞬間、GKが触っていたんですが、決まったんです。『お爺ちゃんが決めさせてくれたのかな』って思いました」

 ゴールを決めると、澤登はオフトの元に向かった。「大事な場面で使ってくれて、ありがとう」――そんな気持ちが湧いたのか、無意識のうちにオフトのところに走っていったという。

 オフトは、日本代表初の外国人監督だった。「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」など、チームとして実践すべき戦術を明確に言語化し、浸透させていった。澤登は「緻密で組織的なサッカーをする人」と見ており、個人的にもいろいろな指摘を受けた。

「(味方から)どのようにボールを引き出して受けるのか。自分がボールを持った時は、どういうところを狙ってパスを出すのか。オフトさんからは、そういうことをよく言われていました。そこが僕に足りない部分だと、オフトさんは見ていたと思います。

 僕はそうして言われたことと同時に、ピッチで自分をどう表現するのかということを大事にしていたので、個人の考えとオフトさんの要求にうまくマッチできるように考えていました。それが多少でもできるようになっていたので、最後までチームに残れたのかなと思います」

 1993年9月、W杯アジア最終予選に挑むメンバーの生き残りをかけて、澤登はスペイン遠征に臨んだ。スペインでは3試合のテストマッチを消化。澤登は、初戦のベティス戦、3戦目のヘレス戦で先発出場した。ベティス戦ではラモスと共闘し、最終予選ではスタメンの座を狙えるのではないか、という期待論が膨らみ始めていた。

 だが、その頃の澤登は別の思いを持って代表で戦っていた。

「サッカー選手なので、もちろん試合には出たいですよ。でも、ポジションを取りたいという気持ちというより、『(日本代表で)何かを吸収したい』『うまくなりたい』という思いのほうが強かったですね。

 あの代表はラモスさんをはじめ、うまい人ばかりで、一緒にサッカーをしていると自分もうまくなれると思っていたんです。もっと自分に、チームで確固たるポジションを築いていくんだという強い思いがあったら、違う結果が見えてきたかもしれないんですけど、代表はいるだけでサッカーが楽しかったので、スタメンまでの欲がなかった」

 澤登は代表にいることの恩恵を、所属チームに戻ってきた時にも感じていた。

「やっぱり代表の選手はみんなレベルが高いので、たとえば僕がこうしてほしいという動きを言わずともしてくれるんですよ。そういう時って、本当に楽しくプレーできるんです。

 チームに戻ると、チームとしてのやり方はあるんですけど、やはりクオリティが少し下がるところがある。その誤差をどう埋めていくのかということも、代表に行かないとわからない。

(代表にいることは)自分の成長のためには欠かせなかったですし、代表から戻るとコンディションがよくなって動きがいいんです。遠征や試合で疲れているはずですけど、調子はいいので、チームでも結果を残せるんですよ」

 ポジション奪取にそこまでどん欲ではなかったからか、澤登はこのスペイン遠征でオフトから厳しい目を向けられることになる。

 オフトとしては、澤登とラモスとの共闘がお互いのよさを出し合って、チームにプラス効果をもたすだろう、という狙いがあった。しかし澤登は、自らが率先してゲームメイクをするというより、ラモスにボールを預けることが多く、彼のよさは消えていた。ラモスをリスペクトし、楽しくプレーすることへの意識が強かったせいか、チームのなかで個性が埋もれてしまった感があったからだ。

 澤登は「このスペイン遠征は記憶がない」と言った。

 スタメンをラモスから奪い取る気迫を持って試合に臨んでいれば、最終予選で大きなチャンスをつかんでいたかもしれない。もしかすると、彼自身にもそんな思いがあったからこそ、スペイン遠征のことは自分のなかで封印してしまったのかもしれない。

 オフトのなかでの選手の序列はこの時、変わった。澤登に出番が回ってこなかったことを含め、それはW杯アジア最終予選の3戦目にはっきりわかることになる――。

 いよいよW杯最終予選が間近に迫ってきたが、日本代表はいくつかの不安を抱えていた。まずは、負傷して戦列を離れていた左サイドバック、都並敏史の穴埋めである。スペイン遠征では、江尻篤彦や勝矢寿延らを試したが、都並の代役を任せるまでには至らなかった。また、守備の要である柱谷が風邪の影響でスペイン遠征を不参加。体調面での不安がささやかれていた。

 そうした状況のなか、最終予選へ向けての壮行試合となるアジア・アフリカ選手権が行なわれた。日本はコートジボワールと対戦し、1−0と勝利した。この試合では、柱谷が復帰し、左サイドバックも急きょ招集された三浦泰年が抜擢され、無難なプレーを見せた。

「チーム全員が『W杯に行くぞ!』という雰囲気がすごかった。僕も正直、もう行けると思っていました。そのくらいの勢いが選手、チームにあったし、うまさもあった。しかも『アメリカに行く』という気持ちで、みんながひとつになっていた。『あ〜、これが本当の一体感なんだな』って思いましたね」

 W杯アジア最終予選は、10月15日からカタール・ドーハで開催された。サウジアラビア、イラン、イラク、韓国、北朝鮮、日本の6カ国総当たり戦で行なわれ、上位2チームに本大会の出場権が与えられる。

 日本の初戦は、サウジアラビアだった。当時"アジアの雄"であり、1992年アジアカップ広島大会決勝で対戦した強豪だ。アジアカップでは高木琢也のゴールで勝利したが、この最終予選では初戦の難しさもあり、堅い試合となって0−0のドローに終わった。

「開幕戦なので、まず負けないということが大事。それにサウジは強いので、引き分けは悪くないという感じでした。

 ですから、チームの雰囲気はよかったです。初戦でドローだと、『う〜ん』といった重たい空気になることもあると思うんですけど、みんな次の試合に向けて集中している感じでした」

 強豪相手に勝ち点1は、まずまずのスタート。澤登はこのチームの堂々とした戦いぶりから、間違いなくアメリカに行けると信じていた。

(つづく/文中敬称略)(2)「ドーハの悲劇」をベンチから見た澤登正朗>>

澤登正朗(さわのぼり・まさあき)
1970年1月12日生まれ。静岡県出身。東海大一高(現・東海大翔洋高)、東海大を経て、1992年に清水エスパルス入り。以来、2005年までエスパルス一筋でプレー。「ミスター・エスパルス」と称され、チームの顔として活躍した。Jリーグ初代新人王。1999年にはベストイレブンに選出される。日本代表ではハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンが指揮官を務める時代に奮闘。その後、代表からは遠ざかるも、フィリップ・トルシエ率いる代表で一時復帰を果たした。国際Aマッチ出場16試合、3得点。2013年から常葉大学サッカー部の監督を9年間務め、現在はエスパルスユースで指揮を執っている。