睫畋臉が今も忘れない六本木交差点封鎖。「あの時ほど慶應大野球部の歴史と伝統を感じたことはない」
『4軍くん(仮)』コミックス第1巻発売記念SPECIAL!
大学野球を10倍楽しく見よう!特集〜第1回 慶應大OB・郄木大成氏
『ヤングジャンプ』で連載中の「4軍くん(仮)」のコミックス第1巻発売を記念して、「大学野球を10倍楽しく見よう!」特集がスタート。今回は東京六大学野球部OBの6人にご登場いただき、母校について熱く語ってもらった。第1回は慶應義塾大学出身の郄木大成氏だ。
慶應大から95年ドラフト1位で西武に入団した郄木大成氏
── 郄木さんは桐蔭学園高校の時に甲子園で活躍し、打って走れる新時代のキャッチャーとして注目を集めました。ドラフト1位確実と言われるほど、プロからの熱心な誘いもあったのに、それを断って慶應義塾大学への進学を決めたのはなぜだったんですか。
郄木 僕は中学の頃から、高校で甲子園に出て、大学では神宮でプレーしたいという気持ちを持っていました。テレビで早慶戦を見て、大学と大学がぶつかり合うという歴史を感じる雰囲気に憧れて、東京六大学で野球をやりたいと思っていたんです。
── 早慶戦を見て、早稲田に行きたいという気持ちにはならなかったんですか。
郄木 早稲田という選択肢もありました。でも早慶戦を見て、自分なりに早慶の野球に違いを感じたんです。早稲田の野球は監督をピラミッドの頂上とした高校野球の延長、慶應の野球は学生主体の野球、ということでした。実際に入学してからも、当時の前田祐吉監督から『君たちは大人なんだから君たちで考えてやりなさい、脱線しそうになったら私が整えるから』と言われましたし、それが慶應の"エンジョイ・ベースボール"の原点なんですよね。その自分たちで考えてやる野球が自分に合っていると思って、僕は慶應に行きたいと思ったんです。
── 慶應に入学して、野球部に入って、どんなことを感じていましたか。
郄木 慶應では一浪どころか二浪して入学してきた選手がレギュラーとして活躍することも珍しくありません。僕の時代は、高校野球の強豪校で揉まれてきていない、甲子園とは無縁だった人でも、受験で慶應に合格すれば野球部に入れましたし、毎日ちゃんと練習してうまくなれば、ベンチにも入れました。しかも優勝だってできる......そういうところは慶應ならではかなと思います。
── 1年の秋にリーグ戦で優勝しています。
郄木 あの時は歴史を感じましたね。野球部の歴史は当時で100年を超えていましたから......真っ先に思い浮かぶのは、神宮外苑から三田キャンパスまで優勝パレードをした時のことです。優勝を決めたのが月曜日だったので、警察が夜の交通量が多い時間帯に六本木交差点を封鎖したんです。あれには驚かされました。歴史と伝統がなければこんなことにはならないよなって......。
── 郄木さんは1年生の時から試合に出ていましたよね。初めてのパレード、さぞ気持ちよかったんでしょうね。
郄木 いやいや、オープンカーに乗れるのは4年生の主力で、僕は1年生だったので歩いていました。平日なので慶應の卒業生だというビジネスマンがたくさんビルの窓から手を振ってくれているんです。日本の政治、経済を担う多くの方を輩出してきた慶應の歴史を感じました。高校ともプロとも違って、大学野球は"半分、大人"の野球だと思います。
高校野球は甲子園という子どもの頃からの目標を叶えるための集大成、プロ野球は個々の技術を磨いて取り組む職業でした。でも大学は母校を背負う野球です。野球が強いことも大事ですが、社会に出た時に必要とされる人間形成も求められます。プロ野球が誕生する前に高校野球が生まれて、高校野球の前に大学野球が始まった。そういう歴史と伝統はしっかりと継承してほしいし、東京六大学野球のプライドは大事にすべきだと思います。
【慶應大のアイデンティティ】── その東京六大学のなかで、慶應のアイデンティティはどこにあると思っていますか。
郄木 それは"エンジョイ・ベースボール"に尽きると思います。エンジョイの捉え方は個々で違うんですが、慶應ではそれぞれの人にそれぞれの目標がありました。4年間、慶應で野球をしたいという人もいれば、僕のように慶應で優勝してパレードしたいと思う選手もいる。エンジョイという言葉を、勝つために苦しむのではなく、勝てなくても楽しくやると解釈するチームメイトがいて、衝突したこともありました。
── 4年の時、郄木さんはキャプテンでしたから、そういう価値観のギャップに向き合うのは苦しかったでしょうね。
郄木 同じ練習をやっていても、自分を追い込むためにガンガンやるのか、満喫するためにガンガンやるのか。それって似て非なることなので、キャプテンをやっていた時期はすごく悩みましたね。僕がキャプテンになった春、キャンプでアメリカに行ったんですが、練習内容も練習時間も僕には物足りない。わざわざアメリカまで来て、なぜ毎日ぶっ倒れるまでやらないのか、と......。
全体練習が終わって、ホテルのプールで日焼けしてる人もいたんです。そういう時、彼は『オレはそんなふうには考えないから』と言うんです。いま思えば、そういう考え方は慶應には合っていたのかもしれません。そこにプラスアルファする感じで、僕の考えを入れてやれたらよかったんでしょうね。当時はそうじゃないと自分の考えを押しつけようとしていました。
── 最後はわかり合えたんですか。
郄木 最終的にはみんなが納得して、一緒に戦えた感じはありました。4年秋のリーグ戦はすごくいいチームになっていたと思います。ただ、リーグ戦では明治に優勝をさらわれて慶應は3位だった......あの時、優勝していれば、このチームでよかったという終わり方ができたと思うんですけど、そうはうまくはいきませんでした。
── それでも郄木さんは、大学3年の春(1994年)、早慶戦では44年ぶりとなる天覧試合でのホームランを打っています。
郄木 じつはあのホームランは天皇陛下が到着なさる直前に打ったんです。だから陛下には見ていただけなかった(苦笑)。野球界で天皇賜杯を下賜されるのは六大学野球のリーグ戦優勝校だけです。天覧試合も慶應じゃなかったら経験できなかった。そういうところでも歴史を感じます。慶應のユニフォームの"KEIO"の胸文字も、"KE"と"IO"の間がやたらと開いているでしょう。普通なら4文字をバランスよく配置するのに......あれって昔はボタンを留める真ん中の部分に文字を入れられなかった名残なんです。そういうところにも歴史を感じますよね。
郄木大成(たかぎ・たいせい)/1973年12月7日、東京都生まれ。桐蔭学園高から打てる捕手として活躍し、3年夏に甲子園出場を果たす。高校卒業後は慶應大に進学し、3年、4年時はベストナインに選出。4年時は主将としてチームを牽引。95年のドラフトで西武を逆指名し入団。プロ入り後はファーストにコンバートされ、97年、98年にゴールデングラブ賞を獲得。05年に現役引退後、西武ライオンズの社員として営業やPR等の事務に携わる。2011年にプリンスホテルに異動。約5年間のホテル業務を経験したのち、2017年より再び西武ライオンズの社員となり、現在はライツビジネス事業部部長として忙しい日々を送っている。