カエル目の輸送機C-74「グローブ・マスター」ナゼその形に? ヒット作ならぬも残した功績
いまから77年前の9月5日、ダグラス社が開発した輸送機C-74「グローブ・マスター」が初飛行しました。ヒット機にはならなかったものの、独自の設計と隠れた功績を持つ機体です。
世界一周を2度の着陸で…
1945年9月5日、アメリカの航空機メーカー、ダグラス社により設計された4発プロペラ輸送機、C-74「グローブ・マスター」が初飛行しました。この機はヒット機とはいえなかったものの、多くの功績を残しているともいえる輸送機といえるでしょう。
C-74「グローブ・マスター」(アメリカ政府所蔵)。
C-74は1942年、アメリカ陸軍航空隊が、旧日本海軍の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において、大西洋を横断可能で太平洋の作戦にも投入できるような長い航続距離と、大きな搭載量を持つ戦略輸送機をダグラス社に依頼したことから開発が始まります。
この「グローブ・マスター(Globe Master)」という名前、ダグラス社の系譜をくむボーイング社によると、2度の着陸だけで、世界を一周できることに由来するのだそう。訳すと「地球を制する者」、そういったイメージの命名なのかもしれません。30t近い貨物を積むことができ、最大3万7500マイル(1万1670km)の航続距離を持つと過去の文献には記載されています。
C-74における最大の特徴のひとつは、コックピットの外形です。前から見るとコクピットの窓がカエルの目のようになったこの機体は、機長・副操縦士のそれぞれに個別のキャノピーを設ける「ツイン・バブル・キャノピー」が採用されています。ただこのレイアウトは2者のコミュニケーションに支障を来たしてしまうとして、のちほど改修されています。
アメリカの航空業界では、第二次世界大戦時などの戦時において、最前線の戦闘機、攻撃機、爆撃機などの第一線機だけでなく、兵糧などの後方支援部隊で使用する輸送機についても非常に力を注いで、高性能な機体を生み出してきました。ここにダグラス社も大きく関わっています。
たとえば「C-47」輸送機は1万機以上生産され、戦後に大量に民間に安価で放出、「DC-3」として民間転用され活躍することになりました。それに次ぐ「C-54」戦略輸送機も、民間転用により「DC-4」となり、JAL(日本航空)草創期の主力機にもなっています。
でも売れなかったC-74…なぜ? しかし功績も
ただ、名門ダグラス社製の開発であり、機体性能も高かったにもかかわらず、C-74「グローブ・マスター」は14機しか製造されませんでした。これはこの機の開発に予想以上の時間を要してしまっているあいだに、第二次世界大戦が終結してしまったため。当初50機の発注を得ていたにもかかわらず、政府の意向で航空機生産がキャンセルとなってしまったのです。
その一方で、1948年、米ソ対立によって生じたいわゆる「冷戦」発生を発端に、ソビエト連邦が、西ドイツの西ベルリンに向かう交通を全封鎖した事件、冷戦時代の最初の国際危機「ベルリン封鎖」で、C-74は活躍します。この物資補給飛行である「ベルリン空輸」に同機が使用されました。このとき、C-74は「100人以上の乗客を乗せて北大西洋を横断した最初の航空機」という記録を打ち立てています。
C-74「グローブ・マスター」(画像:アメリカ政府所蔵)。
このC-74での「ベルリン空輸」を経て、ダグラス社はC-74のエンジン、当時ピストン・エンジンで最強の出力を持つと呼ばれたR-4360に換装し、胴体を拡大発展させて総2階建てとしたC-124「グローブ・マスターII」を生み出します。この機は500機近く量産され、アメリカ空軍で重要な役割をもつ主力輸送機として活躍することになりました。
ちなみにダグラス社はその後C-124「グローブ・マスターII」をさらに発展させ、エンジンをさらに出力の高いターボ・プロップ・エンジンに換装して、より巨大な戦略輸送機とする「C-132」の開発にも着手しましたが、ボーイング社の「C-135」ジェット輸送機が出現したこともあり、原寸大模型の製作のみで、実機の飛行にはいたりませんでした。ちなみに、「グローブ・マスターIII」の愛称は、ライバル社であるマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社の一部)」で開発されたC-17に採用されています。