包囲された城にまさかの”踊りながら入城”!?会津戦争でとんでもない奇策を講じた藩士がいた
日本最大級の内戦といわれる会津戦争、語られるのは悲惨なことがほとんどですが、なかには藩士が会津伝統の彼岸獅子を踊りながら城に逃げ込んだという痛快なエピソードもあります。
今回は会津戦争について詳しく紹介しながら、彼岸獅子を踊った藩士についても紹介したいと思います。
会津戦争とは
1867年の大政奉還により、新政府軍と旧幕府軍の間で「戊辰戦争」と呼ばれる戦いが勃発。
日本各地で大きな戦いが巻き起こり、日本最大級の内戦とも呼ばれています。
なかでも、会津藩の処遇をめぐっておきた戦いのことを「会津戦争」と呼びました。
会津戦争勃発のきっかけ
当時の会津藩主・松平容保は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れたことを知り、徳川慶喜の指示に従って会津に戻り、謹慎していました。
しかし、おとなしく謹慎していた藩主・松平とは裏腹に、会津藩内のあいだでは好戦的な主戦論をとなえる者が多くいたのです。そのことを察知していた新政府側は、おとなしくしていた藩主・松平もろとも、会津藩を警戒するようになります。
狙われた会津藩
会津藩を警戒していた新政府軍は1868年3月11日に江戸城が無血開城されると、幕府を補佐する「佐幕」の重鎮でもあった藩主・松平へ矛先を向け、目の敵にしたのです。
倒幕を目指す新政府軍は、仙台藩や米沢藩に追い打ちを命じて一気に会津藩を片付けようとしますが、思い通りにはいきません。
追討を命じられた仙台藩や米沢藩が会津藩に同情し、会津藩への赦免嘆願の声をあげたのです。
奥羽越列藩同盟
会津藩への赦免嘆願をキッカケに、会津藩・仙台藩・米沢藩の間で結束力が誕生し、奥羽越列藩同盟を結成します。その後、嘆願書の提出や朝廷に建白をおこなうなど会津藩の存続に尽力。しかし新政府には、会津藩への赦免は受け入れてもらえませんでした。
そのようななか、仙台藩士が新政府の官僚である世良修蔵を殺害したことがキッカケで、会津戦争が勃発。多くの死者を出す、国内最大級にして最悪の内戦となったのです。
彼岸獅子
会津若松城
会津戦争では新政府軍が有利な状態となり、奥羽越列藩同盟は追い詰められます。
若松城に逃げ込みたい奥羽越列藩同盟ですが、若松城周辺はすでに新政府軍に包囲されていました。そこで何を思ったか、会津藩の山川浩は「踊りながら入城」しようと提案。会津伝統の彼岸獅子に変装して、笛と太鼓を先頭に堂々と入城したといいます。
新政府軍が攻撃しなかったことについては、「突然のことで呆気にとられたのではないか」と言う説と「会津伝統の踊りの奇怪さに手が出さなかったのではないか」と言う2つの説があります。
入城後の奥羽越列藩同盟
攻撃されることなく入城を果たした奥羽越列藩同盟ですが、最終的には長期にわたる籠城生活の末に食料が尽き、降参を余儀なくされました。
追い詰められ、四面楚歌となったときには山川浩のように奇抜な策を実行してみるのも、ひとつの手段かもしれません。