2002年日韓W杯、全代表チームの「背番号10」を振り返る

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20年前の2002年に行われた日韓ワールドカップ。出場した全32チームの10番たちを振り返ってみる。

グループA

デンマーク

マーティン・ヨルゲンセン(当時26歳、ウディネーゼ所属)

爆発的なスピードと変幻自在のドリブル、そして、「コンピューター」の異名の元となったクレバーなプレーでデンマークの一時代を支えたアタッカー。

ちなみに、デンマーク語は表記と発音に差異があり、実際の発音は「ヨアンソン」というような感じ。

フランス

ジネディーヌ・ジダン(当時29歳、レアル・マドリー所属)

説明不要の超レジェンド!

セネガル

カリル・ファディガ(当時27歳、オセール所属)

日韓大会で旋風を巻き起こしたセネガルの攻撃陣を司った秀英レフティ。オセールでもオリヴィエ・カポ、ジブリル・シセとともに活躍した。

ウルグアイ

ファビアン・オニール(当時28歳、ペルージャ所属)

ユヴェントスにも所属した大型MF。怪我の影響でW杯本大会では出場機会なし。

2012年に八百長で有罪判決を受け、資産を失ったうえ、アルコール依存症に苦しむことに…。ちなみに、アルバロ・レコバは20番だった。

グループB

パラグアイ

ロベルト・アクーニャ(当時30歳、レアル・サラゴサ所属)

「トーロ(猛牛)」の異名で呼ばれたパラグアイの重鎮MF。

老練なゲームメイクに強烈なミドルシュートも武器とする有用選手だった。

スロベニア

ズラトコ・ザホヴィッチ(当時31歳、ベンフィカ所属)

魅惑のテクニックと才能を持っていていた天才レフティ。ただし、問題児的な一面も…。

3年以上も対立してきたスレチコ・カタネツ監督と本大会中に衝突し、グループステージ初戦の後にチームを去っている。

南アフリカ

ベネット・ムングニ(当時28歳、スパルタク・モスクワ所属)

2002年のCLでレアル・マドリー相手にゴールを決めたこともあるMF。その際、ジダンからユニフォームをねだられたと本人は語っている。

W杯期間中に兄弟が亡くなったことで母国に一時帰国するも、離脱せずにチームに戻った。ただし、出場機会はなし(写真もなし…)。

スペイン

ディエゴ・トリスタン(当時26歳、デポルティーボ・ラコルーニャ所属)

“スーペルデポル”の一員として活躍した本格化ストライカー。やや独善的ではあったが、左右両足から繰り出すミドルシュートは圧巻だった。

引退後にかなり太ってしまったことが話題になったことも。

グループC

ブラジル

リヴァウド(当時30歳、バルセロナ所属)

バルサでも10番をつけたモンスターレフティ。日韓大会では5ゴールを決めてW杯優勝に貢献した。

ただ、トルコとの準決勝で相手を退場に追い込んだ大袈裟な演技も強く印象に残っている…。

中国

ハオ・ハイドン(当時32歳、大連所属)

中国代表史上最多得点記録を持つレジェンドFW。

中国サッカーの“ドン”といえる存在だったが、2020年に「共産党は人類から追放されるべき」などと公然と中国政府批判をしたことが話題になった(本人はスペインで生活)。

コスタリカ

ワルテル・センテーノ(当時27歳、サプリサ所属)

コスタリカ代表歴代3位となる通算137試合に出場したレジェンドMF。

長短のパスを使ったゲームメイク、単独突破からシュート、さらに、体は小さいが当たり負けせず空中戦も可能など実力派だった。

トルコ

ユルドゥライ・バシュテュルク(当時23歳、レヴァークーゼン)

鉱夫としてドイツに来たトルコ人の父のもとにドイツに生まれの秀英MF。

惜しみない運動量、機敏なドリブル、飛び出しを武器にブンデスリーガでも10番として活躍した。2008年にファティ・テリム監督と衝突したことで代表チームを去っている。

グループD

ポーランド

ラドスワフ・カウジュニ(当時28歳、コットブス)

190cmを超える長身を誇ったコントロールタワー系MF。ゲームメイカータイプで、視野の広さや得点力が魅力だった。

ポルトガル

マヌエル・ルイ・コスタ(当時30歳、ミラン)

ポルトガル黄金世代のひとり。鮮やかなテクニックとスルーパスでチャンスをクリエイトした攻撃的MF。

ちなみに、本当の名前のつづりは、Rui Manuel César Costaであり、本来ならルイ・マヌエル・コスタのはず。それがイタリアに移籍した際の選手登録でそれがひっくり返ってしまった。ただ、本人は「まあ、どちらでも構わないよ」と語っている。

韓国

イ・ヨンピョ(当時25歳、安養LGチータース※現FCソウル)

韓国代表史上4位となる通算127試合に出場したレジェンド。

10番ながら、左サイドバックを主戦場に、両サイドや中盤もこなせる仕事人として活躍した。PSV、トッテナム、ドルトムントでもプレー。

アメリカ

クラウディオ・レイナ(当時28歳、サンダーランド所属)

代表戦112試合に出場した実力派MF。

DFラインの前で淡々とボールを捌くのが常だが、テクニックと視野の広さを武器に攻撃の核にもなれた。

息子のジョヴァンニ・レイナはドルトムントで活躍中。そのジョヴァンニという名前は父の当時のチームメイトだったオランダ代表DFジョヴァンニ・ファン・ブロンクホルストからとったもの。

グループE

カメルーン

パトリック・エムボマ(当時31歳、サンダーランド所属)

ガンバ大阪時代には「浪速の黒豹」としてJリーグを席巻したモンスターFW。

もともとはPSG出身で、PSGがこの夏の日本ツアーを発表した会見にも登場した。

ドイツ

ラース・リッケン(当時25歳、ドルトムント)

当時の最年少でブンデスリーガデビューを果たすなどドルトムントで期待された攻撃的MF。

1997年のCL決勝では、ファーストタッチでユヴェントスを粉砕する圧巻シュートを叩き込んで英雄に。その後は故障などに苦しんだが、ドルトムント一筋でプレーした。

※W杯本大会では出場なしだったため、写真は2001年の予選時

アイルランド

ロビー・キーン(当時21歳、リーズ)

アイルランド代表の最多キャップと最多ゴール記録を持つレジェンドFW。

圧巻のスピードを持つストライカーとして18歳で代表デビューすると、エースとして長年チームを支えた。

サウジアラビア

ムハンマド・アル・シャルフーブ(当時21歳、アル・ヒラル)

小柄ながら、卓越した左足を持ち、「ベイビー・マラドーナ」とも呼ばれた攻撃的MF。代表戦には100試合以上に出場したほか、クラブではアル・ヒラル一筋で20年に渡ってプレーした。

W杯では22分しかプレーしなかったこともあってか、写真なし。上記写真は2000年アジアカップ時。

グループF

アルゼンチン

アリエル・オルテガ(当時28歳、リーベル・プレート)

アルゼンチンが生んだ稀代の天才ドリブラー。キレと相手を欺く深い切り返しが特徴的だが、高いパスセンスも有していた。

海外リーグではなかなか活躍できなかったが、代表では水を得た魚のようなプレーを見せた。

イングランド

マイケル・オーウェン(当時22歳、リヴァプール)

リヴァプールで若くしてブレイクすると、「ワンダーボーイ」として一世を風靡した快足ストライカー。

2001年にはバロンドールを受賞したが、UEFAチャンピオンズリーグ優勝は果たせず。ちなみに、父親はエヴァートンでもプレーした元選手で、彼自身もエヴァートンファンだった。

ナイジェリア

ジェイ=ジェイ・オコチャ(当時28歳、PSG)

世界最高レベルのテクニックと高速フェイントを併せ持っていた天才ドリブラー。

見るものを魅了する至高のドリブルテクでまるでサーカスのようなプレーを見せた。ロナウジーニョ以前のエンターテイナーといえば彼だ。

スウェーデン

マークス・アルベック(当時28歳、ヘーレンフェーン)

代表戦74試合に出場したイケメンFW。

チームが苦しい時に勝利を呼び込めるなど抜群の勝負強さをもっており、スーパーサブとしての資質を持っていた。

グループG

クロアチア

ニコ・コヴァチ(当時30歳、バイエルン)

DFとして活躍した弟ロベルトとともにクロアチアを支えたMF。

テクニックは欠けるものの、ピッチに必要な中盤のファイターとして、そして、チームを牽引するリーダーとして君臨した。

エクアドル

アレックス・アギナガ(当時33歳、ネカクサ)

代表戦109試合に出場したレジェンドMF。弟フアンも代表選手だった。

16歳でプロデビューすると、長らく代表キャプテンとして第一線で活躍。小柄ながらスキルフルなプレーが持ち味で、得点力、パス、テクニックは一級品。また、守備もよくする選手であった。

イタリア

フランチェスコ・トッティ(当時25歳、ローマ)

弱冠16歳でデビューしたローマにキャリアを捧げた”プリンチペ”。中田英寿とプレーしたことでも有名だ。

日韓大会では韓国との決勝トーナメント1回戦で退場。そのレッドカードとダミアーノ・トンマージのゴールを取り消したバイロン・モレノ主審の判定は物議を醸した。

メキシコ

クアウテモク・ブランコ(当時29歳、バジャドリー)

代表戦120試合に出場したレジェンドFW。1998年W杯の韓国戦でやった「カニばさみ」でも有名だ。

クラブチームでは背番号100を背負ったこともある(メキシコは3桁の背番号があり)。

引退後は政治家に転身したが、殺し屋を雇って実業家を殺害した疑惑をかけられたことも…。

グループH

ベルギー

ヨハン・ヴァーレム(当時30歳、スタンダール)

90年代のベルギーサッカーを代表する司令塔MF。

抜群のキック精度を誇る左足からのスルーパスは美しく、質実剛健な選手が揃う当時のベルギー代表においては異色の技巧派タイプだった。

日本

中山 雅史(当時34歳、ジュビロ磐田)

日本代表とJリーグを支えた魂のストライカー。9番を背負った1998年大会では、歴史的な日本のW杯初ゴールを決めた。

中村俊輔の落選もあり、“精神的支柱”としての滑り込み選出だった2002年大会は10番を着用。中田ヒデなどから「似合わない」とからかわれている。

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ロシア

アレクサンデル・モストヴォイ(当時33歳、セルタ)

攻撃的サッカーで当時のリーガを席巻していたセルタの中盤に君臨した天才MF。

センスの塊のような圧巻のスルーパスは惚れ惚れするものだった。リーガファンにはお馴染みの存在だったが、W杯での対戦が決まったことで日本での知名度が一気に上がった。

チュニジア

カイス・ゴドバヌ(当時26歳、エトワール・サヘル)

チュニジア代表史上4位となる95試合に出場したレジェンドMF。

中盤の底でゲームを作るプレーメイカーだったが、守備も悪くなく、ヘディングも巧く、両足から繰り出すミドルシュートも精度が高い実力派だった。