意外と新しい「初詣」の歴史 ― 鉄道が生んだ庶民の娯楽行事と皇室ナショナリズムの結合 - 平山昇 - BLOGOS編集部
※この記事は2018年01月01日にBLOGOSで公開されたものです
初詣といえば、言わずと知れた正月の恒例行事である。しかし、意外にも、初詣は明治時代に鉄道と深く関わりながら生まれた比較的新しい慣習である。
新しい慣習「初詣」は川崎大師ではじまった
江戸の人々も正月の社寺参詣はしていたが、現代のように元日(三ヶ日)に集中していたわけではない。彼らは「いつ」「どこに」に関する細かいルールを守ってお詣りしていた。例えば、川崎大師には元日ではなく大師の初縁日である二一日にお詣りするのが一般的だった。
また、元日は年ごとに変わる「恵方」(その年の福徳をつかさどる歳徳神がいるとされた方角)にもとづいておこなう「恵方詣」が主流であった。つまり、「正月だから適当にどこかの社寺へ・・・」という現代の初詣の感覚ではなかったのである。
明治になって最初に初詣が定着したのは、川崎大師である。明治五年、我が国最初の鉄道が新橋―横浜に開業したが、奇しくも川崎大師はその沿線に位置していた。川崎大師の周辺は、現在は市街地化しているが、明治期はとてものどかだった。
そこで「ちよツと汽車にも乗れ、ぶらぶら歩きも出来、のん気にして、至極妙なり」(『東京朝日新聞』1891年1月3日)として、川崎大師に正月休みの行楽を兼ねて、恵方や縁日などといった細かい縁起にこだわらずに参詣する人々が増えていった(当時は汽車に乗ること自体もハレの経験であった)。そして、この新しい慣習が「初詣」と呼ばれるようになったのである。
図版1 「初詣」の初出(『東京日日新聞』1885年1月2日)
「初詣」という言葉が使われたもっとも早い史料と思われる新聞記事。三ヶ日は川崎大師へ「初詣」に行く人が多いので、川崎駅に急行列車が臨時停車すると報じている。
初詣客の膨張をもたらした鉄道の乗客争奪戦
現在、川崎大師、成田山といった有名社寺の三ヶ日の初詣は凄まじい賑わいぶりであるが、これもやはり鉄道によってもたらされた。東京をはじめとする大都市圏では鉄道網の充実とともに路線が並行・近接する鉄道どうし(国鉄VS私鉄または私鉄VS私鉄)で熾烈な乗客争奪戦が生じ、これが初詣客の膨張をもたらしたのである。
なかでも激しかったのが、成田山初詣客をめぐる国鉄と京成の競争である。国鉄は大正期までに上野―成田と両国―成田の二つのルートを有していたが、1926年12月に京成電軌が押上―成田間を全通させたことにより、両者の乗客(=参詣客)争奪戦が勃発した。
国鉄が「例年にない列車の大増発」「〔運賃の〕破格な割引」「〔成田駅前での〕湯茶の接待等のサービス」(『東京朝日新聞』1932年12月31日)とくれば、すかさず京成がさらに安い割引運賃にくわえて「「純金」と「純銀」の不動尊像と開運御守りを乗客に抽選で出」すなど徹底抗戦――。漁夫の利を得た乗客(=参詣客)にとって成田山はますます参詣しやすくなり、1940年には鉄道を利用する成田山初詣客が元日だけで243,000人、1926年の実に約10倍にまでふくれあがったのである。
図版2 京成電車による成田山初詣の新聞広告(『東京日日新聞』1935年1月6日)
京成電車と石鹸メーカーのコラボ広告。京成電車は、運賃割引だけでなく「金・銀不動尊像開運御守呈上 其他洩れなく粗品贈呈」というサービスもうたっている。
実は、この激しい競争は初詣の時間帯も変えた。1927年の大晦日に、国鉄は新しい試みとして大晦日に両国駅を出発する成田臨時列車を運行した。言わばライバルを出し抜くためのフライングである。
するとその1年後、京成はすかさず終夜運転を導入した。国鉄も負けじと1931年の大晦日から成田初詣臨時列車の終夜運転にふみきり、他の私鉄各社も次々と追随した。それまでの初詣は元日の早朝以降が当たり前だったのだが、国鉄と私鉄各社の終夜運転の急速な普及によって、大晦日から元日未明にかけて初詣に赴く「二年参り」がまたたくまに定着したのである。
なお、筆者は大阪の初詣の形成についても調査してみたが、多少の相違点を除けば東京とほぼ過程をたどったことが確認できた。
伊勢神宮と明治神宮 ― 皇室ナショナリズムと結びついた初詣
このように鉄道とともに生まれ育った初詣であるが、明治の終わり頃まではもっぱら庶民の娯楽行事の性格が強く、もともと天皇や国家とは格別な結びつきはなかった。
それどころか、文明開化に象徴される欧化政策などによって上流階級の人々は神社仏閣にお詣りすることを「迷信」として蔑視する風潮が強く、「天皇は尊崇するが、神社は迷信の対象なので尊重しない」という感覚がごく普通であった。
だからこそ、神社界は「国家の中心は、勿論皇室である。併し皇室の後には、神社有ると云ふ事を忘れてはならぬ」(丸山正彦「神社は我が邦徳育の中心たらざる可からざる事」『神社協会雑誌』11-3、1912年)とわざわざ強調しなければならなかったのである(右派も左派も「皇室+神社」を一体化して捉えるのが常識となっている現代ではおよそ生じえない言説であろう)。
しかしながら、現在では、首相の正月の伊勢神宮参拝が恒例となっているように初詣は上下の階層をとわず広く浸透した「国民的」な行事となっており、明治期の状況からは大きく隔たっている。どのような過程を経てそうなったのだろうか? 重要な役割を果たしたのが伊勢神宮と明治神宮である。
まず前者であるが、明治の終わりになると、東京の上流階級のなかで遠路はるばる伊勢神宮に初詣をしに行く動きが少しずつ広まり始める。要因として考えられるのが、大逆事件である。日露戦争後の社会・経済の動揺に危機感をつのらせた政府は、1908年に戊申詔書を出して引き締めをはかった。
ところが、それからまもない1910年に大逆事件(幸徳事件)が明るみになる。周知の通り現在では多くが冤罪であったことが判明しているが、当時の人々は詔書をもってしてもこのような事態が防げなかったと受け止めた。
ここで、言葉や理屈による従来の国民教化に限界を感じ、伊勢神宮参拝を国民すべてが体験することで統合を図ろうという主張が登場する。このようななか、一部の上流階級の人々が率先垂範の意味をこめて正月休みに伊勢神宮へ初詣に赴くようになったと考えられる。
ただし、神宮参拝客が未曾有のペースで激増しはじめるのは1917年のことである。大戦景気によるツーリズムの急拡大という要因もあったが、政治思想的な要因としてはロシア革命(1917年)と米騒動(1918年)が重要である。
明治以降つくりあげてきた天皇制国家を揺るがせかねない重大事が立て続けに起こったことで強烈な危機感が広まり、大逆事件へのリアクションを規模拡大する形で伊勢神宮参拝がかつてないほどに重視されるようになった。
「世には思想問題がやかましい。敬神崇祖の念を国民の間に深からしむることは今わが国の識者と教育家の間に切りに唱へられてゐる。〔中略〕原首相、床次内相、その他名流の士の伊勢大廟に参拝することは、近ごろ殊に流行事のやうにさへ思はれる観がある」(『読売新聞』1919年1月16日)。
この傾向は短期的なブームとして終わることはなく、年末の東海道線の列車内では「代議士諸君ノ帰郷ヤ東京紳士達ノ伊勢参拝ニ乗客頗ル多ク車中大ニ賑フ」(『関一日記』1925年12月30日条)という光景が戦前を通じて恒例となった。
もっとも、伊勢は東京から行くには時間も費用もかかる。東京の初詣が皇室ナショナリズムと結びつく決定打となったのは、1920年に東京の代々木に誕生した明治神宮である。
この神社の初詣は、それまでの東京の正月風景になかった新しい様相を呈した。創建翌年の1921年、明治神宮は初めての正月を迎えたが、新聞は「大官も女工も」という印象的な見出しとともに次のように報じている。
「元旦の明治神宮は帝都を始め近縣の参詣人で時ならぬ大賑を呈した。〔中略〕参詣人は女工の団体を始め軍人商人又は参賀帰りの大官等、孰れも雪解けの泥濘路と歩きにくい砂利詰の神道を冒して第一第二の神門をくゞると、其処は雪解けの雫が瀧の様に降りかゝつて来て、晴着がびしよ濡と言つた有様。其れでも皆神前にぬかづいて引下がつたが、参詣人は立替り入替り詰かけて夕方まで続いた。折から参拝を終つた波多野〔敬直〕前宮相は「東京市民は之れ迄斯うした初詣りをする立派なお宮が無かつたが、今度明治神宮を得て何しろ結構である」と語つて居た」(『東京日日新聞』1921年1月2日)
「帝都」である東京には、宮城(現在の皇居)はあったものの、皇室ゆかりの「立派なお宮」はなかった。
しかし、明治神宮が誕生したことにより、上流階級から庶民まで様々な階級・身分の人々が大勢一緒になって神社に参拝するという行事が、東京の正月行事に初めて登場したのである。
図版3 明治神宮の初詣の賑い(『アサヒグラフ』6-2、1926年)
1926年の元日に明治神宮内苑の南門前で撮影された写真。自動車の多さに注目したい。当時、自動車はごく限られた上流階級しか所有できないステータス・シンボルであり、このような初詣の光景は明治神宮創建以前の東京では見られなかった。明治期以来の初詣の主体だった庶民だけでなく、新たに上流階級も明治神宮の初詣に参加するようになったことを象徴する写真である。
実際、様々な知識人の日記をみてみると、それまではどの神社仏閣にも初詣をしていなかったのに、明治神宮が誕生すると家族を連れて毎年この神社に初詣をするようになったという事例を見出すことができる(東京商科大〔現一橋大〕教授であった上田貞次郎など)。
大正・昭和戦前期でも神社仏閣にお詣りすることへの抵抗感は、高学歴の人々のあいだに根強く残っていたが、敬愛する明治天皇が祀られ、すこぶる荘厳な雰囲気のこの神社であれば、抵抗感なくすすんで参拝するようになったのである。
かくして、もともと明治中期に鉄道の発達とともに庶民の娯楽行事として成立した初詣は、明治末期以降に伊勢神宮・明治神宮と結びつくことによって、上流階級から庶民まで様々な人々が参加する「国民」の正月行事へと変貌していったのである。
平山 昇 ひらやま のぼる 九州産業大学商学部准教授 1977年、長崎県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は日本近代史。鉄道と社寺参詣の関わりに着目して研究する。著書に『初詣の社会史』(東京大学出版会、2015年、第42回交通図書賞受賞)、『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社、2012年)など。