※この記事は2017年07月20日にBLOGOSで公開されたものです

「アッチョ~」。

今でも、そう叫ながらふざける人は多いかもしれない。団塊の世代にとってブルース・リーはヒーローだったはずである。テレビドラマを観ていても、たまにリーの真似をする俳優のシーンを見かける。

リーが、この世を去ってから44年目の夏を迎えた。来年は45年目になる。

懐かしいな…と思いつつ、リーについて振り返ってみたいと思った。なぜか?

リーは、今でこそ〝70年代のヒーロー〟として語り継がれているが、そのほとんどが彼の死後のものである。亡くなった時、日本ではニュースにもなっていなかった。つまり〝伝説のヒーロー〟だったわけだ。

とにかくリーには逸話が多い。例えば、死因についても公式には「脳浮腫(のうふしゅ)」と発表されたが、真実は44年経った今でも謎である。筆者にとって、ブルース・リーというのは興味深い人物の一人なのだ。

73年7月20日。
リーの死は余りにも突然だった。映画「死亡遊戯」の製作中での突然死だった。世界中の映画ファンにショックを与えたことは言うまでもない。特に、香港に住む中国人には大きな悲しみと衝撃を与えた。現地の長老芸能記者も「香港でのショックの大きさは地元紙にも表れていたよ」と言いながら、当時を語り始めた。

「リーの急死を報じた21日付から25日の葬儀まで、全ての新聞が連日1面でリーを扱っていたからね。あの時のことは今でも鮮明に覚えているよ。こんなことはリーの死後、現在までなかったからね。まさに前代未聞のことだった。リーの死は芸能を超えた事件でもあった。驚くのはリーの追悼写真まで売り出されて飛ぶように売れたことだったね。リーは香港の生んだ英雄だったわけさ」。

本名は「李振藩」。中国での芸名は「李小龍」。米サンフランシスコ生まれの中国系米国人。父親は米巡業中だった広東演劇俳優のリー・ホイチョン。

■人気に目をつけた米ワーナー・ブラザーズ

リーの才能に目をつけたのは香港の辣腕映画プロデューサー、レイモンド・チョウ氏だった。

71年。チョウ氏は自らが主宰する香港の映画会社「ゴールデン・ハーベスト」にリーを招いた。狙い通りだった。リーが主演した映画「ドラゴン危機一発」は大ヒットした。

そういった香港映画でのリーの人気に目をつけたのが米ワーナー・ブラザーズだった。 ワーナーがゴールデン・ハーベストと提携してハリウッド映画として製作したのが「燃えよドラゴン」である。しかし、この映画が全米で公開されたのはリーの死後1ヶ月経ってからのことだった。

「リーの逸話は、この映画で生まれたといってもいいかもしれない。つまり『燃えよドラゴン』はリーの死後に全米で封切られ、当時、『ゴットファーザー』の13万ドルに迫る大ヒットとなった。要するに彼は、死後に世界的大スターになったということなんです」(前出・地元の長老芸能記者)。

32歳の若さで逝ったリーを米国では「東洋のジェームス・ディーン」と称え、その死を惜しんだと言う。

しかし、その一方でリーが急死した原因が当初、全く発表されなかったことから、これが謎となって一人歩きした。その後「脳浮腫が原因」と発表されたものの、ファンの間では疑問視する声が大きかった。

深まる死因について当時、リーの育ての親となったチョウ氏は
「多量のアスピリン使用で脳浮腫が膨張し血管が切れた」
と説明した。

これが公式発表になっていたが、〝香港を代表する武闘家〟だったリーが何故、多量のアスピリンを常用していたのかなどの疑問は明らかにされていなかった。

■共演女優の家で…

そういった中でチョウ氏が「死んだ場所が映画女優のベティ・ティン・パイの家だった」と吐露したことが、新たな波紋を呼んだ。

そこでチョウ氏は
「ペティとリーは『死亡遊戯』(遺作)の撮影に入っていて、その脚本の一部を変える打ち合わせをするために、私とリーは一緒に彼女の家を訪ねた」。

打ち合わせの途中、リーの体調に異変が起こったというのだ。

「疲れて頭が痛いと言い出したので横になった。心配したペティがリーに薬を与えたんですが、それは彼女の主治医が彼女のために処方した頭痛薬だった。薬を飲んだリーをぺディは、自分のベッドに寝かせたが、その後、リーの様子がおかしくなり意識不明の状態に陥ってしまった。で、医者を呼んで入院させる手配をした」。

リーは、救急車でクィーンエリザベス病院に搬送したが、ついにリーの意識は戻ることがなかった。チョウ氏によると、入院して45分後に息を引き取ったという。

「私は、リンダ夫人を病院に呼んだ。リンダ夫人はリーの死を聞くや、夫がペティの家で倒れたことはジャーナリズムには秘密にして欲しいと懇願された。夫の名誉と、ペティの女優生命を気遣ったのだと思う。でも、これが憶測を呼ぶ結果になってしまった」。

しかし、その一方で、リーの死に関して香港の英字紙「チャイナ・メール」は「ブルース・リー」(米国のジャーナリスト、アレン・ベン・ブロック氏の著書)の内容を連載した。

その中でリーの死に関して
「調査の結果、血液中に大麻の痕跡が発見され、最終的には誤って死んだと判定された」。
新たな死因を持ち出してきたことから、さらに大きな騒動へと発展した。

もともとはリーと働いたことのある空手家のエド・バーカーの推測として書かれたものだったというが、それによると、リーには映画業界の仲間を含めて多くの敵がいたそうで「検視解剖を行っても分からない秘密の中国の薬を盛られたのかもしれない」とも言われていた。

■日本映画界は〝香港の空手役者〟程度の認識だった?

死因は「薬物」には変わりはないが、これまで、さまざまな憶測が流れた。そういった中で、英国から呼ばれた専門医が検視した結果「リーがアスピリンとトランキライザーの超過敏体質だったため脳浮腫を起こした」と発表した。

リーの葬儀は73年7月25日にゴールデン・ハーベスト社が仕切って香港で執り行われた。その葬儀には2万人を超すファンが参列したという。しかも葬儀には米国からスチーブ・マックィーンやジェームス・コバーンらもスケジュールを変更して駆けつけ、リーの死を惜しんだという。

なお、撮影半ばで製作が中断していた「死亡遊戯」は、それから5年後に完成して公開された。

冒頭でも記した通り、今でこそ伝説化されて語られているものの、リーの死について当時、日本ではほとんど報道されていなかった。

「日本では話題にすらならなかった。日本でのブルース・リーの人気は、亡くなった直後にハリウッド映画として公開された『燃えよドラゴン』が全米で大ヒットしてからなんです」(映画関係者)

日本で公開されたブルース・リー作品は74年1月の「燃えよドラゴン」が最初だった。その後は「危機一発」「怒りの鉄拳」などが続々と公開されていった。

「正月映画として公開されたが、映画が公開されるや日本でも熱狂的なカンフー映画ブームが巻き起こった」(前出・映画関係者)。 

当時、日本の映画興行界は香港映画に全く興味を持っていなかった。正直言ってブルース・リーの名前を聞いても『香港の空手役者』程度の認識しかなかったと言う。

「恐らく、映画関係者の間でも香港映画はバカにされていて、試写すら観たことのない人ばかりだったのかもしれませんね」(当時を知る週刊誌記者)。

日本で香港映画が低く見られていたことは事実だが、リーの登場で、その状況は一転したことは言うまでもない。巷にはヌンチャクを振り回す小中学生で溢れ、ヌンチャクはバカ売れした。

90年代の後半まで東京・渋谷にあったマニア向け洋書専門店「アルバン」では、店内の一角に「ブルース・リー」コーナーまで設けられていた。「輸入ビデオや写真集、さらにはリーのフィギュアまで販売したところ、全国からファンが殺到して店内が混乱しましたね」(当時を知る業界関係者)。

紆余曲折あったが、あれから44年。ブルース・リーの人気は今なお健在だ。