※この記事は2016年09月29日にBLOGOSで公開されたものです

「夢と狂気の王国」というスタジオジブリのアニメーション制作現場の裏側を描いた映画がある。(2013年・砂田麻美監督)長期密着の質の高い作品だったが、私がまず惹かれたのは、「夢と狂気」というタイトルだった。

最近テレビコンテンツのクオリティ・オリジナリティの低下が囁かれているが、私もテレビマンが少々「大人しくなったな。」と最近は感じることがある。

わたしが日本テレビに入社した1982年頃はまさに「朝から晩までテレビの事ばかり考えている」と言い放つ『テレビ馬鹿』と「俺が責任取るから、お前らは面白いことを追求せよ。」等と嘯(うそぶ)く『テレビ侍』の群れがテレビ局には蠢(うごめ)いていた。口をかけるのもためらわれるアウトローな先輩に私達は鍛えられた。ある意味そこはテレビ界における「夢と狂気」の王国だった。

ジブリというアニメーション世界の中にも第一級品を作るためには「夢と狂気」が必要である事をこのドキュメンタリー作品は知らしめてくれた様に思う。そして、最近、コンテンツ創造に秘められた「夢と狂気」からさらにそれを推し進めた創造における「情念と狂気」について書かれた本に出会った。

春日太一著「鬼才・五社英雄の生涯」(文春新書)である。

私に取っての「五社英雄」とは元フジテレビのドラマディレクターで「三匹の侍」を当て、拳銃不法所持で会社を解雇された後、映画「鬼龍院花子の生涯」「極道の妻たち」等を当てた多少不良性のあるテレビ屋・映画監督であるとの認識であった。

しかしこの「鬼才・五社英雄の生涯」を読むとわかるのは、私生活に恵まれることは無かったが、朝から晩まで新しい表現を求めてもがき苦しんできたテレビ屋・映画屋「鬼才・五社英雄」の起伏に富んだ生涯の記録である。
刀で人を斬るシーンの効果音に異常にこだわり、斬新な殺陣を編みだし、無謀にも「打倒!黒澤明」と言い放ち、「宮本武蔵」等テレビで次々と問題作を放ち、「御用金」等で没落寸前の映画界で異能を発揮し、フジテレビの管理職になるも、無茶な番組制作をしたり、まさにコントロール不可能な状態になり左遷。そして、東映の岡田茂にも一目置かれ、極道でもないのに入れ墨を入れる。

この「五社物語」出てくる人物が凄い。朋友・丹波哲郎と始めた無謀、無名時代の長門勇・発見、新人・夏八木勲、名優・仲代達矢との邂逅、特別出演・三島由紀夫の切腹シーン、大作家・池波正太郎との確執、脚本家・高田宏治との共謀、女優・夏目雅子の最期の輝き、俳優・緒形拳の再発見、岩下志麻と女性映画開眼秘話、勝新太郎との決裂。・・・これ以上書けないがとにかくエピソードもディテールに渡って濃いし、それぞれ深い教訓と味わいがある。

「天才」と呼ばず五社を筆者が「鬼才」と呼ぶのにも訳がある。才能もエネルギーもたっぷりあった五社だが「多作」であったため「傑作」もあるが「失敗作」もある。でもその作品群の制作過程を知ると、この未来永劫にわたりコンテンツ制作に付きまとうであろう「生みの苦しみ」と「幸運さ」と「予期せぬ不幸」が五社を悩ませ、前に押し出す様子が描かれる。それは巨匠たち、「黒澤明」でもない「小津安二郎」でもない「北野武」でもない「宮崎駿」でもない「人間らしさ丸出し」の「五社英雄の物語」なのだ。

テレビ・映画と格闘し、決して器用と呼べない五社だがそこには「新しい独自なモノ」を作ってやろうという熱と企みとケレン味がある。それはまさに「情念と狂気の王国」と呼ぶにふさわしい生涯であり、今テレビが失っているものであると思う。奇人・変人・天才・鬼才・野人・人間失格者・アウトローが消えつつあるこの世界でかつて無謀を働き、表現の幅を広げて来た男・五社英雄の様な存在はもう出てこないのだろうか?
春日太一という畢竟の書き手を得て、綿密な調査の末、甦った荒々しい「五社ワールド」。これを恵比寿あたりでチョロチョロと合コンをしているテレビマンはただの「異物」と捉えるのであろうか?

非日常・新表現を求めた「五社世界」。最近テレビでそんな映像を見ることが無くなった気がする。

(了)