スポーツは安全性を前提になりたってはいない - 赤木智弘
※この記事は2014年11月15日にBLOGOSで公開されたものです
フィギュアスケートの羽生結弦が、練習中に中国の選手と衝突したものの、怪我をおして出場した件について。まず、自分の立場を明確にしておくと、僕は出場を決めた羽生やコーチたちの判断を尊重する。
「賛同する」でもなく「感動した」でもなく「尊重する」だ。
その一番の理由は、羽生が世界の第一線で戦うフィギュアスケート選手であり、またそのコーチたちも一流である。そうしたプロたちの判断に、素人が安易に立ち入るべきではないと判断するからだ。
今回の事故で、ツイッターなどのネットメディアには「脳震盪を起こしたのに、出場なんてとんでもない」という批判が飛び交った。特に当初に「日本チームにチームドクターが帯同していなかった」と報じられたことにより「脳震盪を起こした羽生に演技をさせたのは間違いだった!」と、医師やスポーツ選手などがツイッターなどで積極的な批判を行った。
やがて論調は「羽生は脳震盪を起こして、正常な判断ができなかった。それなのに出場させたのはコーチ陣の失態」「フィギュアスケート界は脳震盪を甘く見ている」といった、感情的かつ中傷的な反発に変化していった。
後に、羽生はアメリカチームのドクターの診察を受け、脳震盪の兆候がなかったという判断があったことが判明した。さらに、コーチは出場をやめさせようとしたことや、立ち上がれなかったのは、みぞおちを打ったからであるということなども判明している。
しかし、どうやらその事実は黙殺されて「脳震盪を起こしたのに羽生を止めなかったフィギュア界の責任」ばかりが追求されそうな雰囲気がある。
これまでも練習中の衝突事故はあった。競技レベルが大きく向上し、スピードもアップしている今、6分間のウォーミングアップを6人同時に行うのは無理があるという。また、チームドクターについても、極力帯同したほうがいいのは言うまでもない。
そうしたことは提言としては真っ当だと思うが、一方でテレビとネットの向こう側で、映像を見ただけの医者やスポーツ関係者が安易に「脳震盪を起こした」ということを当然の前提として、世間に対して「ほら、脳震盪はこんなに危険ですよ」「フィギュアスケートは旧態然とした危険なスポーツですよ」と煽り立てていく手法には、違和感を感じた。
実際、事故後1日くらいは「医者なら絶対に止める」「欧米なら出場させない」「日本人の根性論が羽生に無理をさせている」といった批判が飛び交っていた。しかしながら、医者なら、欧米ならという論理は、アメリカチームのチームドクターが診察していたことで一掃される。そして、フィギュアスケートは決して日本中心のスポーツではない。羽生のコーチであるオーサーはカナダ人だし、フィギュアスケートの中継を見れば多くの国の人達がいろんな立場で関わっていることを見ることができる。そうした中で羽生だけに日本人の根性論を当てはめるのは無理があるだろう。
しかし、そうした言論は今もなお、まとめサイトやバイラルメディアなどで広がりを見せており、未だに羽生が脳震盪を起こしたということになっている人も少なくないのではないか。
彼らは一様に「感動よりも安全のほうが大切だ」と主張する。「自分は羽生の身体を心配して、主張しているのだ。それなのにコーチ陣は羽生を出場させた。許せない」と、さも羽生のことを気遣っている姿勢を見せる。
しかし、ここが僕にはとんでもなく引っかかるのだ。なぜなら最初に書いたとおり、僕にとっては最終的に出場するかしないかは、素人である僕たちが安易に踏み込むべき領域でないと考えているからだ。
実際にその場にいて、自ら演技をする人たちの意思を無視してまで、医学的な常識感に基いて、その出場を批判して当然という考え方は、僕にはとても乱暴なものに見える。
確かに、スポーツ選手が世間から結果を求められ、そのプレッシャーが選手を壊していくという構図はよく見られるものだ。今回、羽生の出場を批判している人の中には、そうした「日本人のスポーツ選手にかける、自分勝手な期待」に対する反発もあるのかもしれない。
だが一方で、その憤りは「羽生が自分の考えたとおりに出場辞退をしなかった。気に入らない」という態度を含むものではなかっただろうか。そしてそれは選手たちに当然のように金メダルを望む自分勝手な期待と、何が違うというのだろうか。
結局のところ、メダルにせよ棄権にせよ、自分たちが望む結果を選手が生み出さなかったことにこそ、怒りを感じているのではないだろうか。
そもそも、羽生の健康と安全を第一に物事を考えるなら、彼はフィギュアスケートなどをするべきではないのだ。
当然のことだが世界のレベルで戦うスポーツというものは、常人のスポーツと同じではない。どんなスポーツでも常人を超えた身体への負担をかけなければ、世界のトップには立てない。
我々がスポーツを観戦するときに、その裏にあるのは選手たちの常人離れした苦労である。そして、そうした基礎の上にある世界最高峰の演技や試合に、私達は感動するのである。
そして、彼らの努力を肯定する根拠は、彼らがそれを望むからである。硬い氷の上で回転ジャンプしたり、プロテクターを付けた身体同士を激しくぶつけあったり、お互いにパンチで相手を殴り倒そうとする。そうしたスポーツが肯定される根拠は決して安全性ではない。
もし、F1レースが危険だからといって「時速100キロを上限にして、無理な追い越しはやめましょう」ということにしたら、もはやそれはレースではないし、人を熱狂させることはない。スポーツにおいて華と危険性は紙一重なのだ。そしてそのことを一番はっきりと認識しているのは、その競技の選手自身だろう。
だからこそ、競技の安全性への認識はその競技の培ってきた歴史に左右される。フィジカルコンタクトが多い競技であればあるほど、脳震盪に敏感であることは納得できる。しかしだからといって、そのことが他の競技の安全性への認識を下に見ていいということにならないことはいうまでもない。
繰り返すが、僕は羽生とコーチ陣の判断を尊重する。
そして、そのことに問題があるのだとすれば、それを華の部分のバランスを取りながら、より安全な競技に変化させていくのは、フィギュアスケートに関わる人たち自身だ。外野が無責任に口を挟むべきことではない。