<追悼・伝説の「元祖テレビ屋」井原高忠さん>テレビショウ生みの親は「日本のテレビには、プライドがない」と語った - 吉川圭三
※この記事は2014年09月16日にBLOGOSで公開されたものです
吉川圭三[ドワンゴ 会長室・エグゼクティブ・プロデューサー]
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つい先日、日本テレビの大先輩にして私にとっては恐れ多い神様の如き存在、伝説の「元祖テレビ屋」の井原高忠さんがアトランタで亡くなった。85歳の大往生だった。
入社しばらくして日本テレビ会長の故・小林與三次や敏腕専務の故・柴田秀利氏をあの手この手でその気にさせ、巨額の旅費を捻出させ、アメリカに何度もエンターテイメント・ショービジネス・テレビジョンの詳細な研究に行き、それを試行錯誤の末、要素を取り出しローカライズ化させ日本のテレビに一大革命を起こした演出家・プロデューサーだ。
「光子の窓」「11PM」「ゲバゲバ90分」「カリキュラマシーン」「24時間テレビ」等、無数のヒット番組に関わり日本テレビのバラエティの黄金時代の基礎を築いた。
三井財閥の縁戚で慶応大卒。育ちは良いが無頼派。戦後はアルバイトの進駐軍向けバンドでアルバイト費を稼ぎ、その後の芸能界のルーツとなる人脈とも知り合う。また育ちの割に武闘派として知られ、局次長の時、大芸能プロダクションとも一歩も引かぬ交渉を繰り広げ、一大抗争を繰り広げたのも有名である。
私が入社した時には、第一制作局長を最後に退社した直後だった。色んな伝説が残っていたが、井原さんの
「このテレビの仕事をやるなら、テレビに向かないおバカさんは田舎に帰ってジャガイモでも作っていた方が良いですよ。その方が本人も回りのスタッフも幸せなんだから。」
という有名な言葉があるが、察するにオッカナイ方だ。
その後、縁があり何回かお会いしたが、気さくに何でもお話ししてくれた。でもやはりそのお話は核心をついて面白いのだが、かなりの迫力がある話であった。
辞めて2年後、井原さんを敬服する私の上司が在住のハワイから日テレの会議室に呼ぶ。井原さんがグッチのモヒカン靴を履いてお洒落にやってくる。そのプロデューサーは不敵にも既に終了した名番組「ゲバゲバ90分」を復活してほしいという依頼したのだ。井原さんは「テレビはその時代のものだから。」と一蹴。若い私の方を向き「今はどんな番組が流行ってるんですか?」と聞く。
私は迷った末「オールナイトフジですかね。」と答えた。井原さんは言う。
「あれはテレビのカラオケ化です。誰が作っても誰が出てもテレビになってしまう時代がやって来たのです。素人または素人もどきでも芸が無くても面白ければ良いじゃないか、という発想。現在のテレビにはそういう要素があるし、それもテレビ文化の新しい1つの必然です。私は個人的に余りああいうものは好まないが。」
なるほど。なるほど。
そしてゲバゲバの話をすっ飛ばし井原さんはこんな話もしてくれた。思えばあの話は28年前の事である。
「テレビは1つのブラックボックスになります。テレビとコンピュターが一つになります。つまり1つの機器でテレビにもなる、コンピューターにもなる、映画も観れる、ゲームも出来る。なんなら通信もできる。そういうものに確実になる。テレビジョンもその時の準備をしておかなければならない。」
SF作家アーサー・C・クラークの話を聞いているようだった。
さらに次のようにも語ってくれた。
「僕は大体、黒澤明なんてーものを仮想敵に思っていなかった。黒澤をテレビで追求するとトンデモナイことになる。だいたい、あんな人にかなうわけが無い。金はない、時間が無い、人がいない、テレビ屋はテレビ屋の流儀で戦って来たわけです。」
僕は聞いていて頭が痺れてきたが元祖の気概と迫力に驚愕したことを覚えている。ただ黒澤さんのくだりはちょっと抵抗があった。井原高忠さんも実はかなりの完全主義者で「ゲバゲバ」の時、千鳥が淵のフェアモントホテルに井上ひさしさんや小林信彦さん、河野洋さんなど当代一流の作家を集めて台本を書かせていたのを覚えている。スタジオには早朝からセットも立つ前からきて演出プランを練っていた。
2度目の井原さんとの出会いは15年前、伝説のクリエーターを深夜番組に呼んで中山秀征さんがインタビューするというので、ハワイからわざわざ御大をお呼びした。
井原さんは冒頭から強烈だった。
「今の『ひな壇』って言うの? あのお雛様みたいに芸人・タレントを並べてワーキャー自由にアドリブでやらかしてるの。アレは猿山の「せん○り」(マスターベーション)だな。やはり日本語というものが疲弊したからテレビ番組がつまんなくなったんだな。」
ひな壇はある意味、私・吉川が開発した様なものだったから私は下を向き赤面した。そして、さらに数々の今のテレビ作りの工程・プロデューサー・ディレクターの安易なあり方に苦言を呈した井原さんは、中山秀征さんの「いまのテレビに足りないものは?」と言う質問に、しばらく考えたあと、
「プライド。」
と答えた。
収録後、私に「お達者で。」と言って英国車ベントレーで去って行ったのが井原さんのお姿を見た最後の機会となった。そのとき以来、私はまだコンテンツ作りの現場にいるが、時々井原さんの事を思い出す事がある。番組のプランを考えるとき、構成会議の時、様々な外部組織と交渉をするとき・・・
「井原高忠さんならどうする?」 「お前はあの人に恥ずかしくない仕事をしているか?」 「プライドを持って仕事に臨んでいるか?」井原さんは「俺はただアメリカのテレビをパクっただけだから。」と自虐的にシャレで語る場合もあるし、事情を知らない人が「パクっただけの人」と語ることもあるが、ただのパクり屋ではない。
アメリカ文化を解体し分析し、日本のエンターテイメントとして再構築したのだ。暴論かもしれぬが、黒澤明じゃないが井原さんがテレビ界じゃなく日本映画界に入ったら映画の歴史が変わっていたんじゃないか? あんな研究家で革新的で頭が切れてセンスが抜群な人はこの世には滅多にいないだろうと思う。どこの業界に行っても歴史を塗り替えてしまったんじゃないだろうか。合掌。